「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私は、ボディーワーカーとして活躍されている小笠原和葉さんをお訪ねしました。ボディーワークとは、ココロとカラダをひとつのつながったものとして考え、カラダに働きかけることによって、心身を調整していくセラピー等を総称したことばです。これからの時代、ますます大きな役割を担っていく分野であることは間違いありません。
ココロという目に見えないものを扱うお仕事をされているのに、和葉さんのお話はものすごく緻密で理路整然としています。それもそのはず、和葉さんは元バリバリの理系研究者。ご本人も「自分の根っこのフレームは科学者」とおっしゃっています。「科学」と「精神世界」。その一見して相容れないような分野の真ん中に立ち、たぐい稀なバランス感覚でボディーワーク界の最先端を走っていらっしゃる和葉さんにしか語れない「いのち」の話があるのではないか、と、出会ったその瞬間にオファーをしてしまいました。
その直観が正しかったことは対話をはじめてすぐにわかりました。やさしく、やわらかでありながら、その根底に、人間が本来持つ圧倒的な力への信頼を感じさせる口調で、数時間たっぷり「科学とスピリチュアルのはざまから見たいのちの話」を語ってくださいました。
科学の定義から、スピリチュアリティーの意義まで、ほかでは聞けない貴重なお話満載です。ぜひ、最後までじっくりとおたのしみくださいませ!
「理系ボディーワーカー」として
小出:今回は「いのちからはじまる話をしよう。」ということでお邪魔しています。和葉さんの肩書き、おもしろいですよね。「理系ボディーワーカー」。なかなか見ないことばだなあ、と。
小笠原:そうですよね(笑)。
小出:和葉さんは、心理セラピーやトラウマ解放など、どちらかと言えば目に見えない領域のことを主になさっていて。でも、その根底には「理系ボディーワーカー」の名の通り、科学者的な精神が滔々と流れているようにお見受けします。
小笠原:そうですね。なにをもって「科学」というのかというお話はありますけれど、私自身の根っこのフレームは「科学者」なんですよね。常に物事の原理、原則、背後にある普遍性を探っているようなところはありますから。
小出:今日は、心理と科学、そのふたつの領域から、いのちのお話をお伺いできれば、と思っています。よろしくお願いいたします。
小笠原:よろしくお願いします。
小出:和葉さんは、大学では宇宙物理学を専攻されていたそうですね。
小笠原:はい。子どもの頃から「宇宙の果てはどうなっているんだろう?」みたいなことを真剣に考え続けていたような人間だったので(笑)。大学では迷わず宇宙物理学を専攻して、そのまま大学院にも進みました。
小出:大学院では、具体的に、どのようなご研究をされていたのですか?
小笠原:ブラックホールや銀河同士の衝突などの高エネルギーの現象を観測して解析することを専門にしていて、オーストラリアの砂漠に研究に出かけたりもしていました。
小出:砂漠で天体観測! その後どういった道を辿られて、現在のご職業に……?
