松本紹圭さんとの対話/今、いのちがあなたを生きている

大変お待たせいたしました。Temple Webのメインコンテンツ「Dialogue」、いよいよ公開です!

「いのちからはじまる話をしよう。」をメインテーマに掲げ、各界著名人と、私、小出遥子が、「なにものでもないもの」同士、本気の対話を繰り広げ、それをそのまま記事にしていくというこの企画。記念すべき初回にご登場いただくのは、浄土真宗本願寺派・光明寺僧侶の松本紹圭さんです。

松本さんは、私が最初に親しくなったお坊さんであり、さらにこのTempleというプロジェクトを始動させる大きなきっかけをくださった、大変重要な人物でもあります。松本さんとの出会い、そしてその後の対話の積み重ねがなければ生まれない「気づき」や、それに基づいて作り出された「場」がたくさんありました。「いのち」を真摯に見つめ、愚直に生きていく大事な仲間としての松本さんの存在が、どれだけ私を励まし、支えてくれているかわかりません。ほんとうに、稀有でありがたいご縁です。

今回の対話も、普段着の(松本さんは法衣をお召しになっていますが……)非常にゆったりとした雰囲気の中で始まりました。しかし、お互いにリラックスしすぎて、なんの前提の共有もなく、最初からものすごい深度で対話が進んでしまい……。これは果たして第三者に「伝わる」記事になっているのかどうか、正直、ちょっぴり不安です……。でも、間違いなく、「いのち」の根底に触れるような対話になっています。そこに関しては自信があります。

「今、いのちがあなたを生きている」 ほんとうに、これに尽きるのではないかなあ……。いま、そんなことをしみじみと実感しています。初回からそんな対話ができたことをしあわせに思います。松本さん、ほんとうにありがとうございました。

ぜんぶで2万字以上の超ロングダイアローグ。きっと、みなさんにも深いところでなにかを感じていただけるはず。ぜひ、最後までじっくりとおたのしみくださいませ◎

今、いのちがあなたを生きている

小出:今回は「いのちからはじまる話をしよう」ということでお邪魔しています。

松本:いのち……。なんだか難しそうですね。

小出:いきなりこんなテーマをぶつけてしまってごめんなさい(笑)。少し補足をすると、Templeは、いままで1年半以上、「ほんとうに触れて自由を生きよう」というテーマを掲げてやってきたんですね。ただ、いまさらなんですけれど、この「ほんとう」っていうことばは、ちょっと、あまりにも漠然とし過ぎているというか。テーマが大きすぎるがゆえに、逆に話が広がっていかない。そういう問題が見えてきて……。それで、ここで言う「ほんとう」っていうのは、二項対立を超えた世界のことなので、もちろん、対極に「ほんとうじゃないもの」を据えた「ほんとう」では決してないんですけれど、まあ……あえて言うのなら「ほんとうのいのち」。

松本:うん。

小出:「ほんとうのいのち」を知って、直にそこを生きていく。その可能性を探っていくプロジェクトとして、Templeを位置付けたいな、って。……ということから、「いのちからはじまる話をしよう」と。

松本:なるほどね。わかりました。いのちにまつわることばで、僕がいいなって思うのは、「今、いのちがあなたを生きている」っていう……。

小出:ああ、京都駅前の東本願寺の壁にドーンと掲げられている、あれですね。私も、すごく好きなフレーズです。

松本:「今、いのちがあなたを生きている」っていうフレーズを見たり聞いたりしたとき、どうなんだろう。普通はどういう反応を返すのかな? いくつか段階があるかな。

小出:最初の段階としては、「あれ? これ逆じゃない?」って素朴に思うんじゃないですかね。「あなたがいのちを生きている、の間違いじゃない?」って。

松本:そうだよね。「ん?」って違和感を覚える。「なんだこれは?」「なにか間違えたのかな?」って。

小出:間違えたのか、あるいはかっこつけているのか、みたいな(笑)。正直、私も最初にあれを見たときそう思いましたもん。

松本:でも、実際、いのちっていうのは、ああいう風にしか言えないものなんだよね。

小出:今、いのち「が」あなた「を」生きている、って。それで、というか、それが正解だと。

松本:うん。もちろん、「あなたがいのちを生きている」っていうのも間違いじゃないし、そういうのもひっくるめて「ほんとうのいのち」なんだろうけれど。

小出:そうですよね。いのちって、文字通り「すべて」だから。排除するものがないですからね。

松本:うん。

いのちって、ほんとうに「私のいのち」なの?

