前野隆司さんとの対話/いのちのはたらきと幸せは科学で証明できる!?

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私は、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授の前野隆司さんをお訪ねしました。

前野先生のご専門は、幸福学、イノベーション教育、システムデザイン、ロボティクスなどほんとうに多岐にわたりますが、そのすべての分野の背後には、大きないのちのはたらきへの畏怖と、尽きることのない興味が共通して感じられるように思います。こんなことを言ったら失礼かもしれませんが、前野先生の思想にはじめて触れたとき、「この方は、きっと、いのちの探究者仲間だ!」と、私は非常に胸が熱くなったのです。今回の対話の依頼にご快諾いただけたときは、全力でガッツポーズでした(笑)。

前野先生が科学研究という分野から導き出された結論が、私自身がひとりの仏教者として日々感じていたことと大きく重なること、そして、それに緻密で論理的なことばが正確にあてがわれたことがうれしくて、今回の対話では、少し、私がしゃべりすぎてしまったようなところがあります……。(前野先生ファンのみなさま、ごめんなさい!)しかし、それもまたいのちのはたらき、前野先生の「受動意識仮説」にのっとって言うのなら、無意識のはたらきのなせる業、ということで、ご理解いただけますとありがたいです。

科学という道。仏教という道。料理という道。スポーツという道……。道は無数にあるけれど、その真ん中にあるいのちは、間違いなく、ひとつ。前野先生とのあたたかな対話の中で、私はその直観を、あらためて確かなものにすることができました。みなさんにもなにか伝わるとうれしいです。少し長いですが、今回も、最後までじっくりとおたのしみくださいませ!

※このダイアローグをベースとしたイベントも開催いたします。詳しくは記事の最後でお知らせいたします。どうかお見逃しなく!

死ぬのが怖くなってきてしまいました

小出:今日は「いのちからはじまる話をしよう。」ということでお邪魔させていただいています。

前野:いのち、ですか。

小出:はい。それで、前野先生には、まずは、素朴に、「死ぬのは怖くないですか?」という質問をぶつけてみよう、と。

前野:ははは(笑)。

小出:先生、数年前に『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(講談社=刊)という本をお出しになられていますよね。拝読したのですが、もう、とにかく圧倒されました。哲学から進化生物学、いま先生が専門に研究されている幸福学まで、ありとあらゆる学問分野を縦横無尽に巡って、ごくごく緻密に、「死ぬのは怖くない」という結論を導き出されています。

前野:うん。確かに、その本を書く前は、僕、死ぬことが怖くないという境地がよくわかったと思っていたんですよ。……でも、実は、書いているうちにどんどん怖くなってきちゃいました(笑)。

小出:ええ? そうだったんですか(笑)。

前野:もうすこし正確に言うと、死ぬことが怖いというよりは、ほら、仙厓義梵(せんがいぎぼん)という高名な禅僧が「死にとうない」って言いながら死んだでしょう? あの気持ちがものすごくよくわかるようになったんです。

小出:本を書いて、死についての考えを整理していくうちに、生についての考えも同時に整理されていったんですね。そこであらためて生の素晴らしさに気づいてしまった、と。

前野:うん。だって、「死ぬのは怖くないな」と思いながら生きているこのいまって……まあ、生自体が幻想なわけですけれど、やっぱり、たのしいじゃないですか(笑)。

小出:はい、たのしいです(笑)。ただ、それはあくまで「生きたい」という方向の欲求であって、先生が緻密に論を重ねて導き出された「死ぬのは怖くない」という結論自体にはゆらぎはないわけですよね?

前野:確かに。基本的には、そうですね。

小出:実は、私も、死それ自体は、別に怖くないな、と思っているんです。

前野:ほお。死ぬのは怖くないですか?

小出:はい、死それ自体は怖くないです。ただ、死周辺のあれやこれや……たとえば大切な人たちとの別れとか、やり残したこととかを考えると、にわかに恐怖が湧いてくるようなことはもちろんありますけれど、死という現象自体に、特別な恐怖は感じていないです。

前野:死んでなんにもなくなってしまうことに対しては、どう思いますか? 怖くないですか?