小笠原:大学院を出たあとに研究職に就いたのですが、激務のストレスで持病のアトピーが悪化してしまって。横になって眠れないほど苦しくて、どうにかしたい、と情報を集めているときに、ヨガに出会ったんですね。それをきっかけに心身の状態がどんどんととのっていって……。
小出:そこから現在のボディーワークの世界に入って来られたのですね。ご著書、『理系ボディーワーカーが教える“安心” システム感情片付け術』(日貿出版=刊)にもお書きになられていましたね。「理系から癒し系に転身します!」と宣言されて研究職を去られたとか。
小笠原:そうなんです(笑)。
「大丈夫」を実感したときに、カラダは健康な状態に向かっていく
小出:研究職をお辞めになったあとは、クラニオセイクラル(頭蓋仙骨療法)や数多くのボディーワーク、ヒーリング、心理学を学ばれ、その後、オリジナルの講座・PBM(プレゼンス・ブレイクスルー・メソッド®)を開講。その後、さらにトラウマ療法を専門的に学ばれて、現在に至る……というご経歴で。ってすみません、いまのはプロフィールを読み上げただけなんですけれど(笑)。私はこちらの分野に明るくないので詳しいことはまったくわからないのですが、とにかく、和葉さんが「癒し」の分野のプロフェッショナルなんだな、ということはよく理解できました。でも、「癒し」と言っても、和葉さんの場合、決してフワッとした地に足のつかないようなものじゃなくて、科学的な理論との共存の可能性を探りつつ、誠実にやっていらっしゃるような印象があります。
小笠原:もちろん、科学が扱える領域自体、実はものすごく狭いものだったりするので、限界はありますけれどね。私は、既存の科学でぜんぶが証明できるとか説明できるとか、そんな風には思っていないんですよ。実際、臨床の現場では、科学のことばではまったく説明がつかないようなことがたくさん起こっているわけですし。でも、たとえばトラウマ療法のベースには、トラウマはココロではなくカラダの問題なんだ、という科学的なデータがありますし、そこは決して対立するものではないんですよね。
小出:なるほど……。カラダからのアプローチでココロを整えていく、ということですが、具体的にはどのようにしていくのでしょうか?
小笠原:道筋というのは人それぞれで、決して定まってはいないんですよね。その人にとってどんな状態がもっとも健康なのか、というのは外からはわからないし、本人にもわからないことがたくさんあるので。
小出:本人にも、ですか?
小笠原:顕在意識の上ではね。
小出:アタマではわからない、ということですね。
小笠原:そう。でも、カラダには、常にいちばん健康な状態、最適化された環境に向かい続ける力というのが確実にはたらいているんです。それで、そのレギュレーションの力というのは、いまここは安心、安全で、自分は大丈夫だ、と本人が気づいたときに発動するんですね。
小出:へええ……!
小笠原:ボディーワークでも心理療法でも、セラピスト側ができる唯一のことは、過去にはいろいろ恐ろしいこと、つらいことがあったかもしれないけれど、いま、この瞬間は大丈夫だよね、安全だよね、というのを一緒に確認してあげること。それによって安心感がもたらされると、あとはクライアント自身の自己調整能力によって、自然と、いちばんいい状態まで行けるんです。
小出:おもしろいですねえ。それこそ、「いのちの力」と呼べるものなのかもしれない。
いま、この瞬間にある体感や呼吸を使っていく
小笠原:常に身の周りの状況を察知して、それに自分を適応させていくというのは、生き物としては、ある程度、健全なことなんですね。危機への備えが緊急で必要な環境に置かれているのだとしたら、それはもちろんやるべきだし、その能力自体を否定するものではないんだけれど、ただ、それが過剰にはたらき続けているのが問題なんです。
小出:まったく心身が休まらないのはつらいですものね……。
小笠原:それで、トラウマの方は、過去の、その出来事が起きたときの状態のままで、カラダ、もっと詳しく言えば神経系のシステムが止まってしまっているんです。
小出:神経系?
小笠原:具体的に言えば、主に自律神経のシステムのことです。交感神経と副交感神経ってありますよね。人間って、交感神経が優位だとカラダが興奮した状態に、副交感神経が優位だと落ち着いてリラックスしている状態になるんです。健康な人はそのふたつの状態を行ったり来たりできるんですけれど、過去に心身に傷を負った方は、神経系がハイになったまま止まってしまっていることが多いんですね。すると、どんなにことばを使って「それはもう過ぎ去ったことですよ」「いま、この瞬間は、安心、安全ですよ」と呼びかけても入っていかない。
小出:カラダに受けいれる余裕がないから。
小笠原:そう。だから、思考ではなくて、体感の側からアプローチして、まずはカラダの方からいまに戻してあげると、システムが納得して先に進んでいく、と。
小出:いま話題のマインドフルネスと同じ感じですかね?