松本:なんで僕らが「今、いのちがあなたを生きている」と聞いたときに「ん?」って思うのかというと、やっぱり、私が「私のいのち」を生きているっていう意識があるからなんじゃないかと。

小出:いのちは私のものなんだって、みんな、素朴に思っていますからね。

松本:そう。いのちは私が持っているものだと思っている。それで、「持っている」っていうのはどういうことかというと、思い通りにして良いもの、自分の思い通りにできるものだって、そういう風にどこかで考えてしまっているということで。だから、「ん?」って違和感を覚えるんだと思うんですよ。

小出:そうかも。

松本:それで、いのちって英語にしにくいことばだと思うんですけれど、近いところに「life」という単語がありますね。

小出:lifeね。

松本:「今、いのちがあなたを生きている」というフレーズを聞いたときに違和感を覚える人は、たぶん、いのちを「私のいのち」だと考えているし、lifeを「my life」だと考えていると思うんですよね。

小出:ほんとうは、lifeはただのlifeなのに、myという所有格をつけてとらえてしまうんですね。

松本:そう。でも、いのちって、ほんとうに私のものなのかな? よくよく考えてみると疑問なんですよね。だって、「私のいのち」なんだったら、私の思い通りにできるはずですよね。でも、ある日気づいたら生まれていたわけでしょ。そもそも、自分ではじめようと思ってはじめたものじゃないじゃないですか、いのちって。

小出:そうですよね。

松本:僕らって普段、私が、私のいのちを生きていると思っているんだけれど、その「私が」とか「私の」って言っている「私」って、じゃあいったいなんなの? と。そのことを突き詰めて考えることもなく、なにか当たり前のように受け取る日々を過ごしているわけで。このことばは、そこに疑問符を突きつけるというか、「じゃあ、いったい誰のいのちなんだろう?」と立ちどまって、ハッとする人はハッとする。だからやっぱり、「今、いのちがあなたを生きている」っていうのは、いいことばだなあ、と思います。

小出:当たり前だと思っている枠組みに、さりげなくも、大きな揺さぶりをかけてくるフレーズですよね。

所有という幻想がはびこる世界

松本:でね、僕もいま、「じゃあ、いったい誰のいのちなんだろう?」ってサラッと言っちゃったけど、これも実はとんでもないことで。あらゆるものは誰かの所有物だっていう風に思っちゃっているからこそ、こういう問いが出てくるわけでしょ。

小出:うん。所有って幻想ですからね。そこにいいも悪いもないけれど。

松本:そう。でもこの世界には所有という幻想がすみずみまで行き渡っていて。これは誰のもので、あれは誰のもので、っていう。

小出:ものはもちろん、人間関係においても、所有幻想は行き渡っていますよね……。「私の家族」「私の恋人」って。そんな世界で生活していたら、そりゃあ、まあ、いのちだって誰かのものであって然るべきだって考えちゃっても仕方ないんだけど。

松本:なんでここまで所有の幻想が行き渡っているかというと、やっぱり人間のこころの奥底にある不安が影響しているんだろうな、と。「私」という確たるものが、ずっと変わらずにここにあって欲しい。そういう思いが根底にあるから、「じゃあ、私のいのちじゃなきゃ誰のいのちなんだろう?」っていう考えが湧いてくるわけで。誰の? 神さまの? ご先祖さまの? この地球の? ……そうやって、「〇〇の」って言わないとおさまりがつかない私たちの思考回路があると思うんです。

小出:「〇〇の」っていうラベルを貼りつけないことには、どうしても安心できないんですよね。

松本:なにかとそれが紐づいているという風にしないとわかった気になれない、納得がいかない。

「誰のいのちなの?」という問い自体を疑う

松本:でも、「私のじゃなければ、じゃあ誰のなんだろう」という問いに対する答えって……。みんな問いを与えられたら必死になって答えを探すけれど、もっと考えなきゃいけないのは、そもそも問い自体が正しいんだろうか、という問いだと思うんですよね。

小出:問いというもの自体を疑う、と。

松本:この問い自体なんなんだろう? と。そこを見て行かなきゃいけないですよね。そこを見て行ったときに、ようやく、いのちの実相に迫っていくような気がするんですよ。

小出:「いのちとはなにか?」とか「いのちとは誰のものか?」とかっていう問いのままだと、いのちの実相に肉薄することはできないということですね。

松本:うん。そういうものとして、いのちはあると言っていいんじゃないですかね。なんか理屈っぽくて申し訳ないけれど(笑)。

小出:いや、大事なところですよね、問い自体を問うっていうのは。見落とされがちな点だけど。

松本:そう。問いに対する答えよりも、そもそもそういう問いの立て方をしてしまう「私」を見ないと。

小出:そういう問いを持つ「私」ってなんだろう、って。

松本:なんでこんな問いを持つんだろう、って。

小出:やっぱり「私とはなにか」っていうところに、問いが辿り着くんですよね。

松本:そもそもの問いの立て方も含めて考えさせる入口として、「私とはなにか」っていうのは大事な問いですよね。

小出:うん、入口を開いてくれますよね。その先に「私」と「いのち」って、究極的には同じものなんじゃないかな? っていう世界が開けてきて……。

いのちはさっぱりわからないもの

松本:でも、ほんとうに、いのちってなんなんでしょうね。わからないですよ、正直なところ。

小出:いのちは、わからないですよね。

松本:さっぱりわからないですよ。さっぱりわからなくて……不思議ですよね。

小出:そうなんです。ほんとうに「いのちはさっぱりわからないもの」「不思議なもの」としか言えないなあ、って。そのことだけははっきりわかっているっていう(笑)。

松本:そうだよね。

小出:もうね、ほんとうにさっぱりわからない。「わかった!」と思った時期もあったんですけれど、結局ぜんぶ勘違いだったなあ、って……。

松本:「わかりたい」と思うから、「なんだろう?」って、その正体を探すわけじゃないですか。そうやって探していく中で、「これかもしれない!」とか、「ああ、そういうことか!」とか、そういう感覚が出てくるでしょ。仏教の中から見つかる場合もあるし、いろんな思想の中から見つかる場合もあるし。あるいはそういう概念的なことばかりじゃなくて、身体性をともなった気づきだったり、なにか特別な感情だったりが湧いてくることもあるし。

