光岡英稔さんとの対話/武術を通じて「いのち」を知る

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私がお訪ねしたのは、武術家の光岡英稔(みつおかひでとし)さん。光岡さんは、韓氏意拳(かんしいけん)という中国拳法をはじめとする数々の武術・武道をおさめ、広くご指導にあたられています。

ある著名な武術研究家の先生をして「人類最強の男」と言わしめた光岡さん。いったいどれだけ「いかつい」方がいらっしゃるのだろう……と、正直、ものすごくドキドキしながらお会いしました。しかし、そこにあらわれたのは、意外なことに(?)とっても物腰の柔らかな、笑顔の素敵な男性でした!

しかしながら、武術・武道の世界に身を置き続けた方の言葉のひとつひとつは、やはり、とてつもなくシャープで……。と、同時にものすごくうつくしくて、数時間の取材の間中、私は、とにかく、圧倒されっぱなしでした。体感をともなった言葉の「強さ」を、身をもって感じました。

今回、光岡さんの口から語られた「いのちからはじまる話」は、はっきり言って、難解です。たぶん、これをほんとうの意味で「わかる」ためには、「生きる」ということに真剣に向き合うことが必須なのではないかな、と感じます。

禅の公案のようにして、折に触れて、何度も何度も味わいたい言葉たち満載の対話です。どうぞ、じっくりとおたのしみくださいませ◎

武術を通して宗教や思想の大元を探っていく

小出:今年の6月に光岡先生の韓氏意拳の初心者講習会に参加させていただいて。あの……なんというか、一種独特な体験でした。身体の動作としては、しゃがんだり立ち上がったりしているだけなんですけれど、その動きの中に、なにか、私個人の意志とはまったく無関係な「経験」とも呼ぶべきものが立ち現れてきて……。ごめんなさい、まだ、まったく言葉が追いついていなくて……。

光岡:意拳、武術って言葉でうまく説明できないものなんですよ(笑)。長年やっている人でも。感情も含め、感覚のことは言葉にならないんです。思想と違って、どうしても説明しづらいところがあるから。

小出:そう、まったくぴったりくる言葉が見つからないんです。でも、あの講習会の場で感じたことは、絶対に「ほんとう」のことだ! という直感だけは強くあって。それこそ「いのち」の感触を身体まるごとで感じさせてもらったような……。

光岡:みなさんがその場で経験したり、体験したりしたことっていうのは、すごく貴重なことだと思うんですよ。個人にとってね。でも、そこでなにを経験して、体験したのかということを言語化するには、やっぱり、ある程度時間がかかる。発酵させる時間が必要というかね(笑)。

小出:私の場合、その発酵に、かなりの時間を要しそうです……。

光岡:いや、それはみんな一緒ですよ。現代の教育のシステムに問題があるんですよ。情報の受け渡しだけみたいになっているでしょう、現代の教育って。情報量、アキュミレーション(accumulation)、速度感がいまの教育の中心で、より速く、より多く、もっと収集することが評価の対象になっています。そこが、問題でもありますが。

小出:確かに、大きな問題を孕んでいますよね。

光岡:みんな、知識としてはいろんな言葉を知っているわけですけれど、それと個人の経験、体験が結びついていないんですよ。たとえば、宗教の言葉に「空(くう)」とか「無」とかってあるけれど、その意味を身をもって体得した人って、果たしてどれだけいるんでしょうね? という話でね(笑)。そういったものって、本来、身体を通してしか知ることはできないわけで。

小出:身体を通して。

光岡:いろんな宗教や思想の大元には、必ず、誰かの経験、体験があるわけでしょう?

