二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける

撮影:三田村亮

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私は、歌手である二階堂和美さんをお訪ねしました。

私は、二階堂さんを、真の「アーティスト」だと感じています。対話の中にも出てきますが、二階堂さんのライブステージには、「歌う人」がいないのです。そこにあるのは、純粋な「歌」。ただ、「歌」だけがある。その様子には、ああ、ほんとうの「表現」がここにある、「いのち」の発露がここにある……と、涙を抑えることができません。

そんな二階堂さんの歌と切っても切り離せないのが仏教の思想。そう、二階堂さんは、浄土真宗本願寺派のお坊さんでもいらっしゃるのです。ご本人も「私の布教はこれですね」と笑っておっしゃっていましたが、歌詞はもちろん、歌うお姿そのものから、仏教の真ん中にあるもの……つまりは「いのち」の真ん中にあるものが、とにかくダイレクトに伝わってきて……。

今回の対話でも、音楽のお話をしていたかと思えばいつのまにやら仏教のお話になっていて、仏教のお話をしていたかと思えばいつのまにやら音楽のお話になっていて……ということが何度も繰り返されています。ほんとうのところ、それらは、決して分けられるものではないのでしょう。仏教という指。音楽という指。かたちは違っても、それぞれが指し示す先にあるものは、ただひとつの、同じ「いのち」なのでしょう。

ほんとうの意味で「いのち」を大切にするとはどういうことか……二階堂さんのことばには、そのヒントが満ちています。

まさしく、いま、このときにこそお読みいただきたい対話です。どうか、最後まで、じっくりとおたのしみくださいませ。

ライブ中は自分が自分じゃないような感覚があります

小出:今回は「いのちからはじまる話をしよう。」ということでお邪魔しています。

二階堂:いいんですか? 私なんかで。お役に立てるとうれしいですけれど……。

小出:もうね、二階堂さんは、そのままいのちを生きているというか、まさしく、いのちが二階堂さんを生きているな、と感じておりますので。二階堂さんとお話しできること、ほんとうにたのしみにして参りました。

二階堂:いやいや(笑)。ありがとうございます。

小出:今年1月のキネマ倶楽部にもお邪魔して、そこであらためて感じたのですが、二階堂さんのライブって、まさしく、文字通りの「LIVE」なんですよね。生(なま)であり、生(せい)であり、それこそいのちそのもの。二階堂さんのライブを見て、ライブということばの意味が、大げさじゃなく、生まれてはじめてわかったというか、「ストン!」とおなかに落ちたような気がしたんです。

二階堂:ああ、うれしいです。

小出:いのちの躍動を、まるごと、そのまま見せていただいた気がしていて。だって、もう、二階堂さん、最初から最後まで全力で、出し惜しみなんか一切しないで、一曲一曲「これが最後だ!」みたいな感じで歌い続けていらっしゃって……。ほんとうに、ものすごく、感動しました。ありがとうございました。

二階堂:こちらこそありがとうございます。うれしい。でも、自分にとってはそれが普通というか、人前でなにかをするっていうのは、もう、ああいうこと以外にはないと思っていて。あれが私にとってのライブパフォーマンスなんですよね。なので、ほんとうに、最初から、それこそリハーサルの段階から全力でいきすぎて(笑)。子どもを産んだときに思ったんですよね。「ああ、ワンマンライブ一本やりきった感じ」って。

小出:(笑)

二階堂:「普段のライブで、出産ぐらい頑張っているんだ、私」って(笑)。

小出:すさまじいです(笑)。

二階堂:ほんとにね(笑)。でも、不思議なことに、普段、ほかのことにはぜんぜん体力を使えないのに、ステージに立っているときだけは全力を出せるんですよね。全力でステップも踏めれば、歌も歌えてしまう。

小出:動こうと思う前に、身体が勝手に動いてしまう?

二階堂:そう、動いちゃうんですよね。

小出:それこそ、ライブ、生(せい)、いのちの動きなんでしょうね。

二階堂:ねえ。そうなのかもしれないですよね。パフォーマンス中は、自分が自分じゃないような感覚があるんですよ。ライブを終えて、その日の夜中とか、次の日の朝とか、ふっと「ああ、あの人、いったい誰だったんだろうな……」って。ステージが華やかであればあるほど、「誰……?」みたいな(笑)。そんな感じですね、毎回。