小出:ありますよね。

松本:そういう風にして、「少しわかってきた」とか、「だんだんわかってきた」とか、そういう風に思っていた時期も、確かにあったと思うんですよね。だけど、最近、僕はそんなになにかをわかろうともしていないし、「なぜ?」っていう疑問が生まれてこなくなってきていると感じます。

小出:ああ……。実は私もそうなんです。「なぜ?」がなくなってきてしまって。刻々と目の前に展開されていくすべてを、受けいれるという意識もないままに、ただ淡々と受けいれているだけ、みたいな。だからね、聞きたいことがない。疑問がないから質問ができない(笑)。

松本:小出さん、インタビュアーなのに聞きたいことがないって(笑)。

小出:困りましたね(笑)。でも、松本さんも同じ感じでしょ? だから「聞きたいことがなくなったよね」っていうお話ならできるよね、と思って。

松本:いいじゃない。Templeらしいじゃない。

小出:ということで、「いのちからはじまる話をしよう」なんですよ。それに、これはインタビューじゃなくてダイアローグなので。聞きたいことがなくても、もっと言えば話したいことがなくても、実はなんの問題にもならない。その場その場でかならずなんらかの対話は起きてくるので。それにおまかせしちゃえ! っていう無責任で自由な企画です(笑)。

アホで困ることなんかない!

小出:かならずなにかが起きてくるっていうのは、対話に限らず、すべてにおいてそうなんですよね。たとえば、私、ここ2年半ぐらい、毎朝かならずブログを更新しているんですね。一日も欠かさず。でも、それだって別に毎日特別に書きたいことがあるわけじゃなくて。でも机に向かったら、なんだかよくわからないけれど、書くことが出てくるので。それにまかせている感じですね。

松本:うん。

小出:前はね、もっと、「書きたい!」「書かなきゃ!」って、なにか強いパッションとか義務感とかを持ってやっていたような気がするんですけれど、最近では、もう、そういうのはなくなっちゃって。それでも「書く」ということが起きているから、毎日更新し続けているだけっていう。

松本:なぜ書き続けるのかとも思わずに。

小出:そう。理由なんてないですよね。ただ書いて、アップするということが起きているだけ。本人としては、ただ淡々と、やろうとも思わずにやっています。でも、誰かに、「なんで毎日書いているの?」って聞かれたら、そのときにそれなりの答えがあたまの中にフワッて浮かぶからそれを答えるけれど、でもそんなのはぜんぶ後付けに過ぎなくて。うーん……。後付けっていうか、出まかせっていうか……(笑)。

松本:まあ、アホですよね(笑)。

小出:ほんと、どんどんアホになっちゃって(笑)。でもアホで困ることって、別に無いなあ、って。それこそ、いつか、曹洞宗の藤田一照さんが「lifeのアジェンダ」ということばでおっしゃっていたけれど、いつだって、lifeの要請というか、いのちそのものの表現として、目の前に自分のやるべきこと……やるべきことっていうか、すでにやっちゃっていることっていうのは自然にあらわれてくるから、ただ、それに乗っかっていけばいい、みたいな感じです。ほんとうにそれだけだな、って。あたまであれこれ考えなくても、縁の中で、ごくごく自然に行動は起きてくるので。

松本:そうなんだよね。でもどうしても、社会というか周りの人が、「なぜ?」「どうして?」って聞いてくるから、うーん、じゃあ、なにか答えなきゃな、となる。

小出:もっともらしいことをね(笑)。でも、その「もっともらしい答え」すら、life、いのちの表現として、その場その場で自然にあらわれてくれるから、もうほんと、おまかせするしかないなって。

いつだって南無阿弥陀仏が聞こえますよ

松本:だから「いのちってなに?」っていう問いに、あえて答えるとしたら、「これです」って言うしかないよね。

小出:This is it. って。ほんとうにね。

松本:「これ」だし、「これ」以外にない。

小出:いや、ほんと「これ」しかないんですよね。文字通りの「これ」。いまここに展開している、「これ」がすべて。「これ」がいのち。いのちのすべて。

松本:すべてでもあるし、かつ、どれでもない。

小出:そう、同時にどれでもない。「これ」って言った瞬間に、もうそれは消えていて、絶対に指し示せなくて……。いや、もう、ほんとうに不思議。とにかくわからない(笑)。

松本:わけがわからないですね。

小出:うん。でも、そのわけがわからないこと自体に、なんか感動してしまうことってないですか? こんなにわけのわからないことが、それでも毎瞬毎瞬起こっていて、でもほんとうはなにも起こっていなくて……。感動しますよ。誰が感動しているのかはわからないんだけれども、ただ感動と呼ぶしかないものが湧き上がってくる。これはすごいことだな、って。