小出:確かに。どんなに精神的に深い境地に達する経験があったとしても、人間である限り、そこには必ずなんらかの体感がともなっているはずですからね。

光岡:その身体的な経験、体験を言葉に返していったところに、宗教や思想が生まれていったわけです。だから、そういった先人の経験を、いかに自分自身の身体に再現していくか、それが、本来、なにかを学んだり、教わったりということの中心になくてはならないものだと思うんですよね。

小出:なるほど。……ということは、先人がどういう風景を身体で見たり感じたりしていたのか、そこを知っていくための手段のひとつとして武術があるということでしょうか?

光岡:そうですね。武術はそこに位置づけられます。現代を生きる私たちと昔の人とでは、時代背景も、生活様式も、まるっきり違うわけですから、我々のこのままの感性で、昔の人の経験を考えようとしても、必ず失敗してしまいます。

小出:ベースがまったく違うわけですからね。

光岡:そう。だから、昔の人がどういう身体性、身体観を持っていたのか、そこを抜きにして経験を考えることはできないと思います。

小出:ひいては、宗教、思想を考えることはできない、と……。なるほど。現代における武術の重要性が、少し、わかってきたような気がします。

「他者」を通じてのみ「わたくし」を知れる

小出:いまの、昔の人の身体観、身体性の話に関連すると思うのですが、以前、光岡先生がおっしゃっていて、かなり印象的だったことがあって。江戸時代……戦国時代だったかな? そのぐらいの時代の人が、「風に凧が舞っている、これがこころだ」というような言葉を遺しているっていう……。

光岡:ああ。上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)という戦国時代の剣術家の遺した詩ですね。「凧を放ち、風の中でそれをひくがごとし」。要は、「こころ」というのは、凧が風の中に舞って、それが糸でひかれているようなものである、と。

小出:それが「こころ」ですか。それって、現代の我々が定義するそれと、かなり趣が異なるように思われるのですが……。

光岡:ここで言う「こころ」というのは、つまりは「わたくしのなさ」なんですよ。

小出:わたくしのなさ。

光岡:凧が風の中で飛ぶという風景、そこに「こころ」を感じて、上泉伊勢守は一句詠じるわけですよね。そのときに、当事者が、その風景を見ていることは確かなんですけれど、じゃあ、それをどこから見ているのか、というのは、決してわからないんですよ。地上から見ているのか、それとも凧として見ているのか、あるいは風として見ているのか……。そこに主語がないからわからないんです。これって日本語の特徴なんですよね。たとえば「海を見る」という日本語がありますよね。何気ない文ですけれど、これ、英語では成り立たない文なんですよ。

小出:確かに。英語だと、頭に必ず主語が付きますものね。

光岡:そう。IとかHeとかSheとかを入れないと文法が成立しない。でも日本語だと主語なしで意味が通じてしまう。これこそ、日本文化における「わたくしのなさ」の証明ですよね。

小出:「海を見る」ことによって「わたくし」を知り、「風に浮かぶ凧を見る」ことによって「こころ」を知る……。

光岡:私たちは、「他者」を通じてのみ、「わたくし」や「こころ」を知ることができるんです。

小出:「他者」を通じてのみ「わたくし」を知ることができる……。うーん。なんだか変な感じもしますけれど、実際、そうなっているんですね。

「感覚」や「思考」も他者

光岡:さらに面白いことに、「他者」は「他者」であり、「自分」に「他者」がある、ということも、私たちは同時にわかっているんですよね。まず、この「自分」っていう日本語も面白くて。これ、中国語にはない言葉なんですよ。

小出:そうなんですか?

光岡:中国には「自己」という言葉はあるけれど、「自分」という言葉はないんです。だから「自分」というのは、言わば和製漢語なんですね。これ、結構、日本人の感性を物語っているんですよ。「自(みずか)ら」「分かれる」ということで、その時点で他者性を示しているわけですよね。つまり、無自覚のうちに自分の他者性を前提としているわけです。それで、じゃあ、どこからどこまでが他者なのかと言うと、私たちが感じている感覚も他者だし、私たちが考えている思考も他者なんですよね。

小出:感覚や思考も他者!