「歌っている人」がいなくて「歌」だけがある

小出:二階堂さんのステージを見ていてすごく感じたのが、「歌う人」、「表現する人」の不在なんですよね。「歌っている人」がいなくて「歌」だけがある。「表現している人」がいなくて「表現」だけがある。もちろん、二階堂和美というアーティストの存在感は圧倒的に「パーン!」とあって、それはもう絶対で、唯一無二のものなんだけれど、それにも関わらず、ステージ上には「歌」だけがあって、「表現」だけがあって、個人の気配はどこにもなくて……。びっくりしました。「なんだ、これは!」「こんなのはじめて!」って。ぶわって涙があふれて止まらなくなって。

二階堂:うわあ、すごい。それはうれしいですねえ。でも、そうなれていたら、私としては本望です。そこに自分の理想があるので。浄土真宗で言うところのご本尊のイメージ。阿弥陀如来って、本来は光なんですよね。

小出:かたちは仮のもので、光が本体なんですね。

二階堂:そうそう。もちろん、私が阿弥陀さまだ! とか、そういうことを言っているわけじゃないんですけれど、私はあくまでも仮の対象で、受け手の思いを照らし返すための存在だと思っていて。そういうかたちで、受け手の心に触れていくというか、揺さぶるというか、はたらきかけることができたら、すごくいいな、って。それだけなので。そこに自分のはからいは必要ないんですよね。もちろん、事前にいろいろ考えてやってはいますけれども、いざステージに立ってしまえば、そんなものは飛び越えて、ただ、やるだけ、みたいな。

小出:この間のライブも、もう、ほんとうに、はからいゼロの状態で、むき出しでステージに立っていらっしゃることが伝わってきました。頭で考えながらやっていたら、こういうパフォーマンスにはならないだろうな、って。

二階堂:そうですねえ。そういうやり方しかできないんですよね。そうでないと、ステージに立っていられないんですよ。「自分」というものが意識されてしまうと、逃げ出したくなってしまうので。元々は、私、人前に立つことが苦手なタイプなので。はからいとか、自意識とか、そういうところをぜんぶ取っ払って、むき出しにしておいてしまわないと、もう、とてもあんなことできない。

外からのはたらきかけのおかげで……

小出:むき出しになることで、逆に強くなれるんですね……。二階堂さんのそのお姿に励まされます。私だけじゃなく、ほんとうにたくさんの方が、二階堂さんに大きな力をいただいて生きていると思います。

二階堂:いやいや、そんな……。でも、私の方こそ励まされていますね、いつも。そもそも、自分がこうしてシンガーとして活動を続けていられること自体が、すごく不思議だなあ、って思うんですよ。さっきも言ったように、私、人前が苦手な上に、歌詞を書くのも苦手で……。まあ、歌うこと自体はすごく好きだし、それなりに自信も持っているんですけれど、ほとんどそれだけなんですよね。そんな私が20年近く活動させてもらえているのは、やっぱり、外からのはたらきかけのおかげにほかならないというか。

小出:外からのはたらきかけ、ですか。

二階堂:キャリアの中でね、「もう、私、やらなくていいんじゃない?」と思ったときもあったんですけれど。そんなときでも、「ライブに出てください」とか、「曲を作ってください」とか言ってきてくださる方がいて、どうにか続けてこられた。2011年に『にじみ』というアルバムを出したあとなんかは、一応やりたいことをかたちにできた手ごたえもあったし、結婚もして、地元でお寺のことやって、子どももできて、「ああ、もう、ライブはあまりできないな」「このまま引っ込んでもいいよな」と思っていたんですけれど。ちょうどその頃に高畑勲監督から『かぐや姫の物語』の主題歌制作のお話をいただいて、ふたたび引っ張り出してもらって、そうやってまた違う世界が開けていって……。

小出:ご縁がつながって、つながって、つながり続けて、その先に、いまの二階堂さんがあるんですね。

二階堂:その都度、ご縁をいただいて、外側からはたらきかけていただいたことで、今日までやらせていただいていて。ありがたいなあ、って。だから、ほんとうに、いままで続けてこられていることが不思議なんですよね。

撮影:佐伯慎亮

「チクショー」という気持ちすら南無阿弥陀仏

小出:こんなにユニークで、唯一無二の存在感を持つアーティストさんなのに、活動のスタンスやその歴史があくまで控え目というか、「私が!」を押し出すまでもなく、ごくごく自然な流れの中で、いまのスタイルが形成されていったというのが面白いです。

二階堂:いやいや、控え目だなんて、そんなことぜんぜんないんですよ(笑)。ほんとうにね、「もっと認められたい!」みたいな気持ちは、もちろん、ずーっとありましたから。まあ、最近はね、歳もとったし、あんまりそうは思わなくなってきたけれど。昔は、やっぱり、常に、くすぶりとか、嫉妬とかが渦巻いていたし。ぜんぜん綺麗なもんじゃないです。だから、ある意味「がめつさ」で、ぜんぶの縁を、こう、がっ、がっ、がっ、ってかき集めて、ようやく活動していたみたいなところもあって。もう、7割ぐらいは負のパワーで、「チクショー!」みたいな感じで動いていましたね(笑)。いまでもそういうところはありますし。