松本:うん。

小出:もう、大げさじゃなく、毎朝目が覚めたときから感動していますよ。だって、目を覚ますことひとつとっても、自分の意志でやっているわけじゃないので。「目を覚まそう!」と思って目を覚ますことなんかできないんですよね。それができるなら、その人、すでに目覚めているわけで(笑)。そう考えると、毎朝目が覚めるということ自体が奇跡ですよね。で、目を覚まして、からだを起こして、窓の外には朝の風景が広がっていて。晴れていても、降っていても、ぜんぶいのちの表現としてごくごく自然にそのようにパーンとあらわれていて。「私」がなにかをする前から、すでにすべてはととのっていて……。これはすごいなあって。ありがたいことだなあって。

松本:すごいね。念仏ばあさんの話を聞いているみたいだ(笑)。

小出:いや、ほんと、リアルに南無阿弥陀仏が聞こえるような感じで。毎瞬。どこにいても、なにをしていても。冗談じゃなくてね。

松本:うん、わかるよ。

ラベルはなにひとつ「私」を指し示していない

松本:最近、留学を目指す学生さんたちに向けてお話をする機会があったんですね。「グローバルリーダーとはどういう人か?」というテーマで。

小出:グローバルリーダーですか。

松本:これまで、僕は、たまたま、ダボス会議などに出させていただく機会があって、おかげでいろんな種類の、いわゆるグローバルリーダーたちに会うことができたんですね。王様系の人とか、スーパーお金持ちの人とか、スーパー政治家とか……。その中で感じたのは、結局、リーダーは、なにを持っているとか、どういう立場であるとか、そういうのは全然関係なくって。あり方として、人を人として見る人たち。そういうのがグローバルリーダーと呼ばれるにふさわしい人たちなんだろうと思うようになりました。

小出:あり方として。なるほど。

松本:日本のビジネス社会でよく感じることなんだけど、名刺交換をしても、肩書きと肩書きが出会っているみたいな感じで、人と人とが出会っていない。個人ひとりひとりも、自分というものを、肩書きとかラベルで規定する傾向が強い。私にはこういう業績があって、こういう学歴があって、これだけお金を持っていて、こういう家族構成で、とかね。でも、それは、実はなにひとつ「私」を指しているわけじゃないんですよね。

小出:そうなんですよね。どうしても忘れてしまいがちだけど。

松本:うん。ラベルにあまりにも依存し過ぎてしまっている現状がある。でも、どんな人だって、結局、突き詰めれば、せいぜい「人」としか言えないわけで。リーダーと言われるような人はそこをわかっている人たちだって言えるんじゃないかと思います。人と出会うときに、ちゃんと相手を人として見る人たち。

小出:ラベルじゃなくて、人を見る人たち。

松本:だから、たとえば街中でみすぼらしい格好をしている人と出会っても、こんなやつは俺が話すような相手ではない、とかいう風に見ない。人を差別しない。同時に、あらゆる人はみんなそれぞれ違うっていうこともちゃんとわかっている。そうして目の前にある、いま出会ったことに100パーセント、コミットしていく。そういうあり方だと思うんですよ。

小出:そういうことをしていればやがて成功するだろうとか、そういう計算で動くわけじゃなくて。

松本:成功とか失敗とか、そういう発想自体が失敗なんじゃないかなって、僕は思うんですよ。そういう発想をするということは、成功という第三者による客観的な物差しがあって、それで計れるものだと思っているっていうことでしょ。でも、成功も失敗も、ほんとうは自分にしか決められないものじゃないですか。もちろん、成功も失敗もない、という言い方もできるけれども。でも、少なくとも、他人に決められることじゃないよね。

小出:ほんとうに、そうですよね。

ラベルを自分だと思っているうちはいのちに出会えない

松本:それで、大事なのは、自分で決める、って言ったときの「自分」っていうのが、いったいなんなのかっていうところで。

小出:うん。

松本:自分で決めていると思いながら、ほとんどの人が、結局は他人に決められるような人生を送っているんですよ。なぜかと言うと、自分自身をラベルで見ているから。他人から与えられたラベルを自分だと思い成しているから。ラベルを見て、それを自分だと思い成しているような、そういう「自分」のとらえ方をしている限り、いつまで経っても「わたし」に出会えないし、「いのち」に出会えない。まあ、それはそういうかたちでいのちに出会っているとも言えるけれど、十分にappreciateできないわけですよね。

小出:ほんとうの意味での感謝、感動は起こってこないですよね。

松本:ラベルは怖いものですよね。ことばもそうだけど。

小出:ことば自体がね……。

松本:人間って、やっぱり、日々いろんな問いをもって、そこに答えを求めようとするでしょう。安心したいんだよね。ことばで片付けて安心したくなっちゃう。

小出:片が付いたように思いたくなっちゃうんですよね。

松本:だけど、「あっ、これはこういう理由だからか。なるほど!」って言ったときですら、ほんとうは片なんか付いていなくて、そこには不思議しかないはずで……。

ほんとうに目の前の人と出会っていますか?