光岡:自分というものを内側からじっくり見ていくと、実は、感覚や思考と自分とが分かれていることに気づくんですよ。なぜなら“ある感覚”を観察している観察者としての自分と、観察されている感覚があることは、みんなが経験していることです。

小出:でも、感覚や思考が他者であるということは、やっぱり、一般の人にはなかなか理解しづらいことだと思います。「自分の感覚」とか、「自分の思考」というものがあると信じて疑っていない人の方がほとんどなんじゃないですかね? 私というものと、感覚や思考というものがベッタリと癒着してしまっているというか……。

光岡:うん。現代人のほとんどの人はそう思っているでしょうね。でも、よくよく考えてみればすぐにわかりますよ。だって「自分“の”感覚」、「自分“ の”思い」「自分“ の”考え」って、そこに所有格が付くわけでしょう? そのこと自体、実は無意識に、感覚や思考の他者性を認めていることの証拠なんですよ。

小出:所有格が付くことがそれらの他者性の証明になる?

光岡:たとえば、ここにペットボトルがありますよね。これは「私“の”ペットボトル」ですけれど、私そのものではないからこそ、他者として手に持ったり、離したりできるわけです。私たちはこれと同じ文脈で「自分の感覚」や「自分の気持ち」という言葉を使います。

小出:ああ、なるほど。「他者」だからこそ、それを「持つ」ことができる、ということですね。

光岡:そう。感覚や思考は他者であって、自分ではないからこそ、そういった言葉が出てくるわけです。

小出:言われてみればその通りですね。となると、やっぱり、感覚や思考は他者なんですね。面白いなあ。

「からだ」は「空(から)だ」

光岡:あとね、もっと言えば、この私の身体も他者なんですよ。

小出:身体も他者!

光岡:ここにいる私を、ずっと、深く見ていくと、身体も他者であるということがわかってくるんです。というのは、身体という他者を見ている「わたくし」がいることに気づくんですよ。

小出:ということは、身体や、感覚や、思考を見ている私こそが、「わたくし」……?

光岡:「わたくし」とか、「こころ」とか、あるいは「からだ」とか定義されるものですね。

小出:なるほど……。

光岡:たとえば、この空間を「わたくし」だとしましょう。人間って、仮に空間だけがあっても、空間を空間として認識できないんですよ。そもそも人間が知覚できる範囲で「空間だけがある」というようなことはあり得ないのですが。だから、たとえば、こうしてペットボトルを二本、少し離れたところに別々に置く、と。そうするとこの二つの間の空間が見えてきますよね。これと同じように、たとえば感覚という他者と身体という他者との間で、はじめて「わたくし」や「こころ」、あるいは「からだ」をほんの少し垣間見せてくるんです。

小出:となると、「わたくし」に実体はない、ということでしょうか。

光岡:そう。その実体のなさを、昔の人は「空っぽさ」ということで「空(くう)」と言ったり、「なさ」「無」と言ったりしたんでしょうね。やまと言葉の「からだ」というのも「空(から)だ」から来ているんですよ。

小出:へええ……!

光岡:昔の人は、「身(み)」と「からだ」を分けて使っていたんですよ。「身(み)」は、木の実とか、魚の身とかと同じですね。つまり、身(み)は実体として「ある」ものを指し、一方「からだ」は「なさ」を指します。この区別も、私たちは無自覚のうちにしているんですよね。だから、たとえば「言葉が身に付く」とは言うけれど、「言葉がからだに付く」とは言わないわけです。

小出:確かに……。

光岡:「からだ」が「空(くう)」や「無」であるからこそ、そこで「こと」が起きていくんですよね。どこか「空いて」いるところがないと「こと」は起きない。たとえばこの部屋がコンクリ詰めになっていたら、中のものは身動きが取れないですよね? つまり「こと」が起こりようがない。でも、そうはなっていないからこそ、その開かれた空間に「生命(せいめい)」という他者がそこで生じるんですよね。