小出:でも、もし、負のパワーで動いてこられたのだとしても、そのおかげでこれまでの素晴らしい歌が生まれてきたのだとしたら、すべて、ありがたいご縁だったんだなあ、と。って、ごめんなさい。自分が経験していないから、こんな風に無責任に言えるのかもしれませんが……。

二階堂:いや、でも、ほんとうにそうなんですよね。負の感情がなければ、いまの歌は生まれてきていないし、いまの活動の形態も生まれてはいないので。それがなくては仕方なかった。いまの私にはなっていなかったんだな、って。だからこそ、浄土真宗なんですよね。私には浄土真宗しかない。お念仏を、南無阿弥陀仏をとなえるしかない感じなんですけれど。

小出:ああ……。ものすごく共感します。自分にとって不都合なものから目を背けていても仕方がないというか。そこから生まれてくるものって確実にあるので。だから、冗談でもなんでもなく、「チクショー」という気持ちすら南無阿弥陀仏(笑)。

二階堂:ねえ、ほんとうに(笑)。私の曲を聴いてくれる方々、ライブに来てくれるお客さんも、きっとね、みんなそうだと思うんですよ。一枚ぺろっと皮をはがしたら、ほんとうは、みんな、結構ぐちゃぐちゃしたものを抱えているはずで。親鸞先輩もおっしゃっているしね。「人間、どうやったって、どうしようもないものなんだ」って。すみません、ちょっとざっくりしすぎた言い方しましたけど。

小出:大先輩がそうおっしゃるのなら間違いないですよね(笑)。いや、ほんとうに、自分自身の在り方を振り返ってみてもそう思います。人間って、心底、どうしようもない生き物なんだなあって……。

二階堂:だからこそ、そういう自分の中の汚いというか、ぐちゃぐちゃした部分をお互いに「ドサッ!」と出して、「わっはっは!」「わっはっは!」みたいな(笑)。私も出すから、みんなにも出してもらって、お互いに「だよね!」「人間ってそんなもんだよね!」みたいな感じになれたらいいな、って。

小出:二階堂さんの音楽を聴くと、表面的にじゃなく、おなかの底の方からじわじわと元気が湧いてくるのですが、そのカラクリが、いま、明らかになった気がします。自分を、そのまま、まるごと受けとめてもらえるから、なんですね。

二階堂:いやあ……(笑)。ありがとうございます。ほんとうにね、音楽の力ってそこにあると思っていて。私自身、その力をすごく感じながら歌わせてもらっているので、受け手の方にもそう思ってもらえるのだったら、こんなにしあわせなことはないです。

「ナシだけど、アリだよね」と受けとめることから始まるものがある

小出:いまのお話をお伺いしていても思ったんですけれど、二階堂さんの歌って、聴き手を裁くことがないんですよね。懐がとにかく深いというか……。「仕方ないよね」「そうなっちゃっているんだもんね」みたいな感じの、おおらかな受容の心がベースにある。こちらがそこにどんな感情を乗っけても、絶対に拒絶されることがない。

二階堂:ああ、なるほど。

小出:だから、決して「がんばれ!」とか「大丈夫!」とか、そういうポジティブな励ましのことばが歌詞に並んでいるわけじゃないのに、すごく心が動かされて、あたたまって、また、人生に向かう力をもらえるんですよね。

二階堂:それはうれしいですねえ。歌ってそういうものであって欲しいな、って、自分自身、聴き手としてそう思うので。もちろんそれには仏教の影響もあるし、自分自身が自分のことを受けいれるために書いているっていうのもあるんですけれど。私もね、結構悲観的になってしまって、「なんで私ってこうなんだろう」とか、「なんであんなことしちゃったんだろう」とかって思うこともしょっちゅうなんです。そういうときに、それこそ「ナシだけど、アリだよね」って、常に自分に向けて言っているようなところがあるんですよ。

小出:「ナシだけど、アリ」ですか。

二階堂:完全に肯定でもないけれど、でも否定もしないというかね。だから、「仕方ない」ということばって、ちょっとネガティブなイメージが強いけれど、私はそんなに嫌いじゃなくて。だって仕方ないものは仕方ないから。もちろんね、いまの政治の状況とか、「仕方ない」のひとことで済ませたくはないことだってたくさんあるけれど……。