松本:でも、なんで「なるほど! わかった!」っていう風に思っちゃうのかな。わからないことに耐えられないのかな?

小出:わからないことに耐えられないっていうのもあるし、それ以外の生き方を知らないっていうのもあると思います。

松本:「ラベルで規定される私」というものにしがみつけばしがみつくほど、しがみつくクセが強化されてしまうのにね。一度、手放してみれば、「あ、そんなもんか」っていう風になるんだろうけれど。

小出:クセが強化されるっていうの、わかる気がするなあ……。

松本:ラベルにしがみつけばつくほど、わかったような気になっている範囲が広くなっていくんですよね。「ああ、これ知っている」「ああ、それはこういうことだ」って、脳内に記憶パターンを蓄積してしまう。すると、目の前のことに触れているようで触れていないっていうようなことが起きてくるんだと思います。

小出:触れているようで触れていない?

松本:たとえばいまだったら、僕は2016年某月某日何時何分の小出遥子さんに出会っているはずなのに、過去の小出遥子像を呼び覚まして、それと話しているだけっていうことになってしまう、と。目の前にいる人と全身全霊で出会えないっていう。

小出:全身全霊でね。

松本:小出遥子さんの姿を見ているようで、小出遥子さんの姿的なものをあたまの中で再現しているだけかもしれないし、小出遥子さんの声を聞いているようで、小出遥子さんの声的なものをあたまの中で再生しているだけかもしれない。

小出:悲しいなあ……。

過去の記憶にアクセスしていることにマインドフルでいれば……

小出:でも、どうなんだろう。過去の記憶を再生することすら「いま」起きていて、いま、それがいのちのあらわれとして起きているのなら、別に、それを否定すべきものでもないのでは、という気も……。

松本:記憶にふけって懐かしい気持ちになるならなればいいじゃない、って。

小出:うん。それ自体にくつろいでしまうことは可能ですよね。ただ、もちろんそのためには、自分がいま、過去の記憶にアクセスしているっていうことにマインドフルであることが絶対条件になりますけれど。

松本:そうだね。過去の記憶にアクセスしているということが「いま」起きている。その構造をちゃんとわかっているかどうかは、大きな違いになると思う。

小出:うん。その構造自体にちゃんと気づいているなら、過去の記憶にアクセスすることは問題にならないんですよね。

松本:でも、まあ、そうは言ってもクセの力は大きいですからね。慣性力が働いて、どうしても、気づかないうちに過去の記憶にアクセスすることが起きてきちゃうっていうのはあると思う。「わかっちゃいるけどやめられない」っていうやつですよ。

小出:そんな歌があったような気が(笑)。それが起こると苦しいんですよね……。松本さんもそういうことありますか? なさそうに見えますけど。

松本:僕の場合は、もともと記憶が弱いので、クセどうこうとか関係なく、どんどん忘れていくんですけれど(笑)。

小出:いいなあ(笑)。

宇宙から眺めているような「誰か」がいる?

小出:でも、私も、さっきも言ったけど、もう、どんどんアホになってきちゃって。感じたことも、考えたことも、実際に体験したことも……いろんなこと、どんどんどんどん忘れていくんですよね。それこそ瞬間ごとに忘れていっている。あたま空っぽなまま生きている感じ。

松本:空っぽですか。

小出:以前はこんなことなかったんです。昔の私は、記憶っていうのがすごく自分にとって大事なものだと思っていたので。記憶がないと自分を保てないと思っていた。だから、それこそ後生大事に記憶を持ち運んで(笑)、感情も、思考も、体験も、絶対に忘れちゃいけない! って常に力んでいたような気がするんですけれど……。

松本:うん。

小出:でも、別に記憶があろうがなかろうが、必要なことは、いまここでかならず展開されていくので。思い出すことが起きれば思い出すし、思い出さなかったら思い出さなかったでそれがベストというか、それ以外には起きようがなかったので。まあ、言ってみれば、ご縁の……いのちのダイナミズムを信頼しているんですよね。だから、最近は安心してどんどん忘れていっていますね(笑)。

松本:わかる気もする。

小出:それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど。でも、さっきもあったけれど、良いも悪いも人に決められることじゃないし。

松本:自分に決められることでもない。

小出:そう、自分に決められることでもない。だからね、もう、どちらでもいい(笑)。投げやりな意味じゃなくてね。

松本:ジャッジメントがなくなっちゃうんだよね。

小出:ほんとうに。まあ、一応ね、判断を迫られるようなことがあれば、判断をするということが起きてくるし、そういうこともしようと思えばできるんですけれどね。でもね、別にもう、なにに対しても、起きてきたことに対して、ほとんど否定のエネルギーが湧いてこない。もし仮に「こんなことが起こっちゃいけない!」っていう思考や感情が起こったとしても、それすらOKというか。

松本:「そういう思考や感情が湧いてきた」ということが、ただ起こっただけっていう。

小出:いのちの表現としてそのように起こっただけ。だからOK。

松本:どこか宇宙から眺めているような……私でもない、そして誰でもない誰かがいるっていうか、あるんだよね。まあ、「誰か」とかね、「いる」とか「ある」とかっていうのも、また語弊があるけれど。