小笠原:そうだと思います。現代人って、ものすごい刺激の中を生きているし、アタマも使い過ぎているし、ほんとうにリラックスして落ち着いて安心するっていう状態に、カラダが入れなくなっているんですよね。常にやらなきゃいけないことに追われて忙しいし。そうすると神経系が活性して、興奮状態を持ち越し続けてしまうので。マインドフルネスの手法で、知覚に集中することで心身の状態を落ち着けて、いまここに戻ってくるというのは、現代人のニーズに合致していますよね。
小出:和葉さんがやられている体感側からのアプローチには、具体的にどのようなものがあるのですか?
小笠原:それこそマインドフルネスでやっていることとすごく近いと思います。いまここにある体感、たとえば椅子の座面の感じはどうですか? と聞いてみたり、あとは呼吸の状態を丁寧に見ていったり。
小出:いまここに確実にある、この感覚を使っていくんですね。
小笠原:そうです。実際にある体感に結びつけていくんですね。思考は、過去も、未来も、実際にはまるでないことも見てしまうんですよ。でも、カラダの感覚とか呼吸とかって、いま、この瞬間にしかないものなので、そちらに意識をくっつければ、否応なく、いま、の瞬間に戻ってこられる。そういうやり方ですね。簡単に言えば、ですけれど。
小出:なるほど。実際的ですね。
科学は「なぜ?」は問うてはいけない学問
小出:ところで、和葉さん、先ほど「科学が扱える領域自体、実はものすごく狭い」とおっしゃっていましたよね。そこについて詳しくうかがってもいいですか?
小笠原:一般的に「科学」ということばで呼ばれる分野が扱えるエリアって、ほんとうに、世界の中のわずかな部分でしかないんですよ。非力と言ってもいいぐらいのものなんです。
小出:非力ですか! 現代人って、みんな、どこか科学的なものに弱いというか、「科学的に証明されているなにか」を無条件で鵜呑みにしてしまうようなところがあるように思うのですが……。科学では扱えない部分というのは、たとえば、どんなところですか?
小笠原:科学は数学を共通言語として持つ学問なので、数々の観測結果から決まった公式を導き出すことはできるんですよ。たとえば「ケプラーの法則で惑星の運動が説明できます。これですべての観測結果が説明できます」って。でも、「以上!」なんですよね。
小出:「これが公式です!」「以上!」そこから先は……
小笠原:その先は分野が違うのでやらないんです。それが科学という学問です。
小出:ああ……。なんか、いま、長年のモヤモヤ感の謎が一気に解けた気が……(笑)。たとえば、私なんかは、「惑星の運行を説明する公式があることはわかりました。でも、この公式ですべての説明がつくってすごくないですか? なんでこんなにすごいことが起こるのでしょう? 信じられない! アメイジング!」……みたいなところに興味がいってしまうのですが(笑)、そういったタイプの興味関心は、科学の扱える範囲を超えている、ということですね。
小笠原:そうそう。科学は「なぜ?」は問うてはいけない学問なんですよ。この公式ですべての現象は説明できます、なぜかはわかりません、「なぜ?」は学問が違います、それは哲学の人にやってもらってください、っていう。
小出:うーん、なるほど……。
小笠原:科学はそういう宗教なんです、言ってみれば。「これがすべてです」っていう。だから最後はそれを信じるしかないんですよ。「なぜ?」と言われても、「こうなっているので」としか言えない。この公式に従っていることは確かなので……ということを信じている宗教ですね。
小出:ものすごく腑に落ちました。
科学の道を歩んでも、自分の中の謎は解明されなかった
小出:実は、私、あるとき、ある科学者の方とお話させていただく機会があったんですね。その方は、素人の私にもわかりやすく、観測結果から導き出されるある結論を鮮やかに提示してくださって。私は、もちろん、その法則がこの世界を成り立たせていること自体にも、ものすごく感激したんです。でも、それ以上に、その法則が成り立つことを可能にさせている「いのちのはたらき」としか呼べないものの方に胸を打たれてしまって……。「どうしてそんなにすごいことが成り立つんですか? ものすごく不思議ですよね!」みたいなことを言ったんですけれど、「なにが不思議なのかがわからない」「現に結果が出ているのだから、それを信じればいいだけじゃない」と言われてしまったんです。
小笠原:「不思議だよね」っていうのは、科学者には通じないんですよ。通じないというか、そこに立ち入ってしまうと、カテゴリーが違ってくるんです。科学という領域が侵されるというか、ごちゃごちゃになってしまうので、そこから先には行かないという強い合意があるんです。
小出:そういうことだったんですね……。
小笠原:不思議さとか、この世の法則を成り立たせているなにかの存在とか、そちらの予感にゾワゾワさせられながらも、科学者の顔をしているときには、ぜったいにそこには言及しない。そっちに行くと、ものすごく胡散臭がられるので。でも、科学者の中にも、やっぱり、そういった「なぜ?」の領域に惹かれていく人ってたくさんいて。だから、先生たち、大学を退官されると、こぞってそういう本を書きはじめるんです(笑)。
小出:自分の興味に素直に向かっていくんだ(笑)。
小笠原:そう。なんだ、先生たちも、ほんとうはそっちをやりたかったんじゃない! って(笑)。
小出:和葉さんご自身に、そういうフラストレーションはなかったですか?
