「感覚」や「思考」も他者

光岡:さらに面白いことに、「他者」は「他者」であり、「自分」に「他者」がある、ということも、私たちは同時にわかっているんですよね。まず、この「自分」っていう日本語も面白くて。これ、中国語にはない言葉なんですよ。

小出:そうなんですか?

光岡:中国には「自己」という言葉はあるけれど、「自分」という言葉はないんです。だから「自分」というのは、言わば和製漢語なんですね。これ、結構、日本人の感性を物語っているんですよ。「自(みずか)ら」「分かれる」ということで、その時点で他者性を示しているわけですよね。つまり、無自覚のうちに自分の他者性を前提としているわけです。それで、じゃあ、どこからどこまでが他者なのかと言うと、私たちが感じている感覚も他者だし、私たちが考えている思考も他者なんですよね。

小出:感覚や思考も他者!

光岡:自分というものを内側からじっくり見ていくと、実は、感覚や思考と自分とが分かれていることに気づくんですよ。なぜなら“ある感覚”を観察している観察者としての自分と、観察されている感覚があることは、みんなが経験していることです。

小出:でも、感覚や思考が他者であるということは、やっぱり、一般の人にはなかなか理解しづらいことだと思います。「自分の感覚」とか、「自分の思考」というものがあると信じて疑っていない人の方がほとんどなんじゃないですかね? 私というものと、感覚や思考というものがベッタリと癒着してしまっているというか……。

光岡:うん。現代人のほとんどの人はそう思っているでしょうね。でも、よくよく考えてみればすぐにわかりますよ。だって「自分“の”感覚」、「自分“ の”思い」「自分“ の”考え」って、そこに所有格が付くわけでしょう? そのこと自体、実は無意識に、感覚や思考の他者性を認めていることの証拠なんですよ。

小出:所有格が付くことがそれらの他者性の証明になる?

光岡:たとえば、ここにペットボトルがありますよね。これは「私“の”ペットボトル」ですけれど、私そのものではないからこそ、他者として手に持ったり、離したりできるわけです。私たちはこれと同じ文脈で「自分の感覚」や「自分の気持ち」という言葉を使います。

小出:ああ、なるほど。「他者」だからこそ、それを「持つ」ことができる、ということですね。

光岡:そう。感覚や思考は他者であって、自分ではないからこそ、そういった言葉が出てくるわけです。

小出:言われてみればその通りですね。となると、やっぱり、感覚や思考は他者なんですね。面白いなあ。

「からだ」は「空(から)だ」

光岡:あとね、もっと言えば、この私の身体も他者なんですよ。

小出:身体も他者!

光岡:ここにいる私を、ずっと、深く見ていくと、身体も他者であるということがわかってくるんです。というのは、身体という他者を見ている「わたくし」がいることに気づくんですよ。

小出:ということは、身体や、感覚や、思考を見ている私こそが、「わたくし」……?

光岡:「わたくし」とか、「こころ」とか、あるいは「からだ」とか定義されるものですね。

小出:なるほど……。

光岡:たとえば、この空間を「わたくし」だとしましょう。人間って、仮に空間だけがあっても、空間を空間として認識できないんですよ。そもそも人間が知覚できる範囲で「空間だけがある」というようなことはあり得ないのですが。だから、たとえば、こうしてペットボトルを二本、少し離れたところに別々に置く、と。そうするとこの二つの間の空間が見えてきますよね。これと同じように、たとえば感覚という他者と身体という他者との間で、はじめて「わたくし」や「こころ」、あるいは「からだ」をほんの少し垣間見せてくるんです。

小出:となると、「わたくし」に実体はない、ということでしょうか。

光岡:そう。その実体のなさを、昔の人は「空っぽさ」ということで「空(くう)」と言ったり、「なさ」「無」と言ったりしたんでしょうね。やまと言葉の「からだ」というのも「空(から)だ」から来ているんですよ。

小出:へええ……!

光岡:昔の人は、「身(み)」と「からだ」を分けて使っていたんですよ。「身(み)」は、木の実とか、魚の身とかと同じですね。つまり、身(み)は実体として「ある」ものを指し、一方「からだ」は「なさ」を指します。この区別も、私たちは無自覚のうちにしているんですよね。だから、たとえば「言葉が身に付く」とは言うけれど、「言葉がからだに付く」とは言わないわけです。

小出:確かに……。

光岡:「からだ」が「空(くう)」や「無」であるからこそ、そこで「こと」が起きていくんですよね。どこか「空いて」いるところがないと「こと」は起きない。たとえばこの部屋がコンクリ詰めになっていたら、中のものは身動きが取れないですよね? つまり「こと」が起こりようがない。でも、そうはなっていないからこそ、その開かれた空間に「生命(せいめい)」という他者がそこで生じるんですよね。

小出:「生命」という他者……。

光岡:「生命」も他者ですよ。「生命」の側から見れば、私たちが人間であっても、恐竜であっても、微生物であっても構わないわけですから。

「自覚・自省できること」は人間の最大の特徴

光岡:でも、人間の側から見れば、人間が人間になった理由というのは必ずあるはずで。猿や犬ではなく、人間として存在している理由がね。

小出:人間として存在している理由。

光岡:不思議な生き物なんですよね、人間って。人間がほかの動物と違うところって、「自覚」を持って生きているというところなんですよ。

小出:「自覚」ですか。

光岡:ほかの動物って後ろを振り返らないでしょう? 基本的に、前向きに……と言ったらおかしいかもしれないけれど、本能と生命の促進力だけで生きているんですよね、彼らは。でも人間はそうはなっていない。どこかで内面的に時が止まって、それによって「過去」という経験ができて、その中で「省みる」という行為が生まれていって……。その行為に伴って、「他者」というものも生まれていったんですね。

小出:なるほど。「他者」は、「時間」の中にしか存在しないわけですものね。

光岡:時間の中にいる「内面的な他者」を通じて「自分」を知る、ということができるようになった。それで、この「自覚」が生じたわけです。しかし、人として自覚できることは人間の強みにもなるけれど、弱みにもなるところなんですよ。

小出:弱みですか?