小出:そう、絶対にことばにはできないけれど……。でも、その「誰か」としてあるものを、たとえば仏教では、仮に「仏」と呼んでいるのかな、って。

松本:そうだね。そして、そういうあり方を、「安心(あんじん)」とか「信を得る」とかって言うのかもしれない。

探求心がなくなってしまいました……

松本:いや、ほんと、最近ね、思うんですけれど、僕自身、探求心みたいなのがあんまりなくなっちゃったな、って。

小出:そうだと思いますよ。探求心って、実はそのまま現在の否定のエネルギーだったりしますからね。「いまではないいつか」「ここではないどこか」にゴールを設定して、それを求めていくっていう。いまここに落ち着いて、安心の中で生きるようになったら、そのエネルギーは消滅していきますよね。

松本:うん。でも、世間を見渡してみると、やっぱり多くの人が否定のエネルギーで動いていて、しんどそうだな、っていう風にも思ったりもしていて……。そこをもうちょっと軽くしてあげるためのお手伝いができないかな、という思いはありますね。

小出:しんどくない生き方もあるよ、って伝えてあげるお手伝いね。

松本:うん。もしかしたらその余地もないのかもしれないけれど。

小出:そうですよね。誰が誰を手伝うの? って話でね。ぜんぶいのちがやっていることだから……。でも、いまここで、そっちの方に気持ちが向くんだったら、そうやっていくしかないですよね。まあ、お手伝いする余地だって、ねえ、ほんとうはどこにもないんだけれど。でも、結果として、誰かが楽になってくれるなら、それはうれしいな、って。

松本:そうなんですよ。

小出:わかります。私も、あるときから、存在のベースに、絶対的に揺らぐことのない、強固な安心感が生まれてしまって……。私にやりたいことがもしあるとしたら、究極的にはその絶対的な安心感、絶対的な「大丈夫」を伝えるというか、共有していくことだけなんですよね。

松本:絶対的な「大丈夫」?

小出:たとえば、断崖絶壁ギリギリのところに人が立っていて、その人は「落ちまい、落ちまい」と必死で踏ん張っているわけですよ。これが、まあ、一般的な私たちの姿ですよね。常に緊張感を持って生きている状態。

松本:うん。

小出:でも、いざ、なにかのはずみでからだが前に出てしまって、「あ、ヤバい! 落ちる! 死ぬ!」って言ってぎゅっとからだを縮こまらせるんだけど、いつまで経っても地面に辿り着かない。「あれ……?」と思って目を開けてみたら、実は最初から崖なんかなかった。そもそも崖に立つ自分すらいなかった。……それが「救い」ということばの究極的な意味だと思っていて。思っているというか、まあ、あるとき「そうか、そういうことだったのか」って、どうしようもなく気づいてしまったんですよね。

いのちの邪魔なんかできようがない

小出:だから、なんかね、別にどんな生き方をしたって、そしてどんなに死に方をしたって、そもそも救われているんだから大丈夫、っていうのは、ベースのところにずっとあるんですよ。どんなに悲惨な人生を歩んで、どんなに悲惨な死に方をしたとしても、絶対的に救われている。その「救い」っていうのは、主体も客体もないものなんですけれど、やっぱり「救い」としか言いようのないものがあって。

松本:うん、条件じゃないんだよね。なにをしたからどうなるとかじゃない。したから救われるでもないし、したから救われないでもないし、しなかったから救われるでもないし、しなかったから救われないでもないし。

小出:そうそう。ぜんぶ起きていて起きていないんだから、そもそも「救い」しかない。条件がない。その上で、でも、刻々と、いろんな出来事や活動が起こってきて、それにともなっていろんな思考や感情もごくごく自然に起きてきて……ただ、それに淡々と乗っていくだけ。

松本:じゃあ、日々をどういう風に生きるの? と言えば、いのちの邪魔をしないように生きたいな、いのちの躍動を邪魔しないように、いのちが生まれるように生きたいなって、そんな風にどこかで思っていますね。

小出:うん。……でも、どうだろう。そもそも邪魔なんかできるのかな?

松本:そう。邪魔できると思うことも、結構おこがましくて。

だからやっぱり「今、いのちがあなたを生きている」

松本:じゃあ、なにもしないんですか? となるんだけれど、そういうことじゃないんですよね。努力をしないということでもなくて。なにかできる私なんていうものは、根本的にないっていう。

小出:ほんとにね。だから……

松本:つまりは「今、いのちがあなたを生きている」っていうことですよね。

小出:あ、いま綺麗に円が閉じましたね!(笑) でも、それだけ聞くと、ものすごく、こう、無責任な感じに取られてしまうようなところがあって……。難しいですよね。でも、まあね、実際、無責任と言えば無責任なんですけれど。責任とる人もいないし。そもそも責任という概念が成り立たない。

松本:突き詰めれば、人は誰も、責任なんて取りようがない。

小出:究極はね……。でも、責任なんてどこにもないんだけれど、この世界において自分が責任を取らなくてはいけないようなことが起こったら、ちゃんとそれに対処するようなことも起きてくるんですけれどね。

松本:うん。とくにお坊さんなんて、そういうのをちゃんとする役割の人だっていうことになっているから、僕もちゃんとやらないとな、と思うんですけれどね。

親鸞さんは「種明かし」をしてしまった人

松本:いまの話に関連して言えば、浄土真宗では「他力」や「凡夫」を強調しますが、「私は、あらゆることに対して、なにひとつ責任なんて取りようのない存在である」ということを信知(しんち)することが大事なんですね。

小出:「信知」ですか?

