科学は「なぜ?」は問うてはいけない学問

小出:ところで、和葉さん、先ほど「科学が扱える領域自体、実はものすごく狭い」とおっしゃっていましたよね。そこについて詳しくうかがってもいいですか?

小笠原:一般的に「科学」ということばで呼ばれる分野が扱えるエリアって、ほんとうに、世界の中のわずかな部分でしかないんですよ。非力と言ってもいいぐらいのものなんです。

小出:非力ですか! 現代人って、みんな、どこか科学的なものに弱いというか、「科学的に証明されているなにか」を無条件で鵜呑みにしてしまうようなところがあるように思うのですが……。科学では扱えない部分というのは、たとえば、どんなところですか?

小笠原:科学は数学を共通言語として持つ学問なので、数々の観測結果から決まった公式を導き出すことはできるんですよ。たとえば「ケプラーの法則で惑星の運動が説明できます。これですべての観測結果が説明できます」って。でも、「以上!」なんですよね。

小出:「これが公式です!」「以上!」そこから先は……

小笠原:その先は分野が違うのでやらないんです。それが科学という学問です。

小出:ああ……。なんか、いま、長年のモヤモヤ感の謎が一気に解けた気が……(笑)。たとえば、私なんかは、「惑星の運行を説明する公式があることはわかりました。でも、この公式ですべての説明がつくってすごくないですか? なんでこんなにすごいことが起こるのでしょう? 信じられない! アメイジング!」……みたいなところに興味がいってしまうのですが(笑)、そういったタイプの興味関心は、科学の扱える範囲を超えている、ということですね。

小笠原:そうそう。科学は「なぜ?」は問うてはいけない学問なんですよ。この公式ですべての現象は説明できます、なぜかはわかりません、「なぜ?」は学問が違います、それは哲学の人にやってもらってください、っていう。

小出:うーん、なるほど……。

小笠原:科学はそういう宗教なんです、言ってみれば。「これがすべてです」っていう。だから最後はそれを信じるしかないんですよ。「なぜ?」と言われても、「こうなっているので」としか言えない。この公式に従っていることは確かなので……ということを信じている宗教ですね。

小出:ものすごく腑に落ちました。

科学の道を歩んでも、自分の中の謎は解明されなかった

小出:実は、私、あるとき、ある科学者の方とお話させていただく機会があったんですね。その方は、素人の私にもわかりやすく、観測結果から導き出されるある結論を鮮やかに提示してくださって。私は、もちろん、その法則がこの世界を成り立たせていること自体にも、ものすごく感激したんです。でも、それ以上に、その法則が成り立つことを可能にさせている「いのちのはたらき」としか呼べないものの方に胸を打たれてしまって……。「どうしてそんなにすごいことが成り立つんですか? ものすごく不思議ですよね!」みたいなことを言ったんですけれど、「なにが不思議なのかがわからない」「現に結果が出ているのだから、それを信じればいいだけじゃない」と言われてしまったんです。

小笠原:「不思議だよね」っていうのは、科学者には通じないんですよ。通じないというか、そこに立ち入ってしまうと、カテゴリーが違ってくるんです。科学という領域が侵されるというか、ごちゃごちゃになってしまうので、そこから先には行かないという強い合意があるんです。

小出:そういうことだったんですね……。

小笠原:不思議さとか、この世の法則を成り立たせているなにかの存在とか、そちらの予感にゾワゾワさせられながらも、科学者の顔をしているときには、ぜったいにそこには言及しない。そっちに行くと、ものすごく胡散臭がられるので。でも、科学者の中にも、やっぱり、そういった「なぜ?」の領域に惹かれていく人ってたくさんいて。だから、先生たち、大学を退官されると、こぞってそういう本を書きはじめるんです(笑)。

小出:自分の興味に素直に向かっていくんだ(笑)。

小笠原:そう。なんだ、先生たちも、ほんとうはそっちをやりたかったんじゃない! って(笑)。

小出:和葉さんご自身に、そういうフラストレーションはなかったですか?

