どのような語りもすべて断片的な真実にしかならない

小出:和葉さんはどうして「客観的な真実はない」と思われるのですか? 明確なきっかけはありましたか?

小笠原:二、三年ぐらい前かな。ある方が、「僕は、この世界は、三次元じゃなくて、二次元だと思う」というお話をされたんですよ。

小出:この世は二次元!

小笠原:びっくりしますよね(笑)。でも、その方、決して変な人ではないんですよ。かなり頭の良い方で、緻密に論を積み上げた結果、その結論に辿り着いたらしいんですね。でも、私自身はぜんぜん納得ができなくて、いやいや、この世は三次元プラス時間が一方向に流れているから、三次元半ですよ、って思っていたんですけれど。

小出:それが常識とされていますしね。

小笠原:でも、私、どうしてもその話が気になっていて、折に触れて「どうやって考えたらいいのかな」って考え続けたんです、数年間。

小出:さすが、研究者タイプですね……。

小笠原:で、あるとき、ふっと、「この世は実はこうなっていました」って言える人なんかいるのかな? ということに思い至ったんですね。

小出:なるほど……。そうですよね。「実は」っていうのは、この世を完全に超えた視点からのことばですものね。この世に肉体を持っていきている限り、そういうことを言える人は誰ひとりいないはずで……。

小笠原:そうなんですよ。真実というのは、言ってみればモヤモヤとした集合体のようなものなんだけれど、それを俯瞰で観測できる人なんかひとりもいなくて。そういう意味で、真実はないんだな、って。

小出:この世界の中に生きている人間のことばに、真実全体をあらわしたものはない、ということですね。

小笠原:そう。キリスト教で語られる世界も真実だし、仏教で語られる世界も真実だし、進化論で語られる世界も、科学という断面で見たときには真実だし、スピリチュアルということばでくくられる領域が語る世界にも真実はある。でも、そのどれも集合体をどこかの断面で切り取ったものでしかないんだなあ、って。結局、総合的に「真実はこれです」と指し示すことはできない。

小出:肉体を持って生きているということは、個別の物語を生きることと完全にセットになっていて。その視点から見る世界は、真実の一部ではあるけれど、決して全部にはなりえないんですよね。

小笠原:そうなんですよね。だから、たとえば、私が死んだあとに、お葬式で、「和葉さんってこういう人でしたよね」っていうようなことを言う人がいて、でも、「え? そうでしたか? 私にはこういう人でしたよ」って言う人もいて。いろんな人がいろんなことを言って、「じゃあ、結局、小笠原和葉はどういう人だったの?」と言っても、ぜったいにひとことでは表せなくて。

小出:もしお棺の中からガバッと本人が起きあがって、「いやいや、私はこういう人ですよ!」って主張したとしても(笑)、それも、結局はひとつの物語でしかなくて。

小笠原:真実もそれと一緒だと思うんですね。そう考えると、やっぱり、どの宗教にしろ、科学にしろ、どれが正しいとか、どれが間違っているっていうのは、結局、すごく不毛な議論だなあって。

小出:ほんとうにそう思いますね。

生きていることはすべて実験。成功も失敗もない

小出:そういう意味で、謎は謎のままで、無理に解明しようと思わなくてもいいのかもしれない。もちろん、解明しようとしてもいいんですけれど、「わからない」ことと仲良くしていく道というのも、また、用意されていたりしますからね。和葉さんもご著書のあとがきに、こんな風にお書きになられていますよね。

私は、「生きていることはすべて実験だ」と思っています。良い感情も悪い感情もなく、成功も失敗も、正しいも間違いもなく、ただ、「いろいろなことがある」それだけなのだと。宇宙から人間までを一つのシステムとして見た時、そんなふうに思うのです。

小出:ここ、すごく感動しました。ああ、ほんとうにそうだなあ、って、しみじみ……。

小笠原:これは研究者として実験をしていた中で実感したことなんです。科学の分野には「失敗」という概念がないので。

小出:失敗がない!

小笠原:大きなところから見れば、なにも失敗はない。スーパーカミオカンデってご存知ですか? 岐阜の鉱山の地下にある、世界最大の宇宙素粒子観測装置で、そこからノーベル賞をとるような研究もたくさん生まれているんですけれど。最初、あのシステムを作るときに、水がたくさんいる、ということで、池で実験をしていたんですね。でも、それはうまくいかなくて。なぜなら装置に魚が入ってしまったから。

小出:魚……! 最先端の科学の実験の話ですよね?(笑)

小笠原:そう(笑)。初期には、そんな、すごいしょうもない笑い話があるんです。でも、魚が入ったから失敗、というわけではないんですよね。「ああ、なるほど。池でやると魚が入るんだ。じゃあどうしようか。鉱山の地下にプールを作ろう!」という風に、ちゃんと次につながっていって。

小出:なるほど。

小笠原:だから、ひとつひとつ、これは成功、これは失敗、という風に判断していくのではなくて、ただ、データが集まっていくっていう、それだけの話なんですね。

いま自分が生きていることに対する納得感

小出:その視点があれば、人生も、ものすごく楽になりそうですね。

小笠原:そうなんですよ。私たち、ふだん、生きていく上で、間違わないこととか、失敗しないことに気を使いすぎているところがあるので。

小出:失敗なんかない、というところを生きていければ、いい感じに力が抜けていきますよね。その先に、良い悪いを超えた本質的なしあわせがあるんじゃないかな。ただ、ここに存在していることのありがたさに目を見開かされるというか……。

小笠原:私もボディーワークの世界に入ってきて、いろんなことを学んでいく中で、スピリチュアリティーっていったいなんなんだろう、なんのためにあるんだろうって、自分なりに考え続けたんですね。で、現時点での結論としては、いま自分が生きていることに対する納得感を得るためのものなんだな、と。

小出:いま自分が生きていることに対する納得感。なるほど。

小笠原:それが得られるなら、フレームはなんでもいいんですよ。既存の宗教であったり、あるいは科学であったり、いろいろあると思うんですけれど。

小出:スピリチュアリティーというのは、広い意味での信仰心とも言い換えられますよね。いま、自分がここにこうして生きていることを肯定したい、という気持ちは、きっと、誰にでもありますからね。

小笠原:なんでここにいるのかがわかれば、究極の安心感につながりますからね。だから、なんらかのスピリチュアルなフレームは、みんな持っているはずなんですよね。

小出:そうそう。枠組みはなんでもよくて、それこそ無数の道があって……。もちろん、どうしていまここに自分が生きているのか、という問いに対する究極的な答えというのは決して得られるものではないと思うんです。でも、それぞれの、広い意味での信仰の道の途上で、「ああ、こういうことか……」みたいな納得感は、幾度かは訪れるんですよね。その納得感が絶対的なものではなかったとしても、その時々にそういったものがあるかないかによって、生きやすさの度合いは変わってきますからね。

小笠原:ほんとうにそう思いますね。

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