小出:ほんとうにそうなんですよね……。でも、まずは、すでにそうなってしまっているものを受けとめないことには、やっぱり、なにも始まらない。

二階堂:そう。「仕方ないな」って受けとめたところから、じゃあ、これから先、どうやって肯定的に進んでいこうか、という発想が生まれてくるので。やっぱりね、生きていれば、壁にはぜったいにぶつかるから。なにをやっていてもすぐぶつかるから。

小出:お釈迦さまも、そもそものはじめから「人生は苦である」っておっしゃっていますものね。

二階堂:ねえ。大前提としてそれがあるんですよね。壁にぶつかって、乗り越えて、ぶつかって、乗り越えて……。人生、常にそれの繰り返しなんだから、そんなにいちいち「ガーン!」ってならなくてもいいんだよ、みたいな。まずはその事実を受けとめた先に、壁を乗り越えていく力も湧いてくるから。その「受けとめる」というところで、歌や宗教はそっと私たちに寄り添って、助けになってくれるんじゃないかな。

小出:なるほど……。「そっと寄り添う」っていうのが、いいなあと思います。無理やり励ますとか、力づけるとかじゃないんですよね。

二階堂:そうそう。だから、音楽でやれることと、宗教でやれることって、実はとても近いんですよね。年々重なってくる。私も外側からのはたらきかけでここまで導かれてきましたけれど、ああ、やっぱり、ここにやるべきことがあるんだなって、最近になって、すごく実感しています。

自分の中の動物の部分を大切に

小出:いまお話ししていたみたいに、二階堂さんの思想というか、生き方がそのまま曲に反映されていて、そこに私たち聴き手はくつろげる。それも、もちろん、ひとつ確実にあります。それと、もうひとつ、音楽って「音」を「楽しむ」と書きますけれど、二階堂さんご自身が、本気で音を楽しんでいらっしゃる。……というより、音楽そのものになって、それを味わい尽くしていらっしゃる。そのお姿に、私たち受け手は大きな力をいただいているんです。

二階堂:ああ、でもね、音楽そのものを味わい尽くすということで言えば、それは決して私だけに与えられた特殊な能力じゃなくて、ほんとうは誰もができることだと思うんです。私だって、ごくごく普通の家庭に生まれ育って、音楽的な知識もないし、楽譜も読めないし、ピアノも弾けないし、もう、ほんとうに申し訳ないぐらいなんですけれど、でも、身体に備わっている、こう、動物的な感覚? そこをちょっと意識すれば……。別にぜんぜん難しいことじゃなくて、みんなあると思うんですよ。たとえば、歳をとってくると化繊の服が着られなくなってくるとか……(笑)。

小出:それはありますね(笑)。私も、もう、肌に直接触れる部分のものは、天然素材じゃないと無理です。

二階堂:ねえ。だんだん身体がわがままになってくるというか、本来の姿に戻りたくなってくるんですよね。そういう、自分の中の動物の部分に立ち返るセンスを、もう少し取り戻せば、よろこびにも、きっと、より敏感になれるんじゃないかな。たぶんね、私の音楽を楽しんでくださる方々っていうのは、そういう動物的な感性に身をゆだねる努力を、無意識のうちにしているような人たちなんじゃないかなって思うんですけれど。

小出:その「動物的な感性」というのは、たぶん、そのまま「いのちを直に生きる力」と言い換えられると思うんですね。いのちって、もちろん大前提として「ありがたい」ものなんですけれど、でも決して仏壇や神棚に後生大事にしまいこんでおくようなものじゃない。いのちは、ほんとうに、いつだってここにあって、それこそ感性がちゃんと開かれていれば、いつでも、どこでも、それこそ、まさしくいまここにおいて、直にその躍動を感じられるし、それをそのまま生きられるものだと私は思っていて。

二階堂:うん、そうですよね。

撮影:三田村亮

半径1キロ以内のことを丁寧にやっていく

小出:私は、『にじみ』というアルバムを2011年に聴かせていただいて、それで二階堂さんのファンになったんですね。あの……ほんとうにありがとうございました。あの時期に、あのアルバムを出してくださって。ほんとうに、あの震災のあとの日本で、すごく本来的な歌を聴かせてくださったことが、どれだけ励みになったかわかりません。「ああ、やっぱり、こっちの感覚を信じていいんだ」「ただ、いのちを生きていくだけでいいんだ」って、そう思わせていただいたんです。

二階堂:ありがとうございます。ほんとうに、ねえ、『にじみ』を出させてもらったタイミングにも、因縁を感じていて。自分にとっての大きな節目でもあると同時に、日本全体、世界中と言ってもいいかもしれないですけど、2011年っていうのは、やっぱり、そういう本来的な感覚を取り戻すチャンスでしたよね。

