「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、私、小出が今回お訪ねしたのは、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺さん。横田老師は、拙著『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』(KADOKAWA=刊)でも、ほんとうにおおらかであたたかな世界観を語ってくださいました。中でも印象的だったのが以下の箇所。
朝日が昇らなきゃいのちはない。空気がなきゃいのちはない。風が吹かなきゃいのちはない。あの人がいなきゃいのちはない……。そうやっていくと、自分というものが、ずーっと、こう開けてくる。そこから「生きよう」という力が出てくるんじゃないですか。
横田老師のつむぐおことばによって、個別のいのちを超えた、大きな大きなつながりの中にあるいのちの感触をとてつもなくリアルに感じて、思わず涙をこぼしそうになってしまったこと、いまでもはっきりと覚えています。
今回、あらためて対話をお願いしたのですが、前回と同様……いや、それ以上にいのちの実相にするどく迫るようなお話をしてくださって、ほんとうに感激いたしました。対話の中に出てくる俳句や短歌や詩も、すべて素晴らしいものばかりです。また、今回は、「ひとつ」と「多様性」という、一見相矛盾するようなテーマについても詳しくお伺いすることができました。
お読みいただいたあと、きっと、視界がすっきりと開けて、これまで以上に「違い」に対して寛大なこころを持った自分が待っていてくれることでしょう。横田老師の、うつくしく、力強いおことば、ぜひ、じっくりと味わってくださいませ!
いのちの話をすること自体に無理がある?
小出:横田老師には、ちょうど一年ほど前に、「さとり」をテーマとしたお話をお聞かせいただきました。今回は「いのちからはじまる話をしよう」ということで……
横田:その前にね、文句じゃありませんけれど、言いたいことがあるんですよ。
小出:な、なんでしょう……。どきどきします……。
横田:まずね、いのちの話をするっていうこと自体、気に入らないんです。
小出:ええ~!? そんな……(笑)。
横田:と言うのはね、いのちの話をすると、いのちを対象化することになってしまうんですよ。
小出:ああ……。こことは別のどこかに、独立して存在しているものであるかのように語らなきゃいけなくなってしまう、と……。
横田:そういうこと。しかし、こうして聞いているのがそのままいのちなんだ。こうして語っているのがそのままいのちなんだ。以上。終わり!(笑)。
小出:どうしよう。開始1分で終わっちゃった(笑)。
横田:もうね、それ以外のものはないんですよ。いのち以外のものはない。だからいのちについて語ろうなんて、そもそもおこがましいお話なんです。
小出:申し訳ありません……。
横田:ここにこうしてやって来たのがいのち。こうしてお茶を飲んでいるのがいのち。こうして動いているのがいのち。もうそれだけですよ。ここにはいのちの活動以外のものはないんだ。
小出:はい……。しかしながら、老師、おことばですが、今回、私は、「いのちとは」というテーマのお話をうかがいにやってきたわけではないのです。「いのちからはじまる話をしよう」ということで参りましたので、どうか、なにとぞ……
横田:いのちに「はじまり」も「終わり」もありませんよ。
小出:……ぐうの音も出ません(笑)。
横田:まあ、冗談はこのぐらいにしておいて(笑)。さあ、いのちからはじまる話をしましょうか。
小出:是非! どうぞよろしくお願いいたします。
全体の動きがいのちそのもの
横田:こんな俳句があります。
秋風や眼中のものみな俳句 高浜虚子
横田:この「俳句」というのを、そのまま「いのち」に置き換えられると思っているんです。秋風や眼中のものみないのち。目に見えるものみないのちですよ。いのち以外のものはない。はい、終わり!(笑)
小出:また終わっちゃいましたね(笑)。
横田:だってこれ以外ないんだもの。それじゃあ、もう一句、例をあげましょうか。
命なりわづかの笠の下涼み 松尾芭蕉
横田:炎天下でしょうな。笠の下のほんの小さな陰に、いのちを感じるっていうんでしょうねえ。この「命なり」ということばが好きなんですよ。
小出:命なり……。
横田:この芭蕉の句の元になったと言われているのが西行法師の作品です。
年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山 西行
横田:自分も歳をとった。二度とこんな坂は越えられないと思った。しかし、今夜、この峠を越えることができた。これが自分のいのちなんだなあと、こう、感じるんですね。
小出:すごい……。実感のこもった歌ですね。
