「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、私、小出が今回お訪ねしたのは、保育士起業家として活躍される小竹めぐみさん。パートナーの小笠原舞さんとともに、「こども×◯◯」を軸としたコラボ事業(多様な分野の企業との共同事業)をメインに、この時代にこそ必要なモノ・コト・ヒトを生み出し、こどもや家族がより良く生きられる環境づくりを続けられています。そのほかにも、自主事業として、こどもと大人が同時に主役となって育ち合う「おやこ保育園」や、園舎を持たないインターネット保育園「ほうかご保育園」などのユニークな事業活動を通して、総じて「こどもたちにとって本当にいい未来」を探求し続けられている、大変素敵な方です。
めぐみさんとは、共通の友人を介して、数年前に知り合いました。以来、気の合う友人として交流を深め、対話を重ねていく中で、私は思ったのです。めぐみさんの生き方の根底にある「いのちそのものからくる愛」が、そのまま、あの素晴らしい活動や表現の数々に結びついているのだ、と……。その「愛」ということばでしか表現できない「なにか」の正体を確かめたくて、今回、あらためてじっくりとお話を聞かせていただきました。
自他の「違い」を認めることから見えてくる世界のあたたかさ、いまここにあるものへの信頼感をベースに持つことの大切さ、ほんとうのコミュニケーションのあり方など、何気ないお話の中に「いまを生きるヒント」がたくさん散りばめられています。また、この対話を収録したとき、めぐみさんはちょうど妊娠7か月。おなかにもうひとつのいのちを抱えて生活する中で気がついたこともシェアしてくださいました。このタイミングで、めぐみさんと「いのちからはじまる話」ができたことをしあわせに思います。
多くの方にお読みいただきたい対話です。ぜひ、じっくりと、でも肩の力を抜いて、ゆったりとおたのしみくださいませ◎
※このダイアローグをベースとしたTempleを京都三条の瑞泉寺さんにて開催いたします。詳しくは記事の最後でお知らせいたします。どうかお見逃しなく!
決まった正解のない世界
小出:今日は「いのちからはじまる話をしよう」ということでお邪魔しています。まあ、めぐみさんと私って、普段から、言ってみれば「いのちの対話」ばかりしているし(笑)、取材だからって特別に気を張ることもなく、いつも通り、ゆる~くお話しができたらいいなと思っています。よろしくお願いします!
小竹:いつもの感じでね。よろしくお願いします。
小出:さっそくだけど、めぐみさんたちがやっている「おやこ保育園」(※1)に参加させてもらったり、あと、こどもみらい探求社のパートナーの小笠原舞さんとの共著『いい親よりも大切なこと』(新潮社=刊)、『70センチの目線』(小学館集英社プロダクション=刊)を読ませてもらったりして、私、あらためて、めぐみさんたちの活動を通して見えてくる世界が大好きだなあ、と思ったんだよね。その世界っていうのは、あえてことばにするなら、「決まった正解のない世界」っていうことになるんだけど。外側から押しつけられた「いわゆる正解」、それがない世界。
小竹:なるほど。
小出:「正解」がないからこそ、すべてが「大正解!」で。すでにここにこういうかたちであらわれているものを「そうだね、そうだね、そうだよね」って、ただ、受けいれるともなく受けいれていくだけでいいんだな、って教えてもらえる。そのことがストンとおなかに入ってくると、肩の力が抜けて、視野が広くなる。これこそが本来的ないのちのあり方だよなあ、って思えるんだよね。
小竹:うわあ、うれしい。ありがとう! そうだね。確かに、私たちって、場づくりでも本づくりでも、そこでなにかを「伝えよう」と思ってやっていない。
小出:「伝えよう」と思ってやっていない?