小出:なんにもなくなる、というより、そもそもここにはなにもなかったんだ! みたいな気づきが、私の中にはドーンとあって。だから、死という現象をもってしたところで、結局、なにひとつ損なわれるものはないんだな、ということは、理屈を超えて理解しているんです。それなら、死自体は、決して、恐怖の対象にはならないなって。

前野:なるほど。うん。それは、そうですよね。

小出:でも、もちろん、いざ自分の死を目前にしたら、どうなるかわからないですけけれどね。思いっきりジタバタして「死にとうない!」って叫びながら死ぬかもしれないですけれど、まあ、そのときはそのときで(笑)。

「生自体が幻想」と気づいた途端にめちゃめちゃ幸せに

小出:さきほど、「生自体が幻想だ」といったようなことをおっしゃられましたけれど、先生がこのことに気づかれたのはいつ頃だったのでしょうか?

前野:『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房=刊)という本を書いた頃でしたから、いまから12年ぐらい前になりますかね。

小出:私の愛読書のひとつです。「受動意識仮説」はかなりセンセーショナルでしたね。次の行動を決めているのは、私たちの意識ではなく、無意識と呼ばれる領域である。私たちは、無意識の領域で決められたことを受け取って、そのあとで「自分で行動を決めた」と錯覚しているに過ぎないんだと……。これって、つまり、ここにはほんとうになんにもないんだよ、ということですよね。

前野:そうです。心は無だということです。

小出:はい。それをいまの話につなげると、心が無であり、ここにはなにもないのだったら、死によってなにかが損なわれることすらない、よって、死は恐怖の対象にはなり得ない、ということになりますよね?

前野:そういうことですね。だから、僕も「受動意識仮説」を発見したとき、めちゃめちゃ幸せになっちゃったんですよ(笑)。

小出:めちゃめちゃ幸せに……(笑)。確かに、死って、人間にとって一番の恐怖ですからね。そこが克服されてしまったら、幸せにならざるを得ないですよね。先生は、とくに、幼少期から死ぬということが怖くて怖くてたまらなかったとご著書にもお書きになられていましたし。それが一気にクリアになったら……。

前野:そう。だから、この本を書いてしばらくは、この世のすべては幻想なんだ、生自体がまぼろしなんだ、私自体がまぼろしなんだ、もうなにもやることはない、欲しいものはなにもない、これ以上の幸せはないんだからって本気で思っていました。もうするべき仕事はないのだから、いっそ出家してしまおうかと思った時期もありました。

小出:そうだったんですか。でも、結局在家というお立場にとどまられたのはどうしてだったのでしょう?

前野:それは、やっぱり、現代の世の中の様子がいままで以上にはっきりと見えてきたからですね。いくら心は無で、死も、生も、私も、ぜんぶまぼろしなんだと言っても、事実、この世を生きていく上で、悩んだり、苦しんだりしている人たちはたくさんいらっしゃるわけですよね。

小出:そうですよね。それこそ、死を過剰に恐れたり……。

前野:そう。世の中の大半の人たちは、素朴に、死や、その他さまざまな事柄を恐れているわけですよ。そういう事情がリアルに見えてくると、ああ、やっぱり、僕にはまだまだここでやるべきことがあるな、と。「心は無だよ」「死ぬのは怖いことじゃないよ」と結論だけを伝えるのではなくて、じゃあどうやったらそこに近づいていけるのか、その方法論のようなものを、自分の得意な研究とか学術的な方法によって、お伝えしていく必要があるなと思ったんです。

小出:なるほど。その「方法論」というのが、先生が現在ご研究の主軸におかれている「幸福学」になるわけですね。

前野:そうですね。幸福学はそのひとつです。システムデザイン・マネジメント学のように、他のやりかたもやっていますけどね。

小出:先生の歩まれた道筋が、ざっくりとではありますが、理解できた気がします。

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