横田:もうひとつ。作者は不詳なんですけれども、こういう作品があります。
ふる雪を手にとりみれば消ゆるなり空に降らせてわがものとみよ
横田:雪が降っているわけですよ。それで、ああ、綺麗だなあと。自分のものにしようと思って掴まえたら、雪はたちまち手のひらで溶けて消えてしまう。掴まえようとせずに、降る雪がそのまま我が雪なのだと、そう思って眺めよと。こういう歌です。
小出:これは……。なにか、胸にぐさっと……。
横田:いのちも一緒なんです。「我がいのち」なんて、ほんとうはどこにもないんだ。みんな「俺のいのち」「私がいのち」と掴まえたがるけれども、「これが我がいのちだ!」と掴まえた瞬間に、それは消えてしまっているんですね。
小出:ああ……。
横田:全体が全体のままでいのちなんです。全体の活動がいのちそのものなんですよ。
小出:全体の動きがいのちそのもの。
腸内細菌と南無阿弥陀仏
横田:Temple Webに発酵生活研究家の栗生隆子さんとの対話が掲載されていますけれどね、その中でも語られていたように、私たちひとりひとりは、ひとつひとつの腸内細菌のようなものだと思っているんですよ。
小出:腸内細菌ですか。
横田:そう。無数の細菌が、腸の中でうごめきながら、実に見事な調和を保ってはたらいている。いのちというのは、そのようなものなんじゃないかと思ってね。
小出:ひとつひとつが、替えの利かない存在なんですよね。
横田:そういうことなんだね。ちゃんと、それぞれの役割を、それぞれがきちんと果たして、そうしていのちがいのちとして、全体としてはたらいている。
小出:すごいことですよね。細菌同士が相談して役割を決めているわけでもないのに、きちんと調和は取れていて……。
横田:そういう不可思議なるはたらきがいのちなんです。不可思議としか言いようがないんです。誰がどうしてどのように動かしているのか、これは絶対にわからない。そういう全体のはたらきを、まあ、小出さんも念仏者でいらっしゃいますけれども、浄土教では「南無阿弥陀仏」と表現するんでしょうなあ。
小出:そうですね。その不可思議さにうたれたときに、ごくごく自然に「南無阿弥陀仏」って……。阿弥陀如来は、不可思議光如来とも呼ばれますしね。
横田:そうなんでしょうなあ。もうそれで本質のところはぜんぶ語られてしまうね。……はい、終わり!(笑)
小出:ごめんなさい、まだまだうかがい足りません(笑)。
横田:じゃあね、まあ、我々は臨済宗ですからね。禅ではいのちというものをどう見ているのか、次はそこをお話ししていきましょうか。
小出:よろしくお願いします。
「<命>がずっと動いている」
横田:盛永宗興(もりながそうこう)老師という、私が非常に尊敬する臨済宗の老師がいらっしゃいました。もうお亡くなりになられていますけれどね、禅の難しい世界観を、実に合理的に、わかりやすく表現してくださる老師でした。その盛永老師はご著書の中でこんなことを語られています。
限られた個体が存在し続けている間が生命なのではなく、明滅しながら、生まれ変わり死に変わり、色々な形に変化し、雲となり、水となり、空気となり、(中略)木となり、草となり、人間となり、猿となり、ありとあらゆる現象として現れながら、その<命>がずっと動いている。
(『禅と生命科学』 盛永宗興=編)
横田:もう、ここにすべてが言い尽くされているね。いのちというものはひとつであると。ずーっと絶え間なく続いていると。その絶え間ないいのちが、千変万化したのがこの世界なのだと。このいのち観、世界観は、僭越ながら、私にもぴったりくる。そのものズバリだと思いますね。
小出:「限られた個体が存在し続けている間が生命なのではなく」と言い切られているのが素晴らしいです。ここを、私たち、みんな勘違いしているので。
横田:そうなんです。
小出:この、個体としての自分が死んだらもうおしまいなんだ、この肉体が滅びたらいのちも終わってしまうんだって。そういう大変な思い違いをはたらいていて。
横田:そう、それは思い違いなんだね。この肉体だけをいのちだと思っていたら、生きること、死ぬことは、ほんとうに苦痛でしかないと思うんですよ。でも決してそういうことではない。盛永老師も、「ありとあらゆる現象として現れながら、その<命>がずっと動いている」とお書きになられているでしょう。いのちはずっとあるんですよ。あって動いているんですよ。しかし、よく理解できない人たちは、ここを疑問に感じるんだね。すべてものものは変化していく、生滅の繰り返しだと言うけれど、いのちは不生不滅であるとはどういうことだ、矛盾しているじゃないかと。しかし、ここにはちっとも矛盾なんかありませんよ。
小出:いのち自体が、生まれ変わり死に変わりしながら、その姿をとどめることなく、無限の活動としてあると。
横田:そう。無限の変化の繰り返しがいのちの全体なわけですよ。