小出:「生命」という他者……。

光岡:「生命」も他者ですよ。「生命」の側から見れば、私たちが人間であっても、恐竜であっても、微生物であっても構わないわけですから。

「自覚・自省できること」は人間の最大の特徴

光岡:でも、人間の側から見れば、人間が人間になった理由というのは必ずあるはずで。猿や犬ではなく、人間として存在している理由がね。

小出:人間として存在している理由。

光岡:不思議な生き物なんですよね、人間って。人間がほかの動物と違うところって、「自覚」を持って生きているというところなんですよ。

小出:「自覚」ですか。

光岡:ほかの動物って後ろを振り返らないでしょう? 基本的に、前向きに……と言ったらおかしいかもしれないけれど、本能と生命の促進力だけで生きているんですよね、彼らは。でも人間はそうはなっていない。どこかで内面的に時が止まって、それによって「過去」という経験ができて、その中で「省みる」という行為が生まれていって……。その行為に伴って、「他者」というものも生まれていったんですね。

小出:なるほど。「他者」は、「時間」の中にしか存在しないわけですものね。

光岡:時間の中にいる「内面的な他者」を通じて「自分」を知る、ということができるようになった。それで、この「自覚」が生じたわけです。しかし、人として自覚できることは人間の強みにもなるけれど、弱みにもなるところなんですよ。

小出:弱みですか?

光岡:たとえば、武術において、相手が攻撃を仕掛けてきているのに、自分が思いとどまってなにもしなかったら、あっという間にやられてしまうわけでしょう(笑)。だから、ことによっては思いとどまらない方がいいこともある。それと同時に、思いとどまることによって自分が助かる場合もある。たとえば、イラッと来たからと言って、即座に相手をナイフで刺すようなことは、やるやらないは個人の判断として、一瞬、躊躇しますよね。その躊躇する力は自覚から生じます。

小出:激情に任せた行動の責任は重いですからね……。そこを振り返る力が人間に与えられているのは、そういう意味で言えば、ありがたいことなのかもしれません。

光岡:強みになるか、弱みになるかは、時と場合によりますよね。だから、どんなときに思いとどまらずに行動して、どんなにときに思いとどまるべきなのか、その判断力を、武術の稽古では磨いていくんですね。いつ動いて、いつ止まるのか。それをその場で見極める力を養うのが武術です。

小出:判断はいつだって「いま」しなくてはいけないわけですからね。武術は「いま」にいる技術と呼ぶこともできそうですね。なんだか、ますます武術の重要性がわかってきた気がします。

「上手にイラッとする」方法を身に付ける

小出:少し、私個人の話をさせていただくと、実は、私、これまでの人生で、ほとんど武術的なものに触れてこなかったんですね。一応、中学の三年間は剣道部に所属していましたけれど、まあ、才能がなかったんでしょうね。もう、びっくりするぐらい試合で勝てなくて(笑)。痛いし、怖いし、毎日の練習も全然たのしくなくて。三年生になって部活を引退したとき、心底ほっとしました。「もう、これで、“戦い”の世界からオサラバできるぞ!」って(笑)。

光岡:そうでしたか(笑)。でも、武術、武道に関わる人で、小出さんのような人は決して少数派ではありませんよ。先生も生徒も、根本的に、なぜ、武術、武道をしているのか分からずしている方がほとんどかも知れません。せいぜい、大会に出て勝つことか、取って付けたような精神論か誰かの有名な言葉を先生側がもっともらしく言うことが、みんなのわからなさの解消どころになっています。でも、小出さんはちゃんとそこをオカシイと感じて止めたんですね(笑)。