小竹:もちろん伝えたいことがまったくないわけではないけれど、その伝え方に意識をつかっていて。だから、場づくりでも、本づくりでも、「こんなときにはこうしましょう」ではなく、「こういう風にもできるかもしれませんね」とか「こんなやり方もあります、あなたはどう感じますか」とかいう表現にとどめることが多いんだよね。
小出:あくまで「例」を提示しているだけなんだね。「これが正解です!」とは言わないで。
小竹:そうそう。いろんなものを並べて見せている感じ。なにかをつくるときにいちばん大事にしているのはそこかなあ……。
※1 おやこ保育園:こどもみらい探求社主宰の連続型プログラム。「園舎はなく、園庭は街ぜんぶ!」「こどもも大人も一緒に過ごして、どちらも主役になれる」「親も、こどもたちも、保育士も、みんなフラットな関係で育ちあう」という場。
花は、すでに咲いていた
小出:たとえばさ、普段と同じ道を歩いていて、「あれ? こんなところに、こんな花、咲いていたっけ?」って突然気づいてびっくりすることってあるじゃない? で、ひとつの花の存在に気づくと、同時にその周りに咲いている花の存在にも気づけるんだよね。「あ、ここにも咲いてた! あっちにも咲いてた!」みたいな。めぐみさんたちのお仕事って、言わば、花の存在に気づく力への信頼感を回復させていくことなのかな、って、いま、ふと思ったんだけど。
小竹:ほんとうにそこなんだよね。「あ、咲いていた!」と。でも、花が咲いていたこと自体に気づかないで、道をぱーっと通ってしまう人がやっぱり多いから、そんなに急がなくてもいいんじゃない? 一度立ち止まってみましょうよ、といった具合かな。
小出:しかも、その示し方も「これが花です!」「みんな、立ち止まってあれを見て!」っていうやり方じゃなくて、「花を見つける力はあなたの中にかならずあるんですよ」と、その可能性を指し示すことで、結果的に、その世界を自分の身をもって体感してもらう、そういうやり方なんだよね。とにかくおおらかというか、すでにそうあらわれているものへの絶対的な信頼感がど真ん中にドーンとあって、そこから世界を見ている感じがする。だからひとりひとりの違いに対しても寛容になれるし、むしろそれを尊重できるんだと思う。それこそ仏教的世界観というか、曼荼羅的世界観というか……。
小竹:曼荼羅? くわしく聞きたい。
小出:曼荼羅って、まあ、いろんなタイプがあるけれど、いちばん有名なのは胎蔵界と金剛界をセットにした両界曼荼羅というもので。そのうちの、とくに胎蔵界曼荼羅の方には無数の神仏の姿が描かれていて、しかも、どれひとつとして同じ姿をしていないんだよね。みんなバラバラなの、姿が。
小竹:ああ、見たことある。端っこの方には餓鬼みたいなのがいたりするんだよね。
小出:そうそうそう。「え、こんなおぞましい姿をした生き物が仏さまの世界にいていいの!?」って思っちゃうような姿をしたものも、曼荼羅の中にはきちんと描きこまれていて、その全体で「ひとつ」の世界を表現している。だから、存在がゆるされていないものがないんだよね、その世界においては。
小竹:なるほどねえ。
小出:しかも、全体でひとつだし、そこに描かれているどんな仏さまも、その一体一体で、また、ひとつの世界を表現していて……。入れ子構造になっているんだよね。
小竹:面白い。
小出:面白いよね! こういう曼荼羅の世界観が私は大好きなんだけど、それと同じ種類のおおらかさを、めぐみさんたちの活動には感じるんだよね。
それぞれの、花だから
小竹:確かにそうかもね。『いい親よりも大切なこと』も、「なんの本?」って聞かれたら、「人間、ひとりひとり違うよね、っていう本」と答えるしかないと思っていて。
小出:うん。
小竹:「違うよね、ひとりひとり」っていう。そこには主語もなくて。こどもも、大人も、保育士も。人って本来、年齢でも、性別でも、職業でも、国でも、地域でもくくれなくて、ひとりひとりがぜんぜん違うあり方をしていて。その「違うよね」っていうことを分かち合うために、細かく章立てをして、ひとりひとりがどれだけ違うかっていう、具体的な事例を並べているんだけど。
小出:じゃあ、やっぱりこの本の核というか、ベースにあるのは、最終章に出てくる「凸凹(でこぼこ)論」(※2)なんだ。
小竹:そうそう! 凸凹論もね、あんまり「論」とかを入れると色が出過ぎちゃうし、小難しい感じになっちゃうし、本に入れるかどうするか随分悩んだんだけど、やっぱり、ここを外すわけにはいかなくて。
小出:そうだよね。本に限らず、常に、めぐみさんたちの活動のベースにあるんだろうね、凸凹論が。
小竹:そうなんだよね。
小出:「みんな違う、それでいいし、それがいい」っていう。そこへの絶対的な信頼感の上に活動をしている感じがする。タンポポはタンポポだし、スミレはスミレだし、ポピーはポピーだし、みんなぜんぜん違うけど、違うからこそいい。ただ、そこに咲いている、その姿が「ひとつ」のいのちのあらわれ、そのものだから、っていう。究極的には良いも悪いもなくて、ただ、「いま、咲いているね」って。それだけでいいんだよね。
※2 凸凹論:こどもみらい探求社が提唱する理論。「自分自身の強みや弱みを含めた特性に気づき、受容することで、結果的に、他者の持つ特性をも受容できるマインドがつくられていくこと」と定義されている。
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