小笠原:もちろん、ありましたよ。私は完全に「なぜ?」の人だったので。それを解明するために宇宙物理学に入っていったんですけれど、ぜんぜん満たされなかったんですよね。正直、研究の道に入る前に、自分でブルーバックスとか読んでワクワクしていた時代の方がたのしかった(笑)。もちろん、最先端の学問の世界に身を置けたことはありがたいことだったし、科学的なアプローチがどういう手続きを持って進められるのか、それを学べたことは、のちのちすごく役立ったんですけれど。でも、いくら研究をしていても、ぜんぜん知りたかったことが知れた感じがしなかったので、結局、修士で辞めてしまったんですね。
小出:そうでしたか。
ほんとうの謎は「あっち」じゃなくて「こっち」にあった
小笠原:だから、どちらかと言えば、ボディーワークとか心理とかの世界に入ってきてからの方が、自分が小さい頃から疑問に思っていたことに近いところにいるような気がしていますね。
小出:小さい頃から疑問に思っていたことというのは、最初にお話ししてくださった「宇宙の果てはどうなっているんだろう?」みたいなことですか?
小笠原:そう。夜ベッドに入ると、「この天井の向こうには空があって、星があって、そのままずっと行くと星もないようなところがあって……その先はどうなっているんだろう?」みたいなことを毎日飽きずに考えて続けていて。
小出:変わった子ども時代を送られたのですね……。
小笠原:でも、それって、いまになって思うと、宇宙空間が物理的にどうなっているのかという疑問というよりは、その宇宙の中に自分がいること、それ自体に対する疑問だったと思うんですね。
小出:ああ。ほんとうの謎は、「あっち」じゃなくて、「こっち」にあったんですね。
小笠原:そう。でも、子どもは、自分がほんとうはなにを不思議と思っているのかなんて、ことばで上手に説明できないじゃないですか。だから、単純に、お星さまのことが知りたい、というところから、物理学科までそのまま行ってしまったんですけれど。
小出:大人もそうですよね。ふだん生きている世界では、ぜんぶ「対象」が問題になってきますからね。「対象」を「対象」として見ている「これ」に関しては、なかなか興味が向いていかない。
小笠原:そうなんですよね。だから私も宇宙の成り立ちの仕組みがわかったらすっきりするのかなって思ったけれど、そもそも大元の疑問が違っていたので(笑)、やっぱりいつまで経っても満足できなくて。ほんとうに興味があったのは、宇宙を見ている自分、それ自体。というか、宇宙の中に自分がいることの不思議の方だったんですね。宇宙と自分との関係性、そこにほんとうに解明するべき謎があった。
小出:なるほど。
世の中には大きくわけて二種類の宗教がある
小出:その「謎」は、ボディーワークや心理の世界のことをやっていく中で、無事、解明されましたか?