小出:いや、私の場合は単に向いていなかっただけですよ(笑)。でも、確かに、あれでちょっとアレルギーになってしまったところがあるんですよね。それ以降、人間同士、わざわざ戦うなんて意味がわからない、なんてことを言って、武術的なもの全般を、割と否定的に見るようになってしまった。でも、よくよく考えたら、人間である限り、実際に手や足を出さないにしても、日々、多かれ少なかれ、なにかしらの「怒り」を感じながら生きていかなきゃいけないわけで。その「怒り」のエネルギーを、いかに自他に不都合でないかたちで消化していくのか、そこは、人間として、ちゃんと学ぶべきところなんじゃないかな、と、いま、あらためて思っています。

光岡:そうですね。イラッときている時点で、人間は「戦っている」からね(笑)。自分とも戦っているし、他人とも戦っている。

小出:「怒り」という感情は、たぶん、自然なものとして備わっているので。それをなかったことにするのは、やっぱり、すごく不自然なことなんじゃないかなって。

光岡:だから、人間、上手にイラッとする方法を身に付けないといけないんですよね。

小出:上手にイラッとする(笑)。

光岡:大事なことなんですよ。動物の場合、「イラッ」ときたら、その場で「ガブッ」とやってしまうわけでしょう?

小出:「イラッ」と「ガブッ」が同時ですよね。

光岡:そう。でも人間の場合、他者を設けているがゆえに、そこで自分を省みてしまうんです。「イラッ」ときているその経験を瞬時に省みてしまう。省みてしまうからこその苦しみというのも人間には生じるんですけれど、でも、それは実際に「ガブッ」とやってしまった時の苦しみよりはマシなんですよ。

小出:「ガブッ」とやってしまった後悔って、かなり苦しいですよね。肉体的にも、精神的にも。相手が大けがなんかしてしまったらなおさらですよね。

光岡:そういう風に自分を省みる力を持ったからこそ、人間はここまで繁殖、繁栄することができたわけです。でも微妙なのが、人間って、人間の数が増えれば増えるほどイラッとしやすくなってしまうということで(笑)。増えると距離が縮み、距離が縮むと窮屈に感じ、イラっとなりやすくなる。そこで、空いている空間を内面的に求め出すんです。頭では概念や観念で逃げ場を求め、身体では「からだ」を求めて空いているところや、「なさ」を省みようとしはじめます。

小出:なるほど。

光岡:だからこそ、ちゃんとエネルギーを然るべき方向に向けていく工夫が必要なんですよ。同じエネルギーでも、怒りとして発現させるのか、労働力に昇華させていくのかで、全然違ってきますから。

「わけわからない」が近代文明のベース

光岡:でも、現代って、どうしても身体のエネルギーを消費しづらい生活になってしまっていて。たとえば、小出さん、今日、ここまでどうやってお越しになりましたか?

小出:電車に乗ってきました。

光岡:昔だったら、ここまで歩いてこなきゃいけなかったわけでしょう。まあ、そんなことを言ったら、私も岡山からここまで歩いてこなきゃいけないことになるわけですけれど(笑)。それで、みんな、その余ったエネルギーを、たとえばジムに行って、ランニングマシーンで発散させたりしているわけです。しかもジムには車で行って、帰りも疲れたからと言って、階段を使わないでエレベーターやエスカレーターに乗って。おかしなことをしているんですよね、現代人って。

小出:いやあ、ほんと、なにやっているんだろう。無駄、無駄、無駄のオンパレードだ……。

光岡:そう、無駄なことばっかりしているんですよ、いまの人たちって(笑)。でも、その無駄こそが、現在の経済を成り立たせているという側面もあるんですよね。たとえば電気を作るときも、太陽エネルギーをそのまま使えばいちばん効率がいいんだけど、それをわざわざ一度電気に変えて、熱エネルギーに転換しているわけですよね。これってすごく無駄なんだけど、無駄の分だけ経済は活発に回っていくわけだから。