小出:ものすごく揺さぶりをかけられました。

二階堂:でも、ほんとうは、もっともっと揺さぶりがかかるべきだったなあとは思っていて……。私たち、ぜんぜん揺さぶられ足りていないと思うんですよ。あれだけのことがあって、まだ6年しか経っていないのに、みんなね、すでに、どこかフタをしちゃっているところがあるので。

小出:たしかに……。あのとき、みんな、本来自分が持っている動物的な直感、いのちの力を感じたはずなんですよね。ほんとうは、それをきっかけに、そちらの感覚をいちばんに大事にして生きていく道を選べたはずなのに、なにか、それこそそっちの感覚にフタをして、どうしても頭だけで考えたことが優先されて、いのちがないがしろにされてしまうような……。社会的にも、いまだに、そういう状況が続いていますね。

二階堂:私はあのあと出産をして、子どもに引っ張られるようにして、ますます自分の動物的な部分に回帰していって……。でも一方で、世の中の動きに、もともと疎いのにさらに疎くなって、なにが起きているか、大変な目にあっている方々がたくさんいらっしゃるのに、なにもできないでいる、そのジレンマはあります。

小出:はい……。

二階堂:ほんとうはね、私は、ステージで歌えることももちろんすごくしあわせだけど、自分の半径1キロ以内のことを丁寧にやっていけたら、それが自分にとっていちばんしあわせだと感じているんです。毎日の生活を丁寧に送れることが、ほんとうはいちばんのよろこび。もちろん、自分の周りさえ良ければいいと言っているんじゃあないですよ。ただ、私たち一人ひとりがもう少し自然界の一員としての、謙虚な姿勢を取り戻せたら、いま社会で起きているような問題は、ずいぶん減らせるんじゃないかと思うんですよね。自分の目の届く範囲の生活をしっかり送るための情報なんて、ほんとうはごくわずかでいいはずで。余計な情報をみんなが無駄に得てしまうことで、問題でもないことが問題になってしまったりする。

小出:この世の中、不安を煽るような情報ばかりがはびこっていますものね……。半径1キロ以内のことをまずは丁寧にやる、というのは、いまという時代を生きていく上で、すごく大きなヒントになるかもしれないですね。ただ、いのちを生きていく。そこから離れなければ、絶対に変なことにはならないし、なりようがないと思うんです。

二階堂:ほんとうに。それさえできれば健やかでいられるというか……。もちろん、昔のお嫁さんとか、狭いコミュニティの中で、きついこととかいろいろあったと思うけれど。でも、人と人との間の問題は、仏教やなにかをヒントにしながら丁寧に対応していけば、解決できることも多いはずで。ちゃんとね、それぞれがつつましさを持って、知恵を磨いて暮らしていれば、放射能の問題みたいに、もう、どこから手をつければいいのかわからないようなことは起きてこないはずなんですよね。

「死」の側から「生」を見つめて

二階堂:みんな、もう少し、視野を狭くしてもいいんじゃないかな。それは決して悪いことじゃないと思うんです。

小出:ああ……。「視野を狭くする」と聞くと、ちょっとびっくりしてしまいますけれど、つまりは、いまここにあるものを「ちゃんと見る」ということですよね。

二階堂:そうそうそう。ここを見ないで遠くばかり見ていても。

小出:なにか、自分の中に満たされない感じがあって、だから「ここではないどこか」を求めてしまうんですけれど……。でも、最終的な目的が「満たされる」ことだとしたら、もう、いっそ、ここで満たされたらいいじゃない? って。

二階堂:ほんとうに。でも、若い子がそんなことを言っていたら、「いやいや、ちょっと、ちっちゃく収まり過ぎじゃない?」って心配になっちゃうようなところはあるけれど(笑)。

小出:まあ、人間、たまには思いっきり遠くを見てもいいんですけれど、その先にほんとうに自分の満足があるのか、一度、ちゃんと向き合った方がいいというか、それよりは、自分の満たされない感覚の原因はどこにあるのか、それを探っちゃった方が早いんじゃないの? とは思いますね。さきほど二階堂さんも「健やかに生きる」という表現をお使いになられましたけれど、ここで言う「健やか」の条件のひとつに、「見て見ぬフリをしない」というものがあるんじゃないかな、って。

二階堂:なるほど。そうですね。

小出:究極的な「見て見ぬフリ」って、やっぱり、死に関することだと思うんですね。もっとはっきり言ってしまえば、「自分もいつか必ず死ぬ」ということ。そこに、みんな、なかなかちゃんと向き合えない現実がある。でも、二階堂さんの歌って、その部分のスタンスがはっきりしているんですよ。完全に、「死」の側から「生」を見つめている。そんな歌ばかりで……。

二階堂:ああ、そうかもしれないですね。やっぱり、このいのちには限りがあるので。もちろん、いのちというのは、肉体のいのちが終わったらそれでおしまいというわけではないんですけれど、この世界で、自分がいのちに生かしてもらっている時間には、完全に限りがある。ほんとうに、そこからスタートしているんですよね。

明日声が出なくなってもいいから、今日燃え尽きてしまおう

小出:そのことを意識されはじめたのは、やはり、『にじみ』の頃からですか?