小出:「<命>がずっと動いている」。いのちというのは、つまりは活動なんですね。
横田:そうです。まさしく活動そのものです。
いのちはとてつもなくダイナミックなもの
小出:盛永老師は「明滅しながら」ということばでその活動を表現されていますが、宮沢賢治の「春と修羅 序文」という詩にもこんな表現がありますよね。
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
小出:この「明滅」ということば、すごくいいなあって。いのちのダイナミズムがうまく表現されているなあと感動します。
横田:そうだね。いのちはとてつもなくダイナミックなものなんだ。
小出:決して、ものみたいにじっとしているわけではないんですね。
横田:仏教の根本原理は「諸行無常」「諸法無我」ということばであらわされます。しかし、この「諸行無常」というのも、非常に誤解されやすいんですよね。なにかこう、目先のものが移り変わっていくとか、変化し続けていくとか、滅んでいくとかね、ただそのわびしさを示しただけのことばにされてしまう。
小出:確かに、なにか陰気臭い、否定的なことばであるかのように感じてしまうところはあるかもしれないですね。
横田:しかし、滅び続けるのと同時に、あたらしいものもまた同時に生み出し続けていく、その大きな、ダイナミックなはたらきそのものを、ほんとうは「諸行無常」と言うんじゃないですかね。
小出:なるほど……。
「いま」の一点に無限の広がりがある
横田:大きないのちの流れの縦方向の活動が「諸行無常」、横方向の活動が「諸法無我」。こう考えていいんじゃないかと思っているんですよ。
小出:縦方向と横方向ですか?
横田:縦方向というのは時間ですね。遠い過去から現在に至るまで、無限の変化を繰り返しながら、いのちそのものがずーっと続いている。その無限の変化、発展の中には、ひとつたりとも同じ状態はない。そのことを指して、お釈迦さまは「無常」ということをおっしゃったのではないでしょうか。
小出:なるほど。縦方向は時間。すると横方向は空間になるでしょうか。
横田:そういうことですね。無限の広がり、つながり合いの中に「我」というものは仮に立ちあらわれてくるものであって、固定した「我」などというものはどこにもない。そのことを指して、お釈迦さまは「無我」いうことをおっしゃったのでしょう。
小出:「無常」と「無我」はセットなんですよね。「無常」なものを眺めている「我」がそこにいたらいけないというか、それを眺めている「我」だって常ならざるものなのに、その視点がどうも欠けてしまいがちというか……。そうなると、いのちそのもののダイナミズムに気づきづらくなってしまいますよね。
横田:その、いのちのダイナミズムというのは、まさしく「いま」の一点にあらわれるんです。
小出:「いま」の一点。
横田:縦方向の無限のいのちの流れと、横方向の無限のいのちの広がり。そのふたつがぴたっと合わさるところが「いま」の一点なわけですよ。無限が「いま」の一点に凝縮されているわけですよ。「いま」が無限である。「いま」しかない。「いま」がすべてで、すべてが「いま」なんですよ。
小出:「いま」がすべてで、すべてが「いま」。
横田:「いま」に無限のいのちがあるということです。
小出:いのちは、「いま」において、無限に広がっていくのですね。
横田:禅語に「無量劫の事、即如今(むりょうごうのじ そくにょこん)」というものがあります。「無量劫」というのは膨大な時間の長さをあらわすことばです。それがそのまま「いま」だと。この無限の「いま」から決して離れないようにしなさいと。「いま」から決して離れられないということに気づきなさいと。これが禅の教えですね。
小出:「いま」は、過去から未来に向かって不可逆的に流れる直線上の狭苦しい一点ではなくて、まさしく無限の広がりが凝縮されたものなのだと……。私たちがすべきなのは、ただただ、すべてとしての「いま」を生きていくこと。それだけなのかもしれませんね。
「そのものであること」と「そのものであると思い込むこと」はまったく違う
横田:盛永老師は、また、こんなことをおっしゃっています。
大いなる不変のいのちが、限りある相となって個性的に変化しつつ、そこには微妙な秩序と調和がある。
(『「いのち」と禅』 盛永宗興=著)
横田:私たち人間がどう生きていくべきか、その答えがここに書いてありますよ。いかに秩序と調和を保っていくか。そこに尽きるんじゃないかねえ。
小出:秩序と調和……。それで言えば、さっきも腸内細菌のお話がありましたけれど、ほんとうは、すでにすべてが調和しているわけですよね? いのちは、調和そのものだから。
横田:その通り。すべては調和の中にあります。
小出:それならば、「調和しよう」と思うことすら、力みになってしまいませんか?