小出:うーん……。

光岡:かなりおかしなシステムではあるんだけど、事実、そういう風に成り立ってしまっているんですよね。近代文明を築いていく中で、そういう風になってしまった。

小出:そういう風に「作った」わけではなくて、「なってしまった」んですね……。

光岡:近代文明の発展のベースにはテクノロジーの発展があるわけですけれど、そもそも科学技術自体が「できちゃった」ものなんですよね。偶然の発見の連続の上に成り立っているわけでしょ、科学技術って。

小出:なんかよくわからないけれど、この物質とこの物質を混ぜたらこんな風になって、なんかよくわからないけれど、この物質とこの物質を混ぜたらあんな風になって、って。

光岡:そうそう。その「よくわからないけれど」というところを、よくよく研究しないままに、技術だけがどんどん発達してしまった。

小出:ベースに「わからない」ものを残したままに文明を作っていったら、できあがったものは、そりゃあ「わけわからないもの」になって当然ですよね……。

光岡:だからこそ、人間には「自覚する力」というのが必要になってくると思うんですよ。「わけわからない」ことに無自覚だから、「わけわからなさ」を、わけわからないまま促進させようとするシステムが更に生まれてしまうわけですから。

小出:確かに……。

存在が完全に消えたときに勝機が生まれる

小出:でも、ある意味、どうして私という人間が、いまここにこうして存在しているのか、それ自体が絶対的に「わからない」ことであるわけですよね。そもそもほんとうに存在しているのかどうかも「わからない」わけですし……。

光岡:そうですね。

小出:人間、ほんとうになにかを「わかる」ことなんかあるのでしょうか?

光岡:まあ、たとえば「おいしい」とかね(笑)。

小出:ああ、それはわかります(笑)。

光岡:「冷たい」とか、「あたたかい」とかもわかるでしょう?

小出:はい。「痛い」とか「気持ちいい」とかもわかりますね。

光岡:そうなると、やっぱり、感覚という他者を通して知っていくことが、私たちがなにかを「わかる」ことと密接に関わってくるということになってくるんですよね。

小出:なるほど。私という実体的な主体があって、それが行動を通してなにかを知っていく、というわけじゃなくて、やはり、あくまでも、他者を通して、「わたくし」というものを知っていく、という道筋なんですね。

光岡:「わたくしのなさ」を知っていくというかね……。

小出:「わたくしのなさ」はひとつのキーワードですね。

光岡:その話で言えば、これは私個人の経験なんですけれど、武術でうまくいくときって、大きく分けてふたつのパターンがあって。ひとつは存在を上回る存在になったとき。もうひとつは存在が完全に消えたとき。それで、最終的には、存在が完全になくなったときの方が「勝つ」んですよ。

小出:へええ……! ああ、でも、なんとなく、ではありますけれど、おっしゃっていることの意味がわかる気がします。さっきも申しあげた通り、私にはほとんど武術の経験がないんですけれど、それでも、人生において、なにか一瞬で返答をしなければいけないとか、反応を返さないといけないとかいうとき、頭で考える自分がいると、どうしても遅れを取ってしまうんですよね。逆に言えば、頭で考える自分が完全に消えて、その場の流れそのものになっていると、気がついたときには、すべてがうまく進んでいた、みたいなことになっていて……。

光岡:うん、そういう感じ。武術においても、向こうからやってくることに対して、基本的には受け身でいるんですよ。受け身でいて、状況が近づいたときに、都度対処していく。それで、その対処している自分っていうのは、自分の内面にいるんですね。

小出:その内面にいる自分に、すべておまかせしてしまう、という感じですかね。

光岡:もちろん経験値から判断することもあるし、すべてゆだねるわけではないのですが、自力ではどうしようもないところへ自力で行き、後は基本的には受け身でいて、内面の無さから動きが生じるのを待ちます。それを待つことなく自分でやろうとすると、タイムラグが生まれて、失敗を招くんですよね。

小出:興味深いです。

自然からみればすべては自然。だけど……

小出:前回の講習会のときに、光岡先生が、「自然の側からみれば、すべては自然の産物ということになる。でも、人間の側から見れば、自然なものと不自然なものとの間の差は歴然としてある」といったようなお話をされていて、それがものすごく印象的だったんです。私自身、そこにずっと問題意識を持っていたというか、解決できないものを感じていたので……。

光岡:そうですね。たとえば、このプラスチックの椅子とか、蛍光灯とか、それこそ原発とかを、私たちは自然のものであるとは感じないわけですよね。木や、川や、山を自然のものだと感じるのと同じようには、それらを見られないわけでしょう?