小笠原:わかりつつある部分はあるような気もするんですが、完全には解明されませんね。というより、最後までわからないんじゃないかな。結局、「真実」と呼べるものなんて、この世界には存在していないので。
小出:ああ、わかります。
小笠原:客観的な真実なんてないですよね。
小出:はい。私自身は「ない」と思っていますね。「客観的な真実なんてどこにもないということ、それ自体が真実」みたいな、メタ的な言い方はできるかもしれないけれど。
小笠原:そうそう。でも、まあ、これも個人の好みの問題ですよね。私、この世には、「客観的な真実があると信じるタイプの宗教」と、「客観的な真実はないと信じるタイプの宗教」があると思っているんです。
小出:確かに、どちらも結局は自分の信念に帰着するから、広い意味で宗教と言ってもいいですよね。
小笠原:そうなんです。
小出:その枠組みで言えば、私は完全に後者の宗教の信者ですね(笑)。紆余曲折を経て、いまは、客観的な真実はない、ということを信じているところに落ち着いています。でも、これだって、あくまでも「信念」でしかないんだ、縁によっていくらでも変わり得るんだ、ということに自覚的でいれば、自分とは違う立場の人のことを攻撃したり排斥したりはしなくて済みますよね。
小笠原:そうそう。どちらがより正しいとか言い出したらキリがないですしね。
どのような語りもすべて断片的な真実にしかならない
小出:和葉さんはどうして「客観的な真実はない」と思われるのですか? 明確なきっかけはありましたか?
小笠原:二、三年ぐらい前かな。ある方が、「僕は、この世界は、三次元じゃなくて、二次元だと思う」というお話をされたんですよ。
小出:この世は二次元!
小笠原:びっくりしますよね(笑)。でも、その方、決して変な人ではないんですよ。かなり頭の良い方で、緻密に論を積み上げた結果、その結論に辿り着いたらしいんですね。でも、私自身はぜんぜん納得ができなくて、いやいや、この世は三次元プラス時間が一方向に流れているから、三次元半ですよ、って思っていたんですけれど。
小出:それが常識とされていますしね。
小笠原:でも、私、どうしてもその話が気になっていて、折に触れて「どうやって考えたらいいのかな」って考え続けたんです、数年間。
小出:さすが、研究者タイプですね……。
小笠原:で、あるとき、ふっと、「この世は実はこうなっていました」って言える人なんかいるのかな? ということに思い至ったんですね。
小出:なるほど……。そうですよね。「実は」っていうのは、この世を完全に超えた視点からのことばですものね。この世に肉体を持っていきている限り、そういうことを言える人は誰ひとりいないはずで……。
小笠原:そうなんですよ。真実というのは、言ってみればモヤモヤとした集合体のようなものなんだけれど、それを俯瞰で観測できる人なんかひとりもいなくて。そういう意味で、真実はないんだな、って。
小出:この世界の中に生きている人間のことばに、真実全体をあらわしたものはない、ということですね。
小笠原:そう。キリスト教で語られる世界も真実だし、仏教で語られる世界も真実だし、進化論で語られる世界も、科学という断面で見たときには真実だし、スピリチュアルということばでくくられる領域が語る世界にも真実はある。でも、そのどれも集合体をどこかの断面で切り取ったものでしかないんだなあ、って。結局、総合的に「真実はこれです」と指し示すことはできない。
小出:肉体を持って生きているということは、個別の物語を生きることと完全にセットになっていて。その視点から見る世界は、真実の一部ではあるけれど、決して全部にはなりえないんですよね。
小笠原:そうなんですよね。だから、たとえば、私が死んだあとに、お葬式で、「和葉さんってこういう人でしたよね」っていうようなことを言う人がいて、でも、「え? そうでしたか? 私にはこういう人でしたよ」って言う人もいて。いろんな人がいろんなことを言って、「じゃあ、結局、小笠原和葉はどういう人だったの?」と言っても、ぜったいにひとことでは表せなくて。