二階堂:そう、地元の広島に戻った頃からですね。実家に暮らして、おばあちゃん二人を同時期に介護して。お寺の仕事をする中でも、老いていく方、亡くなる方を、日々、すごく身近に感じて生きている中で、思ったんですよね、「ああ、やっぱり、人間、いつか死ぬんだ」って。また「お迎えがくるまでは、生きていかなきゃいけないんだ」とも。その意識というか、実感がなかったら、ほんとうに私は『にじみ』のようなアルバムは作れなかったと思うし、「私、こんなに歌えるのよ」みたいなことだけでは、とても活動を続けていられなかった。だから、その意識は、音楽とも切り離せなくて。

小出:そうなんですね……。

二階堂:『にじみ』のツアーのときも、実は、私、前半で体調を崩してしまって。後半は、もう、今日を最後に歌えなくなってもいいって、毎日そう思いながらやっていました。喉もぶっ潰しに潰して、それでも、今日手を抜くわけにはいかないって。そのぐらい、ほんとうにぼろぼろだったんだけれども、でも、明日声が出なくなってもいいから、今日燃え尽きてしまおう、って。それはね、いまでも、毎回思っていますけれど。やっぱり、このいのちには限りがある、その意識が、私を動かしているところはあります。

小出:すごい……。かっこいいです。

二階堂:いや、ぜんぜんかっこよくなんかなくて、ほんとうに、もう、やぶれかぶれで、ぼろぼろですけれど(笑)。でも、一期一会ですからね。それこそね。ほんとうに、今日のお客さんに手を抜いたら、明日はないなって思っています。それは、なんの気なしに仏教講演会にきた人たちに対してもそうで。私のことなんかまったく知らないおじいちゃん、おばあちゃんの前に出るときでも、いつも全力でやらせてもらっていて。80代、90代の方もいらっしゃるので。きっと、その方々は、この先、私の歌を生で聴くことは二度とないと思うんですよ。そんな中で、手を抜いたらね、申し訳ないなっていうのが……。だから、やっぱり、必死ですよね。毎回ね。

小出:やっぱり、すごくかっこいいです。

撮影:佐伯慎亮

生と死の間に立って『いのちの記憶』が生まれた

小出:ほんとうに、この肉体として生きているいのちには確実に限りがあって、だからこそ、ほんとうに、毎瞬毎瞬が一期一会なんですよね……。高畑勲監督の『かぐや姫の物語』も、まさしくその一期一会のかけがえのない感触が、理屈じゃなく伝わってくるお話で。二階堂さんが担当された主題歌、『いのちの記憶』も素晴らしくて。あの映画に関しては、もう、好きだなんて軽々しく言えないぐらい、私にとって、ほんとうに、ほんとうに大切な作品です。

二階堂:ほんとうですか。ああ、うれしい……。

小出:あの映画って、最後、姫が月に帰ってしまって、ものすごくいたたまれない気分になるんですけれど、エンディングで流れてくる二階堂さんの歌に救われるんですよ。「♪いまのすべては 過去のすべて 必ずまた会える 懐かしい場所で」って。その歌詞が、一筋の光となって、すうっと胸に浸み込んでくる感じがして……。

二階堂:あの歌詞も、なんで出てきたんでしょうね……。自分で書いておきながら(笑)。あの部分、最初はもっと違う歌詞があたっていたんですよ。「♪たとえこのいのちが終わる時が来ても」までは、最初に思いついたまんまが採用されたんですけれど、そのあとはもっと違ったんです。「♪私、生きてた」みたいな、映画の内容に寄り添うような、それこそ姫の視点から詞を書いていたんだけれど、もっと広がりが欲しい、ということで、試行錯誤する中で、あるとき、するっと出てきたんですよね。

小出:するっと……。あの詞は、完全に姫の視点を超えていますよね。あれは、いったい、誰の視点なんでしょう?

