横田南嶺さんとの対話/「ひとつのいのち」と「多様性としてのいのち」

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、私、小出が今回お訪ねしたのは、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺さん。横田老師は、拙著『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』(KADOKAWA=刊)でも、ほんとうにおおらかであたたかな世界観を語ってくださいました。中でも印象的だったのが以下の箇所。

朝日が昇らなきゃいのちはない。空気がなきゃいのちはない。風が吹かなきゃいのちはない。あの人がいなきゃいのちはない……。そうやっていくと、自分というものが、ずーっと、こう開けてくる。そこから「生きよう」という力が出てくるんじゃないですか。

横田老師のつむぐおことばによって、個別のいのちを超えた、大きな大きなつながりの中にあるいのちの感触をとてつもなくリアルに感じて、思わず涙をこぼしそうになってしまったこと、いまでもはっきりと覚えています。

今回、あらためて対話をお願いしたのですが、前回と同様……いや、それ以上にいのちの実相にするどく迫るようなお話をしてくださって、ほんとうに感激いたしました。対話の中に出てくる俳句や短歌や詩も、すべて素晴らしいものばかりです。また、今回は、「ひとつ」と「多様性」という、一見相矛盾するようなテーマについても詳しくお伺いすることができました。

お読みいただいたあと、きっと、視界がすっきりと開けて、これまで以上に「違い」に対して寛大なこころを持った自分が待っていてくれることでしょう。横田老師の、うつくしく、力強いおことば、ぜひ、じっくりと味わってくださいませ!

※このダイアローグをベースとしたイベントを開催いたします。詳しくは記事の最後でお知らせいたしますので、どうかお見逃しなく!

いのちの話をすること自体に無理がある?

小出:横田老師には、ちょうど一年ほど前に、「さとり」をテーマとしたお話をお聞かせいただきました。今回は「いのちからはじまる話をしよう」ということで……

横田:その前にね、文句じゃありませんけれど、言いたいことがあるんですよ。

小出:な、なんでしょう……。どきどきします……。

横田:まずね、いのちの話をするっていうこと自体、気に入らないんです。

小出:ええ~!? そんな……(笑)。

横田:と言うのはね、いのちの話をすると、いのちを対象化することになってしまうんですよ。

小出:ああ……。こことは別のどこかに、独立して存在しているものであるかのように語らなきゃいけなくなってしまう、と……。

横田:そういうこと。しかし、こうして聞いているのがそのままいのちなんだ。こうして語っているのがそのままいのちなんだ。以上。終わり!(笑)。

小出:どうしよう。開始1分で終わっちゃった(笑)。

横田:もうね、それ以外のものはないんですよ。いのち以外のものはない。だからいのちについて語ろうなんて、そもそもおこがましいお話なんです。

小出:申し訳ありません……。

横田:ここにこうしてやって来たのがいのち。こうしてお茶を飲んでいるのがいのち。こうして動いているのがいのち。もうそれだけですよ。ここにはいのちの活動以外のものはないんだ。

小出:はい……。しかしながら、老師、おことばですが、今回、私は、「いのちとは」というテーマのお話をうかがいにやってきたわけではないのです。「いのちからはじまる話をしよう」ということで参りましたので、どうか、なにとぞ……

横田:いのちに「はじまり」も「終わり」もありませんよ。

小出:……ぐうの音も出ません(笑)。

横田:まあ、冗談はこのぐらいにしておいて(笑)。さあ、いのちからはじまる話をしましょうか。

小出:是非! どうぞよろしくお願いいたします。

全体の動きがいのちそのもの

横田:こんな俳句があります。

秋風や眼中のものみな俳句 高浜虚子

横田:この「俳句」というのを、そのまま「いのち」に置き換えられると思っているんです。秋風や眼中のものみないのち。目に見えるものみないのちですよ。いのち以外のものはない。はい、終わり!(笑)

小出:また終わっちゃいましたね(笑)。

横田:だってこれ以外ないんだもの。それじゃあ、もう一句、例をあげましょうか。

命なりわづかの笠の下涼み 松尾芭蕉

横田:炎天下でしょうな。笠の下のほんの小さな陰に、いのちを感じるっていうんでしょうねえ。この「命なり」ということばが好きなんですよ。

小出:命なり……。

横田:この芭蕉の句の元になったと言われているのが西行法師の作品です。

年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山 西行

横田:自分も歳をとった。二度とこんな坂は越えられないと思った。しかし、今夜、この峠を越えることができた。これが自分のいのちなんだなあと、こう、感じるんですね。

小出:すごい……。実感のこもった歌ですね。

横田:もうひとつ。作者は不詳なんですけれども、こういう作品があります。

ふる雪を手にとりみれば消ゆるなり空に降らせてわがものとみよ

横田:雪が降っているわけですよ。それで、ああ、綺麗だなあと。自分のものにしようと思って掴まえたら、雪はたちまち手のひらで溶けて消えてしまう。掴まえようとせずに、降る雪がそのまま我が雪なのだと、そう思って眺めよと。こういう歌です。

小出:これは……。なにか、胸にぐさっと……。

横田:いのちも一緒なんです。「我がいのち」なんて、ほんとうはどこにもないんだ。みんな「俺のいのち」「私がいのち」と掴まえたがるけれども、「これが我がいのちだ!」と掴まえた瞬間に、それは消えてしまっているんですね。

小出:ああ……。

横田:全体が全体のままでいのちなんです。全体の活動がいのちそのものなんですよ。

小出:全体の動きがいのちそのもの。

腸内細菌と南無阿弥陀仏

横田:Temple Webに発酵生活研究家の栗生隆子さんとの対話が掲載されていますけれどね、その中でも語られていたように、私たちひとりひとりは、ひとつひとつの腸内細菌のようなものだと思っているんですよ。

小出:腸内細菌ですか。

横田:そう。無数の細菌が、腸の中でうごめきながら、実に見事な調和を保ってはたらいている。いのちというのは、そのようなものなんじゃないかと思ってね。

小出:ひとつひとつが、替えの利かない存在なんですよね。

横田:そういうことなんだね。ちゃんと、それぞれの役割を、それぞれがきちんと果たして、そうしていのちがいのちとして、全体としてはたらいている。

小出:すごいことですよね。細菌同士が相談して役割を決めているわけでもないのに、きちんと調和は取れていて……。

横田:そういう不可思議なるはたらきがいのちなんです。不可思議としか言いようがないんです。誰がどうしてどのように動かしているのか、これは絶対にわからない。そういう全体のはたらきを、まあ、小出さんも念仏者でいらっしゃいますけれども、浄土教では「南無阿弥陀仏」と表現するんでしょうなあ。

小出:そうですね。その不可思議さにうたれたときに、ごくごく自然に「南無阿弥陀仏」って……。阿弥陀如来は、不可思議光如来とも呼ばれますしね。

横田:そうなんでしょうなあ。もうそれで本質のところはぜんぶ語られてしまうね。……はい、終わり!(笑)

小出:ごめんなさい、まだまだうかがい足りません(笑)。

横田:じゃあね、まあ、我々は臨済宗ですからね。禅ではいのちというものをどう見ているのか、次はそこをお話ししていきましょうか。

小出:よろしくお願いします。

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