松本:「いただく」というかたちで知るということです。主体のない「知る」、とも言えるかな。

小出:なるほど……。ほんとうにね、自分はなにもしていないよね、っていうところで……なにも「できない」んじゃなくて、なにも「していない」よね、っていうところで生きていると、いよいよ、仏教のことば、親鸞さんのことばに辿りついてしまうなあ、っていうのは私も実感するところで。ものすごくしっくりくるんですよね、親鸞さんの語りって。なんの力みもなく、フラットに受け取れる。

松本:親鸞さんは出家者じゃないから、枠組み自体を解体しちゃったんですよね。社会の中で、人間界というか、娑婆というか、そういう世界を出たところでやるっていうのではないあり方で、人生をかけて表現した人なんだなと、そう思いますね。

小出:いのちの表現をね。親鸞さんのしたことをひとことであらわすなら、ズバリ「種明かし」だと思うんですよ。

松本:種明かし。なるほどね。

小出:どんなあり方をしていたって構わないっていう意味での種明かしを、親鸞さんは全身全霊で、本気でやっちゃった。

松本:扉を開けちゃった。扉の向こうにあるものじゃなくしちゃった。

小出:というか、扉なんかそもそもなかったっていうのを証明しちゃった。「扉があると思っていたでしょ? それがどこにもないんだよなあ~」みたいな(笑)。「なにをしたから救われる、なにをしなかったから救われないとか、そんなケチ臭い話なんかじゃないんだよ~」って。

松本:うん。

小出:さっきの話で言えば、「崖も人もどこにもなかった!」みたいなのが究極の種明かしになるわけですけれど。だから、根本のところでは安心していていいんだよ、っていう。そういう風に、私は、親鸞さんのことばを受け取っていますね。

大丈夫しかないから大丈夫

小出:でも、もちろん、そうは言っても、表面上、すごくいろいろな不安が出てきたりとかはありますけれどね。

松本:ねえ。当然ですよね。実際に崖に連れていかれて突き落とされそうになったら……

小出:全力で抵抗するし。泣くし、叫ぶし、つかまるし。

松本:全力でじたばたするし、「うわ~!」って思うし。

小出:そりゃそうですよ。崖のところで落ちかかっているのにニコニコ笑っているのが「達観」だと思ったら大間違いだからね、っていう。

松本:臨終の際にニコニコしていられるかって言うと、そんな確証もないし、最期のことばは「死にとうない」かもしれないし。

小出:それ、一休さんでしたっけ? 仙がいさんだっけ(笑)。ねえ。でも、ほんとうに、そんなのは、ぜったいにわからない。自分で決められるものじゃないし。それに……

松本:「死にとうない」かもしれないけれど、それでも大丈夫っていう。

小出:そうそう。「死にとうない」って言いながら死んでも大丈夫だし。絶対的に大丈夫なんですよね。それはもう存在のベース音として常に響いている。さっきも「常に南無阿弥陀仏が聞こえる」って言ったけど、そういうことなんですよね。南無阿弥陀仏は、「大丈夫」という呼びかけにほかならないとも言えて……。

松本:その「大丈夫」がほんとうに大丈夫なのか、っていうのは大丈夫? いまはそうかもしれないけれど、これから先変わるかもしれないじゃない。

小出:大丈夫です。

松本:変わったとしても大丈夫なんだよね。なぜなら大丈夫だから。大丈夫しかないから。

小出:そういうことです。大丈夫しかないから、大丈夫。南無阿弥陀仏しかないから大丈夫。それがいのちの表現だから。

できることは「対機説法」だけ

小出:でも、どうなんだろう。「南無阿弥陀仏」とか言うと特殊な話だと思われちゃうかもしれないけれど、とにかく、いのちのベースに「大丈夫」があることに気づいていれば、それでいいよね、と思っていて。ほんとうに、どうあっても大丈夫なんだよ、っていうのが、究極的な種明かし。

松本:うん。

小出:だからと言って、「リラックスして生きなさい」とかそういう単純な話じゃなくて。リラックスして生きるんだったら生きればいいし、緊張しながら生きるんだったら生きればいいし。どのみち救われているから。ほんとうのほんとうのほんとうに、どうあっても大丈夫。なぜなら大丈夫しかないから。……っていう無限ループ(笑)。

松本:ほんとうにそうだと思うの。でね、その「大丈夫」を伝えるときに、じゃあ僕らがなにをするのかって言うと、やっぱり対機説法っていうことになるんだと思う。出会った人と対話している場で、僕らが立っている大丈夫なグラウンドから出てくることばを、その都度話しているんだろうなと。別にその人になにかできる自分っていうのはいないんだけど、できるとしたらそれぐらいしかない。その結果なにになるのかもわからないけれど……。でも、せめて、精一杯やっていきたいですね。