二階堂:ねえ。それこそ、いのちの視点というか、いのちが主語になっている感じでもあるんですよ。だから、ピアノの(黒瀬)みどりちゃんに、その歌詞の直後に来る間奏のフレーズをリクエストしたときにも、「いのちの粒が、時空を超えて飛んでいく感じで」ってお願いして。彼女もすぐに「わかった」って。

小出:素晴らしいパートナーシップですね。

二階堂:そのとき、ちょうど、私も、みどりちゃんも、おなかにもうひとつ、いのちを抱えていたんですよね。そのことも、もちろん、曲づくりや演奏に大きく影響していたと思うし。そのすぐあと、ひとりの祖母が亡くなって、同じ月に私が子どもを産んで。もう一人の祖母も、ひとつ屋根の下で暮らしていましたけど、どんどん、いろんなことがわからなくなっていくっていう……。すごくね、隣り合わせな状況が身近にあった。そんな中で、「♪いまのすべては 過去のすべて 必ずまた会える 懐かしい場所で」っていう歌詞が。

小出:そうだったんですね……。その「懐かしい場所」というのは、仏教で言う浄土のことですか?

二階堂:ああ、それね、すごくよく言われるんですよ。お坊さんにも「あれはお浄土のことですよね」とか、「倶会一処ですね」とか。でも、私は、書いたときは、お浄土のことをはっきり意識していたかどうかはあやふやで。むしろ、もっと具体的に、震災で故郷や大切な方を失くされた方々のことを思って書いたものだったので。津波や、原発事故で失ってしまった場所、人。そちらが発想の原点だったんですね。でも、もちろん、お浄土のことは潜在意識にはあったとは思うんですけれど。

「みんな、生まれるから、死ぬんですよ」

二階堂:1番の歌詞は「♪必ずまた会える 懐かしい場所で」ですけれど、2番は「♪必ず憶えてる 懐かしい場所で」。この2番の「懐かしい場所」というのは、時空を超えた、いのちの記憶、みたいなイメージですね。

小出:その「記憶」というのは、個人の、具体的な、生まれてから死ぬまでの間の記憶のことでしょうか?

二階堂:というよりは、生きとし生けるものすべてが本能的に持っている、生きる力、生きようとする力のことかな。いのちって、無意識下でも生きようとしていると思うんですよね、細胞の再生とか、修復機能とかびっくりするでしょう? その「生きよう」という意志みたいなのは、やっぱり、記憶としか呼べないものになって、時空を超えて受け継がれていくものなんだろうな、って。

小出:『いのちの記憶』というタイトルの意味が、いま、深いところに「ストン!」と落ちてきました。そういうことだったのですね……。さっき、二階堂さんご自身は「懐かしい場所」イコール「浄土」という風に、明確にはイメージされていなかったというお話がありましたけれど、「浄土」というのを、「生まれる前の場所」と言い換えることができるなら、あの映画の最後で、月に、生まれたての赤ちゃんの姿が「バーン」と映る、その意味がわかるような気がするんです。

二階堂:ああ、生まれる前の場所ね。

小出:いのちって、ほんとうは、生まれる前からあるし、死んだあともぜったいに消えずにここにあり続けるものなんですよね。その、「生まれもしないし、死にもしないいのち」の所在地を浄土と呼ぶのなら、それは、遠い空の上にあるものではなくて、まさしくいまここ、この場所こそが、そのまま浄土なんだなあって。……なんかごめんなさい。勝手な解釈を並べてしまいましたけれど。

二階堂:いえいえ、ぜんぜん。ねえ、ほんとうに。ご法話でもね、よく「死の原因ってなんだと思いますか? みなさんわかりますか?」みたいなのがあるんですけれど。「死の原因はただひとつ、生まれたからですよ。みんな、生まれるから、死ぬんですよ」みたいな。

小出:死の原因は生まれること!

二階堂:それはね、ほんとうにそうだな、と思っていて。そこの大前提を肚に据えておくのと、据えておかないのとでは、たぶん、限りあるいのちを生きる心構えとして、ずいぶん、違うんじゃないかな、というのはありますよね。そういうところに、やっぱり、宗教の存在意義ってあると思うし。まあね、そんなことを言っていても、私も、まだまだぜんぜん、常に揺らぎ続けていますけれどね。でも、そんな中でも、依りどころとなる教えに出会えているのは、すごくありがたいな、と思っています。

小出:私自身、一介の念仏者ではあるんですけれど、ほんとうに、いつだって、恥ずかしいぐらいに揺らぎっぱなしです。でも、それでもいいんだ、揺らいでいてもいいんだ、って、阿弥陀さまはおっしゃってくださっていると、私は思っていて。もしそれが1ミリも揺るがないものに変わったら、本質的な宗教も、いわゆる「危険な宗教」になってしまうような気もするし。