小出:もしお棺の中からガバッと本人が起きあがって、「いやいや、私はこういう人ですよ!」って主張したとしても(笑)、それも、結局はひとつの物語でしかなくて。
小笠原:真実もそれと一緒だと思うんですね。そう考えると、やっぱり、どの宗教にしろ、科学にしろ、どれが正しいとか、どれが間違っているっていうのは、結局、すごく不毛な議論だなあって。
小出:ほんとうにそう思いますね。
生きていることはすべて実験。成功も失敗もない
小出:そういう意味で、謎は謎のままで、無理に解明しようと思わなくてもいいのかもしれない。もちろん、解明しようとしてもいいんですけれど、「わからない」ことと仲良くしていく道というのも、また、用意されていたりしますからね。和葉さんもご著書のあとがきに、こんな風にお書きになられていますよね。
私は、「生きていることはすべて実験だ」と思っています。良い感情も悪い感情もなく、成功も失敗も、正しいも間違いもなく、ただ、「いろいろなことがある」それだけなのだと。宇宙から人間までを一つのシステムとして見た時、そんなふうに思うのです。
小出:ここ、すごく感動しました。ああ、ほんとうにそうだなあ、って、しみじみ……。
小笠原:これは研究者として実験をしていた中で実感したことなんです。科学の分野には「失敗」という概念がないので。
小出:失敗がない!
小笠原:大きなところから見れば、なにも失敗はない。スーパーカミオカンデってご存知ですか? 岐阜の鉱山の地下にある、世界最大の宇宙素粒子観測装置で、そこからノーベル賞をとるような研究もたくさん生まれているんですけれど。最初、あのシステムを作るときに、水がたくさんいる、ということで、池で実験をしていたんですね。でも、それはうまくいかなくて。なぜなら装置に魚が入ってしまったから。
小出:魚……! 最先端の科学の実験の話ですよね?(笑)
小笠原:そう(笑)。初期には、そんな、すごいしょうもない笑い話があるんです。でも、魚が入ったから失敗、というわけではないんですよね。「ああ、なるほど。池でやると魚が入るんだ。じゃあどうしようか。鉱山の地下にプールを作ろう!」という風に、ちゃんと次につながっていって。
小出:なるほど。
小笠原:だから、ひとつひとつ、これは成功、これは失敗、という風に判断していくのではなくて、ただ、データが集まっていくっていう、それだけの話なんですね。
いま自分が生きていることに対する納得感
小出:その視点があれば、人生も、ものすごく楽になりそうですね。
小笠原:そうなんですよ。私たち、ふだん、生きていく上で、間違わないこととか、失敗しないことに気を使いすぎているところがあるので。
小出:失敗なんかない、というところを生きていければ、いい感じに力が抜けていきますよね。その先に、良い悪いを超えた本質的なしあわせがあるんじゃないかな。ただ、ここに存在していることのありがたさに目を見開かされるというか……。
小笠原:私もボディーワークの世界に入ってきて、いろんなことを学んでいく中で、スピリチュアリティーっていったいなんなんだろう、なんのためにあるんだろうって、自分なりに考え続けたんですね。で、現時点での結論としては、いま自分が生きていることに対する納得感を得るためのものなんだな、と。
小出:いま自分が生きていることに対する納得感。なるほど。
小笠原:それが得られるなら、フレームはなんでもいいんですよ。既存の宗教であったり、あるいは科学であったり、いろいろあると思うんですけれど。
小出:スピリチュアリティーというのは、広い意味での信仰心とも言い換えられますよね。いま、自分がここにこうして生きていることを肯定したい、という気持ちは、きっと、誰にでもありますからね。
小笠原:なんでここにいるのかがわかれば、究極の安心感につながりますからね。だから、なんらかのスピリチュアルなフレームは、みんな持っているはずなんですよね。
小出:そうそう。枠組みはなんでもよくて、それこそ無数の道があって……。もちろん、どうしていまここに自分が生きているのか、という問いに対する究極的な答えというのは決して得られるものではないと思うんです。でも、それぞれの、広い意味での信仰の道の途上で、「ああ、こういうことか……」みたいな納得感は、幾度かは訪れるんですよね。その納得感が絶対的なものではなかったとしても、その時々にそういったものがあるかないかによって、生きやすさの度合いは変わってきますからね。