小出:はい。

光岡:どうしても、人工的なものを不自然だと感じてしまう感性というのが人間にはあって。でも、それと同時に、大枠で考えれば、自然は、そういったものすらひっくるめて、すべてを自然なものと見ているわけです。人間の存在というか、人間の行いそのものも、自然から見れば、すべて自然である、と。でも、それは決して人間側の見解ではないですよね。人間側がそう感じるということは、たぶんないと思うんですよ。

小出:ほんとうにそう思います。すべて自然のものと「考える」ことはできるけれど、実際にそう「感じる」ことは難しいです。

光岡:実際に山道を歩いていてキノコのように土からスマホが生えていたらギョッとするわけだしね(笑)。

小出:ほんとうに。それを「自然」と見なすことは絶対にできない。実際にそう感じられないのに、「すべて自然の中で起きていることなんだから」と言って、やりたい放題やってしまうのは、やっぱり、違うんじゃないかな、と思うんです。

光岡:そうそう。ナチュラリストになってしまうのも問題ですよね。

矛盾を矛盾として矛盾のまま扱うのが武術

光岡:うちの親も、ちょっとナチュラリスト的なところがあったんですよね(笑)。私、子どもの頃、山の中で生活していたんですよ。それで、山の中で生活するためには、ブルドーザーを入れて道を作らないといけない。家の周りの木を切り倒さなきゃいけないんですね。でも、子どもの頃の私はそれに疑問を感じて。小学校三、四年生の頃だったかな? 「どうして自然が好きで自然の中に住むのに、自然を壊さないといけないの?」と父に聞いたんです。そうしたら「これをしないと家も建てられないし、暮らしていけないから、仕方ないんだよ」と返されて(笑)。

小出:それは……(笑)。

光岡:全然納得いかないでしょう(笑)。その矛盾は、私の中にずっと残りつづけましたね。

小出:矛盾は解消されましたか?

光岡:いや、これは消えないと思いますよ。私が四つ足歩行の動物に戻ったら「すべては自然」と言うこともできるかもしれないけれど、そこまで回帰しないと、実感をもって語ることはできないでしょう。それに四つ足に戻ると言語能力や概念を失っていくでしょうから、少なくとも今の人間の定義からは外れて行きます。

小出:人間である限り、ずっとその矛盾を抱えて生きていくしかない、ということですね。

光岡:そうですね。解決することはできないと思います。でも、解決できないからと言って、人間にはなにもできないかと言うと、決してそうではなくて、都度、自覚自省し、冷静に物事を見たり、状況判断をしたりして生きていくことはできるので。

小出:それが武術につながっていくのですね。

光岡:そうですね。武術を、「矛盾を矛盾として矛盾なく扱う技術」という風にお考えになる方もいらっしゃるんですけれど、私は、「矛盾を矛盾として矛盾のまま扱う」のが武術である、と。そう考える方がしっくりくるんですよ。

小出:矛盾を矛盾として矛盾のまま扱う……。

光岡:人間の行いって、そもそも矛盾だらけなんですけれど、武術なんかとくに矛盾していますよね。同種同士殺し合わない方がいいし、生命を脅かし合わない方が絶対にいいのに、どういうわけか仲間内で「争う」という手段に出るわけですから。そして、より殺傷性の高い技や術ができ、そこから武術は発生したわけで。そもそもの最初から武術がテーマとしているところは矛盾しているんですよ。