二階堂:そうそう。宗教って「ハマる」もんじゃないんですよね。ほんとうはね。

小出:だから、それこそ、揺らいだっていいじゃない、みたいな。決して開き直るわけじゃないんだけれど、人間だもの、そりゃ揺らいじゃうよね、それが当然だよね、っていうところを、こう、まずはまっすぐに見て。そこから、じゃあ、どうやって生きていこうかという風に開けていくのが仏教というか、念仏の道だと思うので。

10代、20代の人にこそ仏教を

二階堂:宗教って、ほんとうは、若い人にこそ有効なものだと思うんですよね。迷いの中にある10代、20代の方に、ほんとうはドンピシャのはずのもので。

小出:ああ……。私がほんとうの意味で仏教に出会ったのも、20代後半でした。その頃、ほんとうに、わかりやすく人生に迷ってしまって。なんというか、自分自身にガックリすることが相次いでしまったんですよね。

二階堂:自分自身にガックリね(笑)。わかります、わかります。私も、20代後半、ずっとそんな感じだったなあ……。

小出:それまでは、自分の人生、自分ひとりの力でなんとかできると思っていたというか、ホント思いあがっていたから(笑)。だから無理やり自分を信じて、ガチガチに補強して、見ないフリ、聞かないフリ、感じないフリをして頑張っていたんですけれど……。でも、結果として、自分にも他人にもジャッジメンタルになってしまって、どんどんどんどん苦しくなっていって……。「ん? これはさすがになにかおかしいぞ?」「自分なんて、ぜんぜんあてにならないっていうことを、もっとちゃんと受けとめた方がいいんじゃない?」って。

二階堂:いや、絶対、若い人は、多かれ少なかれ、仕事であったり、恋愛であったり、いろんな経験の中で痛感することがあると思うんですよ。「自分って、なんてあてにならないんだろう」って。でも、そうなってからはじめてなにかを探すと、ほんとうに路頭に迷ったり、「危険な宗教」に走ってしまう恐れがあるというか……。

小出:弱っているときって、どうしたって「わかりやすい話」に飛びついてしまいがちですものね。

二階堂:そうなんですよ。でも、それより前に、仏教的なものに触れていたとしたら……。たとえば、私の場合は、ほんとうに自分にガックリきてしまったとき、「あれ? “自分のことがあてにならない”とかっていうフレーズ、なんかちっちゃい頃から聞かされていた気がするぞ?」って思い出して、そこからご縁を辿っていけたので。

小出:「ああ、仏教って、こういうことを言っていたのか」って。

二階堂:そうそう。だから、やっぱり、いまのお年寄りにも頑張ってもらいたいんですよね。ちっちゃい子どもさんたちにも、もちろんすんなり意味なんか伝わらないと思うけれど、それでも繰り返し仏の教えを聞かせることって、すごく大事なんですよね。それが、いつかなにかのときに、その子の中で、「なんか、昔、うちのばあさんがこんなこと言ってたな……」みたいな風につながっていくかもしれないので。まさに、それが「説教」の意味だと思うんですよね。耳の痛いお話かもしれないけれど。

小出:自分が自分だと思っているものを容赦なく破壊していくところにこそ、宗教の本質的な部分があると私は思っていて。だから、それこそ、お説教って、本来、耳が痛いものでなければならないんですよね。

二階堂:そうそう。そうだと思います。

小出:耳は痛いんだけれど、でも、その先に「ああ、こういうことだったのか」って、視界が開けるときはきっと来るから。「救い」は、そこにありますよね。……というところで時間が来てしまいました。なんだか名残惜しいのですが……二階堂さんとお話しできてほんとうによかったです。

二階堂:ほんとうですか。うれしいです。私も、おかげで、ぼんやりしていたこととか、意識していなかったことを引っ張り出してもらいました。

小出:ありがたいおことばです。私も、音楽と仏教の真ん中にあるいのちは、やっぱり、ぴったりと重なっているんだなって、そのことが理屈じゃなく感じられて、ものすごくこころを動かされました。素晴らしい時間でした。今日はほんとうにありがとうございました。

二階堂:こちらこそ。ありがとうございました。

二階堂和美(にかいどう・かずみ)

歌手。代表作は2011年発表の『にじみ』。スタジオジブリ映画『かぐや姫の物語』の主題歌「いのちの記憶」を作詞作曲・歌唱したことで、音楽ファンのみならず広く知られるところとなる。最新作は21人編成のビッグバンド、Gentle Forest Jazz Bandと組んだ『GOTTA-NI』(2016)。浄土真宗本願寺派の僧侶でもある。広島県在住。

www.nikaidokazumi.net

※「まいてら新聞」【二階堂和美さん(歌手・僧侶)の“いのち”観】- 死者は生者にはたらきかけ続けている –も、どうかあわせておたのしみください。

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