松本紹圭さんとの対話/今、いのちがあなたを生きている

大変お待たせいたしました。Temple Webのメインコンテンツ「Dialogue」、いよいよ公開です!

「いのちからはじまる話をしよう。」をメインテーマに掲げ、各界著名人と、私、小出遥子が、「なにものでもないもの」同士、本気の対話を繰り広げ、それをそのまま記事にしていくというこの企画。記念すべき初回にご登場いただくのは、浄土真宗本願寺派・光明寺僧侶の松本紹圭さんです。

松本さんは、私が最初に親しくなったお坊さんであり、さらにこのTempleというプロジェクトを始動させる大きなきっかけをくださった、大変重要な人物でもあります。松本さんとの出会い、そしてその後の対話の積み重ねがなければ生まれない「気づき」や、それに基づいて作り出された「場」がたくさんありました。「いのち」を真摯に見つめ、愚直に生きていく大事な仲間としての松本さんの存在が、どれだけ私を励まし、支えてくれているかわかりません。ほんとうに、稀有でありがたいご縁です。

今回の対話も、普段着の(松本さんは法衣をお召しになっていますが……)非常にゆったりとした雰囲気の中で始まりました。しかし、お互いにリラックスしすぎて、なんの前提の共有もなく、最初からものすごい深度で対話が進んでしまい……。これは果たして第三者に「伝わる」記事になっているのかどうか、正直、ちょっぴり不安です……。でも、間違いなく、「いのち」の根底に触れるような対話になっています。そこに関しては自信があります。

「今、いのちがあなたを生きている」 ほんとうに、これに尽きるのではないかなあ……。いま、そんなことをしみじみと実感しています。初回からそんな対話ができたことをしあわせに思います。松本さん、ほんとうにありがとうございました。

ぜんぶで2万字以上の超ロングダイアローグ。きっと、みなさんにも深いところでなにかを感じていただけるはず。ぜひ、最後までじっくりとおたのしみくださいませ◎

今、いのちがあなたを生きている

小出:今回は「いのちからはじまる話をしよう」ということでお邪魔しています。

松本:いのち……。なんだか難しそうですね。

小出:いきなりこんなテーマをぶつけてしまってごめんなさい(笑)。少し補足をすると、Templeは、いままで1年半以上、「ほんとうに触れて自由を生きよう」というテーマを掲げてやってきたんですね。ただ、いまさらなんですけれど、この「ほんとう」っていうことばは、ちょっと、あまりにも漠然とし過ぎているというか。テーマが大きすぎるがゆえに、逆に話が広がっていかない。そういう問題が見えてきて……。それで、ここで言う「ほんとう」っていうのは、二項対立を超えた世界のことなので、もちろん、対極に「ほんとうじゃないもの」を据えた「ほんとう」では決してないんですけれど、まあ……あえて言うのなら「ほんとうのいのち」。

松本:うん。

小出:「ほんとうのいのち」を知って、直にそこを生きていく。その可能性を探っていくプロジェクトとして、Templeを位置付けたいな、って。……ということから、「いのちからはじまる話をしよう」と。

松本:なるほどね。わかりました。いのちにまつわることばで、僕がいいなって思うのは、「今、いのちがあなたを生きている」っていう……。

小出:ああ、京都駅前の東本願寺の壁にドーンと掲げられている、あれですね。私も、すごく好きなフレーズです。

松本:「今、いのちがあなたを生きている」っていうフレーズを見たり聞いたりしたとき、どうなんだろう。普通はどういう反応を返すのかな? いくつか段階があるかな。

小出:最初の段階としては、「あれ? これ逆じゃない?」って素朴に思うんじゃないですかね。「あなたがいのちを生きている、の間違いじゃない?」って。

松本:そうだよね。「ん?」って違和感を覚える。「なんだこれは?」「なにか間違えたのかな?」って。

小出:間違えたのか、あるいはかっこつけているのか、みたいな(笑)。正直、私も最初にあれを見たときそう思いましたもん。

松本:でも、実際、いのちっていうのは、ああいう風にしか言えないものなんだよね。

小出:今、いのち「が」あなた「を」生きている、って。それで、というか、それが正解だと。

松本:うん。もちろん、「あなたがいのちを生きている」っていうのも間違いじゃないし、そういうのもひっくるめて「ほんとうのいのち」なんだろうけれど。

小出:そうですよね。いのちって、文字通り「すべて」だから。排除するものがないですからね。

松本:うん。

いのちって、ほんとうに「私のいのち」なの?