小笠原:ほんとうにそう思いますね。
「この指の先も、この足の先も、すみずみまでぜんぶカラダだったんだ!」
小出:そうそう。和葉さんご自身のお話ですごく印象的だったのが、アトピーの治療法を模索する中でヨガに出会われてからしばらくして、ある日ご自宅でヨガの最後の「しかばねのポーズ」を取ったときに、「ああ、私はいたんだ!」と全身全霊で実感されたというエピソードで……。
小笠原:そうですね。なんか、あのとき、自分のカラダと和解できた感覚があったんですよね。
小出:カラダと和解、ですか。
小笠原:アトピーって、それによって死ぬことはめったにないけれど、ものすごく大変な病気なんですよ。かゆみ、痛みから、24時間解放されることがないので。私の場合、全身が真っ赤に腫れ上がってしまって、仕事も休職せざるを得なくなって。おしゃれもできないし、海やプールで泳ぐこともできないし、温泉旅行にも行けない。このカラダのせいでできないことがあれもこれもある、この苦しみはぜんぶカラダのせいだ! って思い込んでしまって。
小出:大変でしたね……。
小笠原:だから、とにかくアトピーを治さなきゃなにもはじまらない、みたいになっていたんですよ。治すことが人生の第一ミッションだった。でも、ヨガをはじめて、すこしずつ視野が開けていって。たとえば、ヨガマットを持って歩いているだけでなんだかヘルシーな気分になれたりとかもあったし(笑)、もちろん、ヨガでカラダを動かすこと自体が、すごく意味のあるものだったし。めちゃめちゃカラダを動かすタイプのヨガだったので、その刺激によって、いまここに戻ってこられた、という感覚もあったんですね。
小出:偏りが正された?
小笠原:そうですね。自分で過度に意味づけしていたものとか、過度にフォーカスしていたところがヨガをするたびにニュートラルになっていって、それで、ある瞬間、完全に自分のカラダと和解できた、という感じですかね。
小出:「アトピー患者である自分」「いろんなことが制限されている自分」といったアイデンティティが取り払われて、ひとつの、まっさらな、なにものでもないいのちとしての自分と対面されたのですね……。
小笠原:そう。「カラダは、ただ、カラダだったんだ……」っていう。アトピーだと、カラダを感じる糸口となる感覚が基本的にすべて不快感になってしまうんですよ。その不快感と一体化してしまっていた自分が消えたときに、「この指の先も、この足の先も、すみずみまでぜんぶカラダだったんだ!」という気づきが訪れて。
小出:理屈を超えた実感だったのでしょうね。
小笠原:それをきっかけに、アトピーは急激に改善されていきましたね。
健やかに生きていくために、ボディーワークは必須教養
小出:その経験を通して、和葉さんは、まさしく「心身一如」ということばの意味を体感されたのですね。
小笠原:ほんとうに。「心身一如」って事実なんですよ。私みたいにヨガで変わる人もたくさんいるし、あとはダンスとか、山登りとか、あるいは農作業でカラダを動かすことによって変わっていった人もたくさん知っています。現代人ってアタマばっかり使って生きているけれど、それだとどうしても行き詰ってしまうところがあって。カラダを動かして感覚を開いていくことで、劇的な変化が見られることって、ほんとうにたくさんあるんですよ。
小出:「感じる」は、いまここへの入り口ですものね。
小笠原:その入り口を閉ざしているのはやっぱり健全じゃないので。逆に言えば、そこが開かれていけば、カラダもココロも健康になっていくんですよね。
小出:カラダからのアプローチを必要としている人って、実はものすごくたくさんいるんじゃないかな。
小笠原:そうなんですよ。もう、そういうのがなくては立ち行かなくなるぐらい、複雑な社会になってきてしまっているので。私、最近、2030年までの日本と世界の状況をシュミレーションするサイトを見ながらいろいろ考えたんですね。ご覧になったことありますか? すさまじいんですよ。まず、2020年にはうつ病が世界で罹患率2位の病気になるし、2030年には1位になるんですね。