「矛盾が普通」という感性の大切さ

光岡:それに、さっきもお話ししましたけれど、人間は自分自身を省みることができるから、人を殺めたらいけないということを、直感で知っているんですよね。でも、人は「神がアイツを悪いやつだと言っている、だから俺はアイツを殺す」とか、そういう大義名分を神からもらったり、どこかから持ってきたりして、直感的にオカシイと感じても、そういった感性を観念や理屈で捻じ曲げて、実際の行動に移してしまうようなことがよくある。武術って、その感じたことと行動の狭間に立つことなんですよね。

小出:狭間ですか。

光岡:やっちゃってもダメだし、やられてもダメだし……みたいなね。やっちゃえるけどやっちゃダメというところに立たなきゃいけない。だから、すごく面倒なんですよ。武術家って(笑)。

小出:どこにも落ち着けないんですね……。

光岡:常に落ち着いていて、冷静に状況を把握する必要もあり、人間として抱えた矛盾とも常に付き合っていく必要もある。それが、武術家として、人間として生きて行くということなのかも知れません。

小出:そもそも矛盾を抱えた生き物として生まれてしまったという事実、光岡先生のお話は、いつだってそこからスタートしている。だからこそ、ものすごいリアリティーを感じるんですね。

光岡:そう、どう足掻いたって逃げようとしたって私たちが人間である以上は人間から逃げられないし、人間であることを避けて通れないでしょ。「人間は矛盾している」。じゃあ、その矛盾を抱えたままに、いかにして人間であることに開き直ることもなく、深刻になることもなく、清々しく、気持ち良く、ひとりひとりが生きていこうか、というところです。

小出:矛盾を解消してしまったらいけないのでしょうね。それをやると人間ではなくなってしまうから。

光岡:そう。矛盾を消しちゃったらダメ。だけど、その場その場では結論を出していかないといけない。でもね、そうやって生きていると、絶対的な答えのなさというのが、もう、ほんとうに、理屈じゃなくわかってくるんですよね。そうすると、この矛盾と、あの矛盾と、その矛盾が、それこそまったく矛盾し合っているのに、各自で独立して存在しているということにも目が行くようになって。

小出:ああ。矛盾し合いながらも、すでにそういう風にして存在できているよね、共存できているよね、と……。

光岡:そうなんですよ。大枠の自然の中では、すべては自然なものとして存在しているわけでね。自然界の多様性を見ると、矛盾を矛盾のまま矛盾としておくことが、絶対的に「あり」なんですよ。

小出:なるほど。でも、いま光岡先生がおっしゃったような道筋を辿らないと、その「あり」には辿り着けないですよね。

光岡:矛盾は矛盾のままでいいというか、矛盾をなくそうとした瞬間に、すべては狂いはじめてしまうことはわかるので。矛盾が普通なんだ、という感性を育てていくことは大切なことだと思いますね。

小出:……というところでお時間です。なんだかものすごく壮大で、示唆に富んだお話をお聞きしてしまった気がします。即座に理解することは難しい部分もたくさんありましたけれど、自分なりに、時間をかけて発酵させてみますね。ここからなにかが大きく育っていくような予感がします。光岡先生、今日はほんとうにありがとうございました。

光岡:ありがとうございました。

光岡英稔(みつおか・ひでとし)

1972年岡山県生まれ。日本韓氏意拳学会会長および国際武学研究会代表。多くの武術・武道を学び、11年間ハワイで武術指導を行う。著書に『武学探究』(甲野善紀氏との共著/冬弓舎)、『荒天の武学』(内田樹氏との共著/集英社)、『生存教室 ディストピアを生き抜くために』(内田樹氏との共著/集英社)、監修本に『増補新版 FLOW:韓氏意拳の哲学』(尹雄大著/昌文社)、『韓氏意拳〜拳の学としての意味』(スキージャーナル)がある。

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