松本:なんで僕らが「今、いのちがあなたを生きている」と聞いたときに「ん?」って思うのかというと、やっぱり、私が「私のいのち」を生きているっていう意識があるからなんじゃないかと。

小出:いのちは私のものなんだって、みんな、素朴に思っていますからね。

松本:そう。いのちは私が持っているものだと思っている。それで、「持っている」っていうのはどういうことかというと、思い通りにして良いもの、自分の思い通りにできるものだって、そういう風にどこかで考えてしまっているということで。だから、「ん?」って違和感を覚えるんだと思うんですよ。

小出:そうかも。

松本:それで、いのちって英語にしにくいことばだと思うんですけれど、近いところに「life」という単語がありますね。

小出:lifeね。

松本:「今、いのちがあなたを生きている」というフレーズを聞いたときに違和感を覚える人は、たぶん、いのちを「私のいのち」だと考えているし、lifeを「my life」だと考えていると思うんですよね。

小出:ほんとうは、lifeはただのlifeなのに、myという所有格をつけてとらえてしまうんですね。

松本:そう。でも、いのちって、ほんとうに私のものなのかな? よくよく考えてみると疑問なんですよね。だって、「私のいのち」なんだったら、私の思い通りにできるはずですよね。でも、ある日気づいたら生まれていたわけでしょ。そもそも、自分ではじめようと思ってはじめたものじゃないじゃないですか、いのちって。

小出:そうですよね。

松本:僕らって普段、私が、私のいのちを生きていると思っているんだけれど、その「私が」とか「私の」って言っている「私」って、じゃあいったいなんなの? と。そのことを突き詰めて考えることもなく、なにか当たり前のように受け取る日々を過ごしているわけで。このことばは、そこに疑問符を突きつけるというか、「じゃあ、いったい誰のいのちなんだろう?」と立ちどまって、ハッとする人はハッとする。だからやっぱり、「今、いのちがあなたを生きている」っていうのは、いいことばだなあ、と思います。

小出:当たり前だと思っている枠組みに、さりげなくも、大きな揺さぶりをかけてくるフレーズですよね。

所有という幻想がはびこる世界

松本:でね、僕もいま、「じゃあ、いったい誰のいのちなんだろう?」ってサラッと言っちゃったけど、これも実はとんでもないことで。あらゆるものは誰かの所有物だっていう風に思っちゃっているからこそ、こういう問いが出てくるわけでしょ。

小出:うん。所有って幻想ですからね。そこにいいも悪いもないけれど。

松本:そう。でもこの世界には所有という幻想がすみずみまで行き渡っていて。これは誰のもので、あれは誰のもので、っていう。

小出:ものはもちろん、人間関係においても、所有幻想は行き渡っていますよね……。「私の家族」「私の恋人」って。そんな世界で生活していたら、そりゃあ、まあ、いのちだって誰かのものであって然るべきだって考えちゃっても仕方ないんだけど。

松本:なんでここまで所有の幻想が行き渡っているかというと、やっぱり人間のこころの奥底にある不安が影響しているんだろうな、と。「私」という確たるものが、ずっと変わらずにここにあって欲しい。そういう思いが根底にあるから、「じゃあ、私のいのちじゃなきゃ誰のいのちなんだろう?」っていう考えが湧いてくるわけで。誰の? 神さまの? ご先祖さまの? この地球の? ……そうやって、「〇〇の」って言わないとおさまりがつかない私たちの思考回路があると思うんです。

小出:「〇〇の」っていうラベルを貼りつけないことには、どうしても安心できないんですよね。

松本:なにかとそれが紐づいているという風にしないとわかった気になれない、納得がいかない。

「誰のいのちなの?」という問い自体を疑う

松本:でも、「私のじゃなければ、じゃあ誰のなんだろう」という問いに対する答えって……。みんな問いを与えられたら必死になって答えを探すけれど、もっと考えなきゃいけないのは、そもそも問い自体が正しいんだろうか、という問いだと思うんですよね。

小出:問いというもの自体を疑う、と。

松本:この問い自体なんなんだろう? と。そこを見て行かなきゃいけないですよね。そこを見て行ったときに、ようやく、いのちの実相に迫っていくような気がするんですよ。

小出:「いのちとはなにか?」とか「いのちとは誰のものか?」とかっていう問いのままだと、いのちの実相に肉薄することはできないということですね。

松本:うん。そういうものとして、いのちはあると言っていいんじゃないですかね。なんか理屈っぽくて申し訳ないけれど(笑)。

小出:いや、大事なところですよね、問い自体を問うっていうのは。見落とされがちな点だけど。

松本:そう。問いに対する答えよりも、そもそもそういう問いの立て方をしてしまう「私」を見ないと。

小出:そういう問いを持つ「私」ってなんだろう、って。

松本:なんでこんな問いを持つんだろう、って。

小出:やっぱり「私とはなにか」っていうところに、問いが辿り着くんですよね。

松本:そもそもの問いの立て方も含めて考えさせる入口として、「私とはなにか」っていうのは大事な問いですよね。

小出:うん、入口を開いてくれますよね。その先に「私」と「いのち」って、究極的には同じものなんじゃないかな? っていう世界が開けてきて……。

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