小出:はい。

松本:精一杯、大丈夫なグラウンドから出てくることばを話す。相手の立っているグラウンドなのか、あるいはひっかかっている木の枝なのかはわからないけれど、あ、この辺が苦しみの原因なんだなっていうのを、絶対的な「大丈夫」と照らし合わせて考えながら、いま、どういうことばをかけてあげたら、ちょっと手放せるようになるかな、って。そういうことをやっているのかな、と思いますね。

小出:そういうのが、まさしく、ほんとうの「対話」なんじゃないかな。

対話とは、人との出会いを真剣にやるということ

小出:対話って、いま松本さんがおっしゃったように、一対一の真剣勝負が基本形なんですけれど、ほんとうはそれだけに限らない。たとえばこのTemple Webでやろうとしていることだって対話なんですよ。

松本:そうだと思います。

小出:いま松本さんと直に対話をして、それを記事にまとめますよね。で、サイトに載せますよね。じゃあ、その記事は誰に向かって発信されているんですか? って聞かれたら、やっぱり、それはたった「ひとり」に向けているんですよ。読者の方はたくさんいらっしゃるけれど、そのおひとりずつに、っていうより、単純に、たったひとりに、なんですよね。だって、PCでも、スマホでも、この記事を読んでくださるときは、みなさん、おひとりでお読みになるわけだから……。やっぱりね、それは対話になると思うんですよ。

松本:対面だろうが、メディアを通してだろうが、誰かと、人として出会うということを真剣にやるっていうことだよね。

小出:そう。対話って、そのまま「出会い」ですからね。だから、ほんとうは、人と人とが向かい合って話すという以外のどんな場面であっても、対話っていうのは常に生まれ続けていて。いまの時代はとくに、いろんな対話の機会が、いろんな人に与えられているんじゃないかなって。インターネットを介したコミュニケーションだって、間違いなく、ひとつの対話のかたちだと思うんですよね。

松本:うん。

小出:Temple Webに掲載した記事をお読みになった方が、まあ、なにかを感じてくださるんだったらありがたいことだし、その場で感じてもらえなくても、なにが縁になっていくかなんてわからないので。この記事に出会って、読んでくださった、ということは、もはや対話をした、ということなので。そういう対話の力を信じてみようかな、っていうので、今回、Templeはスタートしたわけなんですけれども。

答えを得ることが人生のゴールではない

松本:ほんとうに人と出会うということは、自分と出会うということなんじゃないかなって。

小出:その通りだと思います。

松本:だから、昔の高僧の本を読むのもひとつの対話だと思うし、ご先祖さまのお墓の前で話しかけるのも対話だと思うし、それこそウェブメディアを通じて対話をすることもあるだろうし。

小出:うん。どんなかたちであっても、究極的には自分と出会っていく、いのちと呼ばれる自分と出会っていくっていうのが、対話の真ん中にあるものですよね。

松本:で、知れば知るほど知ることができない、その不思議さに出会っていくというか、深めていくというかね。

小出:それこそが大事なところですよね。「わかんないな~」っていうことに落ち着くこともできるんだよね、っていうのが……。明るいわからなさというか、あっけらかんとしたわからなさと仲良くしていくことだってできる。すると、さっきも言ったけど、ただ、「感動」だけが広がっていくようなことが起きてくるんですよね。だから、人生って、答えを探す場所じゃないんだよな、って。最近、すごくそう思いますね。

松本:うん。

小出:もちろん、答えを探してもいいし、それは別になにも悪いことじゃないけれども、答えはゴールではない。

松本:答えを得たとか、ゴールに辿り着いたって思ったら、誰が? って問われますよね、常に。収穫しようと思ったとたん、即、すり抜けていくというか。

小出:ほんとうにそうなんですよね。ぜったいにつかまえられない。つかまえる対象もなければ、つかまえる主体もないので。……ということで、ほんとうに、ゴールもなにもない対話でしたけれど、とりあえず初回の「いのちからはじまる話をしよう」はだいたいこんな感じで終わりに……しちゃっていいのかな? 大丈夫かな? 記事になるかな? ちょっと不安ですよ(笑)。

松本:まあ、いいんじゃない? いのちがそうあらわれたのなら(笑)。

小出:「今、いのちがあなたを生きている」んですものね。じゃあこのまま載せちゃおう! 苦情はいのちに言ってくださいね(笑)。ということでお開きです。松本さん、今日はたのしい対話をありがとうございました。

松本:ありがとうございました。

(2016年初秋 神谷町光明寺にて 取材・編集:小出遥子)

松本紹圭(まつもと・しょうけい)

1979年生まれ。
一般社団法人お寺の未来理事。浄土真宗本願寺派光明寺僧侶。
東京大学文学部卒業。Indian School of BusinessでMBAを取得。
超宗派仏教徒によるインターネット寺院「彼岸寺」(higan.net)、お寺カフェ「神谷町オープンテラス」を企画。
2013年、世界経済フォーラムのYoung Global Leadersの一人に選出される。
著書に『東大卒僧侶の「お坊さん革命」』(講談社)ほか多数。

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