プラユキ・ナラテボーさんとの対話/あるがままを受けいれた先にいのちの動きが見えてくる

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、私、小出が今回お訪ねしたのは、プラユキ・ナラテボーさん。タイ・スカトー寺の副住職をつとめていらっしゃる日本人僧侶です。

プラユキさんは非常に多彩な方なのですが、もし、そのお人柄をひとことであらわすとしたら、やはり、「慈悲の人」ということになるでしょうか。ご著書を拝読するだけでもそのやさしさ、あたたかさは十分に伝わってくるのですが、実際にお会いして、その笑顔を一目見た瞬間に、自分の中の「コリ」とも呼ぶべきなにかが、理屈じゃなく、ふわっとほぐされていくような……そんな不思議な感覚に包まれてしまうんです。

それは、プラユキさんご自身が、目の前にいる方がどんな人であっても、ダンマ(法)のあらわれとして、完全に平等に扱ってくださるからでしょう。自分も「なにものでもないいのち」だし、相手も「なにものでもないいのち」。いのちのレベルにおいては、私たちひとりひとりに、なにひとつとして違いはない。そのことを理屈じゃなく思い出させてもらったときに、ほんとうの意味での「癒し」が起こるのだと思います。プラユキさんの瞑想会や個人面談会が大人気なのもうなずけます。

今回の対話では、そのあたりを中心に、プラユキさんの「慈悲」の源にあるものについて、詳しくうかがうことができました。どうか最後までじっくりとお読みいただけますとさいわいです。

※このダイアローグをベースとしたTempleを開催いたします。プラユキさんご本人もご参加くださいます。詳しくは記事の最後でお知らせいたします。どうかお見逃しなく!

手動瞑想で「いまここ」にちゃんと触れていく

小出:本日は「いのちからはじまる話をしよう。」ということでお邪魔しています。先生とのお話、とてもたのしみにしてきました。どうぞよろしくお願いいたします。

プラユキ:私もたのしみにしていました。よろしくお願いします。

小出:さっそくですが、先生は「チャルーン・サティ」の中の、とくに「手動瞑想」という、手を、こう、パッ、パッ、と動かしながらやっていく瞑想法を、主にご指導されていますよね。これは、まさしく、いまここにあるいのちのダイナミズムに気づいていく、非常に優れたメソッドだな、と思っているのですが。

プラユキ:そうですね。手というのは、いまここに、ものすごく具体的なものとして、リアルにあるわけですよね。気づきを伴わせながら、パッ、パッ、と動かしていくことで、私たちがともするとはまっていきがちな、過去や未来、あるいは自分と他人という概念の世界、そうしたフィルターを通してみる世界から解放されていく。そのための仕掛けや道具みたいなものですね。

小出:いまここに確かにある、この手の動きにちゃんと気づいていくことによって、思い込みの世界から現実の世界に戻ってこられるというか……。

プラユキ:ええ。概念の中に埋もれてしまわずに、いまここにちゃんと触れていく。それによって広がっていくものがあるんです。そして、その瞬間ごとの手の動きというのも、自分のアクションというより、世界のアクションとして展開していくんですね。

小出:世界のアクション!

プラユキ:ダンマ(法)のアクションというか、自然(じねん)のアクションというかね。

小出:大乗仏教のことばで言えば、すべて広大なご縁の網目の中で起こっている、自分が、自分の力だけでこの手を動かしているのではなくて、世界全体のダイナミズムが、いまここの、この手の動きに表現されているんだ、ということになるでしょうか。

プラユキ:そういうことですね。瞑想を続けていれば、次第にそんな感じになっていきますよ。

小出:それを頭での理解だけではなく、しっかりと「感じて」いくところに、瞑想の本質があるのでしょうね。

「執着」は目を曇らせるフィルターになる

小出:さきほど「フィルター」ということばをお使いになられましたけれど、そこに関して、もう少し詳しくご説明いただけますか?