小出:うわあ……。
小笠原:高齢化は加速する一方で、2007年に日本に生まれた子どもは、2人に1人が100歳越えするんですって。あっという間に平均寿命が100歳を超えてしまう。医療が発達して、どんな病気も治ってしまう時代が来ているので。でも、いくらカラダが長生きしても、ココロが病んでいたら……
小出:生き地獄ですね……。
小笠原:だから、苦しまないで生きていくために、自分が本来持っているレギュレーションの力がちゃんとはたらくように、カラダとココロをととのえていく必要があるんですね。そのときに、いま、私がやっているボディーワークの領域が果たすべき役割は、想像以上に大きいんじゃないかな、って。
小出:ほんとうに、すごく大きいと思います。ボディーワークが伝えてくれる知恵は、これからの人類が必須教養として身につけるべきものと言ってもいいかもしれない。
ボディーワークの総合紹介サイトを作ります
小出:ほんとうは、みんな、ただ、いのちを生きていくだけでいいんですけれど、そのための知恵が、現在、多くの人に適切に与えられていないような状況があるんですよね。
小笠原:そうそう。ボディーワークってほんとうにすごい力を持っているし、世間のニーズも高まっていると思うんですけれど、いかんせんボディーワーカーって技能の髙い職人みたいな人ばっかりなので、なかなか外に広めよう、という方向にいかないんですよ(笑)。でも、世の中にはそれを求めている人たちがたくさんいて、こちら側は高い技術を持っているんだけれど、いかんせん情報が出回っていないから、そこをマッチングできない。それってすごくもったいないな、って。
小出:確かに、ボディーワークという分野があるということ自体、あまり世の中には知られていませんものね。
小笠原:そうなんですよ。でも、セッションルームに来なくても、こんなのがあるよって、ボディーワークという概念を知っただけで助けになる人って、いまの世の中には相当いると思うので。私はそこに橋をかけたいんですよね。だから、ボディーワークの総合紹介を含め、自分にとって健康ってなんだろうというところから考え、「自分に必要な情報を選ぶ」力を育てるということについて啓蒙していくサイトを作ろうと、いま、準備をしているところなんです。
小出:素晴らしいですね! いつ頃始動しそうですか?
小笠原:今年の夏ぐらいですかね……。
小出:もうすぐですね!
小笠原:ねえ。優秀なスタッフが集まってくれて、とんとん拍子で話が進んでしまって……。大変だろうけれど、やるしかないですね。なんか、そういう風に運ばれていってしまったので。
小出:今日お話をおうかがいしていてあらためて思ったのですが、和葉さんのバランス感覚は、やっぱり、ほかに類を見ないほどのものだなあ、と。その優れたバランス感覚があって、はじめて、私たち一般の人と、ボディーワークとの間の橋渡しができるのだと思います。応援します。どうかがんばってくださいね! 今日はいろいろと興味深いお話をありがとうございました。
小笠原:こちらこそ、ありがとうございました。
小笠原和葉(おがさわら・かずは)
ボディーワーカー/意識・感情システム研究家。
東海大学大学院理学研究科宇宙物理学専攻課程修了。
学生時代から悩まされていたアトピーをヨガで克服したことをきっかけに、ココロとカラダの研究をはじめ、エンジニアからボディーワーカーに転身。施術と並行して意識やカラダを含んだその人の全体性を、一つのシステムとして捉え解決するメソッド「プレゼンス・ブレイクスルー・メソッド(PBM)®」を構築。海外からも受講者が訪れる人気講座となっている。
著書に『理系ボディーワーカーが教える“安心” システム感情片付け術』(日貿出版=刊)がある。
※「まいてら新聞」【小笠原和葉さん(ボディーワーカー)の“いのち”観】 – 「生」と「死」の境目はごくごくあいまいなもの – も、どうかあわせておたのしみください。