光岡:たとえば、武術において、相手が攻撃を仕掛けてきているのに、自分が思いとどまってなにもしなかったら、あっという間にやられてしまうわけでしょう(笑)。だから、ことによっては思いとどまらない方がいいこともある。それと同時に、思いとどまることによって自分が助かる場合もある。たとえば、イラッと来たからと言って、即座に相手をナイフで刺すようなことは、やるやらないは個人の判断として、一瞬、躊躇しますよね。その躊躇する力は自覚から生じます。

小出:激情に任せた行動の責任は重いですからね……。そこを振り返る力が人間に与えられているのは、そういう意味で言えば、ありがたいことなのかもしれません。

光岡:強みになるか、弱みになるかは、時と場合によりますよね。だから、どんなときに思いとどまらずに行動して、どんなにときに思いとどまるべきなのか、その判断力を、武術の稽古では磨いていくんですね。いつ動いて、いつ止まるのか。それをその場で見極める力を養うのが武術です。

小出:判断はいつだって「いま」しなくてはいけないわけですからね。武術は「いま」にいる技術と呼ぶこともできそうですね。なんだか、ますます武術の重要性がわかってきた気がします。

「上手にイラッとする」方法を身に付ける

小出:少し、私個人の話をさせていただくと、実は、私、これまでの人生で、ほとんど武術的なものに触れてこなかったんですね。一応、中学の三年間は剣道部に所属していましたけれど、まあ、才能がなかったんでしょうね。もう、びっくりするぐらい試合で勝てなくて(笑)。痛いし、怖いし、毎日の練習も全然たのしくなくて。三年生になって部活を引退したとき、心底ほっとしました。「もう、これで、“戦い”の世界からオサラバできるぞ!」って(笑)。

光岡:そうでしたか(笑)。でも、武術、武道に関わる人で、小出さんのような人は決して少数派ではありませんよ。先生も生徒も、根本的に、なぜ、武術、武道をしているのか分からずしている方がほとんどかも知れません。せいぜい、大会に出て勝つことか、取って付けたような精神論か誰かの有名な言葉を先生側がもっともらしく言うことが、みんなのわからなさの解消どころになっています。でも、小出さんはちゃんとそこをオカシイと感じて止めたんですね(笑)。

小出:いや、私の場合は単に向いていなかっただけですよ(笑)。でも、確かに、あれでちょっとアレルギーになってしまったところがあるんですよね。それ以降、人間同士、わざわざ戦うなんて意味がわからない、なんてことを言って、武術的なもの全般を、割と否定的に見るようになってしまった。でも、よくよく考えたら、人間である限り、実際に手や足を出さないにしても、日々、多かれ少なかれ、なにかしらの「怒り」を感じながら生きていかなきゃいけないわけで。その「怒り」のエネルギーを、いかに自他に不都合でないかたちで消化していくのか、そこは、人間として、ちゃんと学ぶべきところなんじゃないかな、と、いま、あらためて思っています。

光岡:そうですね。イラッときている時点で、人間は「戦っている」からね(笑)。自分とも戦っているし、他人とも戦っている。

小出:「怒り」という感情は、たぶん、自然なものとして備わっているので。それをなかったことにするのは、やっぱり、すごく不自然なことなんじゃないかなって。

光岡:だから、人間、上手にイラッとする方法を身に付けないといけないんですよね。

小出:上手にイラッとする(笑)。

光岡:大事なことなんですよ。動物の場合、「イラッ」ときたら、その場で「ガブッ」とやってしまうわけでしょう?

小出:「イラッ」と「ガブッ」が同時ですよね。

光岡:そう。でも人間の場合、他者を設けているがゆえに、そこで自分を省みてしまうんです。「イラッ」ときているその経験を瞬時に省みてしまう。省みてしまうからこその苦しみというのも人間には生じるんですけれど、でも、それは実際に「ガブッ」とやってしまった時の苦しみよりはマシなんですよ。

小出:「ガブッ」とやってしまった後悔って、かなり苦しいですよね。肉体的にも、精神的にも。相手が大けがなんかしてしまったらなおさらですよね。

光岡:そういう風に自分を省みる力を持ったからこそ、人間はここまで繁殖、繁栄することができたわけです。でも微妙なのが、人間って、人間の数が増えれば増えるほどイラッとしやすくなってしまうということで(笑)。増えると距離が縮み、距離が縮むと窮屈に感じ、イラっとなりやすくなる。そこで、空いている空間を内面的に求め出すんです。頭では概念や観念で逃げ場を求め、身体では「からだ」を求めて空いているところや、「なさ」を省みようとしはじめます。

小出:なるほど。

光岡:だからこそ、ちゃんとエネルギーを然るべき方向に向けていく工夫が必要なんですよ。同じエネルギーでも、怒りとして発現させるのか、労働力に昇華させていくのかで、全然違ってきますから。

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