プラユキ:立場とか見地、自我概念とかいったものへの執着。それからみんなで作ったルールへの執着。あるいは、感覚とか物とかによって生まれてくる対象への執着。それらはすべてフィルターになってしまうんです。それを、瞑想によって、ひとつひとつ、パッ、パッ、と気づき、手放していく。

小出:それらを手放していくことによって、いまここにあるいのちのダイナミズムに、直に触れていけるようになる?

プラユキ:そうですね。それをやっていくことによって、感覚が、すごくビビッドになっていく感じはしますよね。いきいきとした生命力をそのまま直(じか)に感じられるというか。やっぱり、価値概念とか、世間のルールとかの方に気持ちが持っていかれてしまうと、非常に生々しい、現在の質感が失われてしまうので。

小出:なるほど。常識なんだから絶対にこれが正しいはずだっていう、無意識の思い込みによって見えなくなっているものって、きっとたくさんあるのでしょうね……。

プラユキ:そうそう。たとえば「青信号は渡れ、赤信号は止まれ」っていうルールがあるけれども、あんまりそれに縛られ過ぎると、極端な話、車が向こうから来ているのに「青信号だから」って言って渡って、結果、大変な事故につながってしまうことだってあるわけでしょう。

小出:ああ……。

プラユキ:もちろん、ルールはとても有益なものだし、ちゃんと活用すれば生活上での困難も減らしていけるわけだけれど、それはあくまで自分たちが勝手に作り上げたものであって、かならずしもそこに実体はないということをちゃんと押さえた上で守っていかれるといいかと。あんまりそれにがんじがらめになると、いきいきした生命、それこそいまここ性を失ってしまいますから。

小出:いまここ性。それこそが、いのちの質感なのでしょうね。

プラユキ:そうですね。瞑想をしていくと、ほんとうに、いのちの世界が溢れてくるんですよ。そうなっていくと、自分の内側と外側の双方にちゃんと目配り、心配りできるようになるんです。

起こってきたことはすべてOK!

小出:それに関連するのかもしれませんが、「手動瞑想」は、目を開けて行うのが特徴ですね。

プラユキ:はい。自分の内側には、いろんな考え事やら記憶やらが常に起こっているわけですけれど、外側の世界にも、もちろん、絶えずいろんなことが起きているわけですからね。目を開けてやっていくことで、内側で起こっていることも、外側に起こっていることも、すべてオープンに受容していけるようになります。

小出:これはいいけど、これはだめ、という風に、こちら側で条件を付けずに、いまここにあるものを、ぜんぶ受けいれていくということですね。「起こってきたことはすべてOK!」って。

プラユキ:そうそう、そういうことですね。「OK!」って、すごく大事な態度なんですよ。たとえそこにネガティブなものが生じてきていたとしても大丈夫です。ちゃんと対応できますから。でも、まずは一度受容してしまわないことには、そこからどうしていこうか、といった吟味もできず、智慧も働いてこないので。

小出:ここでは「信頼感」というのが絶対的なキーになってきそうですね。

プラユキ:put oneself on ○○という態度ですね。ちゃんと向き合うことから信頼が生まれてくる。

小出:いまここにあるものにちゃんと向き合う……。

プラユキ:そうです。いまここで、どんなものに出会っても、それに自分自身を開いておく。

小出:ということは、put oneself on ○○の○○にあたるものは、その時々にあらわれてくる現象ということになりますかね。

プラユキ:そう。それは現象であったり、存在であったりするわけですけれど、まずはそれらを何であれ信頼していく。

小出:うーん。「信頼しよう!」と思って、信頼できるものですかね? 実際、ものすごく難しそうな……。

プラユキ:最初は難しくても、徐々にね。なにはともあれ瞑想を続けていると、信頼と受容も自然に培われてきます。そのうちに、『みんな苦しみをともにしているんだなあ、それは結局、無明から起こっているものなんだなあ』といった理解も自ずと起こってきますよ。

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