小笠原:もちろん、ありましたよ。私は完全に「なぜ?」の人だったので。それを解明するために宇宙物理学に入っていったんですけれど、ぜんぜん満たされなかったんですよね。正直、研究の道に入る前に、自分でブルーバックスとか読んでワクワクしていた時代の方がたのしかった(笑)。もちろん、最先端の学問の世界に身を置けたことはありがたいことだったし、科学的なアプローチがどういう手続きを持って進められるのか、それを学べたことは、のちのちすごく役立ったんですけれど。でも、いくら研究をしていても、ぜんぜん知りたかったことが知れた感じがしなかったので、結局、修士で辞めてしまったんですね。

小出:そうでしたか。

ほんとうの謎は「あっち」じゃなくて「こっち」にあった

小笠原:だから、どちらかと言えば、ボディーワークとか心理とかの世界に入ってきてからの方が、自分が小さい頃から疑問に思っていたことに近いところにいるような気がしていますね。

小出:小さい頃から疑問に思っていたことというのは、最初にお話ししてくださった「宇宙の果てはどうなっているんだろう?」みたいなことですか?

小笠原:そう。夜ベッドに入ると、「この天井の向こうには空があって、星があって、そのままずっと行くと星もないようなところがあって……その先はどうなっているんだろう?」みたいなことを毎日飽きずに考えて続けていて。

小出:変わった子ども時代を送られたのですね……。

小笠原:でも、それって、いまになって思うと、宇宙空間が物理的にどうなっているのかという疑問というよりは、その宇宙の中に自分がいること、それ自体に対する疑問だったと思うんですね。

小出:ああ。ほんとうの謎は、「あっち」じゃなくて、「こっち」にあったんですね。

小笠原:そう。でも、子どもは、自分がほんとうはなにを不思議と思っているのかなんて、ことばで上手に説明できないじゃないですか。だから、単純に、お星さまのことが知りたい、というところから、物理学科までそのまま行ってしまったんですけれど。

小出:大人もそうですよね。ふだん生きている世界では、ぜんぶ「対象」が問題になってきますからね。「対象」を「対象」として見ている「これ」に関しては、なかなか興味が向いていかない。

小笠原:そうなんですよね。だから私も宇宙の成り立ちの仕組みがわかったらすっきりするのかなって思ったけれど、そもそも大元の疑問が違っていたので(笑)、やっぱりいつまで経っても満足できなくて。ほんとうに興味があったのは、宇宙を見ている自分、それ自体。というか、宇宙の中に自分がいることの不思議の方だったんですね。宇宙と自分との関係性、そこにほんとうに解明するべき謎があった。

小出:なるほど。

世の中には大きくわけて二種類の宗教がある

小出:その「謎」は、ボディーワークや心理の世界のことをやっていく中で、無事、解明されましたか?

小笠原:わかりつつある部分はあるような気もするんですが、完全には解明されませんね。というより、最後までわからないんじゃないかな。結局、「真実」と呼べるものなんて、この世界には存在していないので。

小出:ああ、わかります。

小笠原:客観的な真実なんてないですよね。

小出:はい。私自身は「ない」と思っていますね。「客観的な真実なんてどこにもないということ、それ自体が真実」みたいな、メタ的な言い方はできるかもしれないけれど。

小笠原:そうそう。でも、まあ、これも個人の好みの問題ですよね。私、この世には、「客観的な真実があると信じるタイプの宗教」と、「客観的な真実はないと信じるタイプの宗教」があると思っているんです。

小出:確かに、どちらも結局は自分の信念に帰着するから、広い意味で宗教と言ってもいいですよね。

小笠原:そうなんです。

小出:その枠組みで言えば、私は完全に後者の宗教の信者ですね(笑)。紆余曲折を経て、いまは、客観的な真実はない、ということを信じているところに落ち着いています。でも、これだって、あくまでも「信念」でしかないんだ、縁によっていくらでも変わり得るんだ、ということに自覚的でいれば、自分とは違う立場の人のことを攻撃したり排斥したりはしなくて済みますよね。

小笠原:そうそう。どちらがより正しいとか言い出したらキリがないですしね。

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