横田:まあ、そうですね。
小出:でも、そうかと言って、決してやりたい放題やっていいわけでもなくて……。
横田:そう。そこが仏教でも一番大きな勘違いになるところなんですよね。仏教の真髄は、仏になることではなくて、すでに仏であることに気づいていくこと。それはその通りなんですよ。ただね、「仏のままである」ということと、「仏なんだからやりたい放題やっていいんだと思い込む」ということと、このふたつには大きな隔たりがあるんですよ。
小出:ああ……! 「そのものであること」と、「そのものであると思い込むこと」って、確かにぜんぜん違いますね。
横田:天地の違いがあるんです。しかし、頭だけで考えるとそれがわからなくなってしまうのね。そういう連中が間違いを犯してしまって、自分や周りを傷つけてしまうんだ。
「戒」はいのちの方向性を指し示した教え
横田:もちろん、さっき小出さんがおっしゃったように、ほんとうは努力もなにも必要なく、ただ調和がある世界というのが究極ですよ。しかし、現実には、やはり周りに迷惑をかけないようにしましょうとか、いのちを粗末にしないようにしましょうとか、そういう方向付けというのは、どうしても必要になってくるんですね。それが仏教では「戒」として伝えられているんですよ。
小出:「戒」ですか。
横田:しかし、この「戒」というのも、やっぱり、大きく誤解をされているなあと思うんです。「戒」というと、「これをするとこういう罰が待っている」とか「こんな悪いことをしたら地獄に落ちる」とか、そういうものだっていうイメージがあるでしょう。
小出:そうですね。「戒め」という漢字があてられているし……。
横田:しかし、元来、「戒」というのは、「戒め」とはまったく別のものなんですよ。
小出:そうなんですか!?
横田:「戒」というのは、梵語で「シーラ」になるんですね。「シーラ」というのは、「習慣をつける」という意味なんです。つまり、「戒」というのは「良い習慣をつける」というのがもともとの意味なんですね。「こころに良い習慣をつけていきましょう」と。そういうものなんです。
小出:へええ……。
横田:なぜ良い習慣が必要なのか。いのちを生かしていくためです。「戒」というのは、すべて、いのちを生かす、その方向性をさし示したものなんです。「五戒」というのも、すべてこれで解釈できる。嘘偽りを言ったり、悪口を言ったりすると、互いのいのちがしぼんでしまう。人のものを盗ったときも同じことが起こる。互いのいのちが弱ってしまう。お酒に酔って人に迷惑をかけると、互いのいのちが傷ついてしまう。
小出:お酒に関しては、耳と胸がものすごく痛いです……。
横田:そう?(笑) これはね、やっぱり、すべていのちの方向性を指し示した教えなんですよ。そう考えると「戒」を理解できるでしょ。栗生隆子さんとの対話の中でも、細胞は自然と光を目指すっておっしゃっていたじゃないですか。あれと同じです。方向性を示すものとして「戒」はあるんです。……ちょっと話がズレちゃったね。
小出:いいえ、ぜんぜん! ありがとうございました。貴重なお話でした。
「こういうものだ」とつかんだ途端にいのちでなくなる
横田:さて、いのちの話の続きに戻りましょうか。これも盛永老師のことばです。
仏というものはこういうものじゃという思い込みがあったら忽ち仏ではない、衆生というものがそこにできてしまう。
横田:これは「仏」を「いのち」と置き換えてもいいでしょう。「いのちというものはこういうものだ」という思い込みがあったら、それはいのちではないと。そこには「いのち」と「いのちではないもの」との隔たりができてしまうと。
小出:今日の対話の最初に横田老師がお示しになったことですね。だから「いのちの話をするなんて気に入らない」とおっしゃられたんですね(笑)。
横田:そういうことです。「丙丁童子来求火(びょうじょうどうじらいぐか)」という禅語があります。丙丁童子というのは、火の神さまのことです。火の神さまが「火とはなんだ」と聞いている。「お前が火だ」。それ以外に答えはありません。「いのちとはなにか」「お前がいのちだ」と。こう言うしかないんです。
小出:ああ……。
横田:私もよくこんな話をするんですよ。「今日、いのちを忘れてきた人いますか?」「もし忘れてきた人がいたら手を挙げてください」って。
小出:(笑)
横田:手を挙げる人がいたらね、「その手を挙げているのがいのちなんです」と(笑)。こういうのが禅問答なんです。単純明快でしょ。
小出:そういう風に教えていただければ、確かに、びっくりするほど単純明快です。
横田:禅問答は、なにやら難しいもののように思われているけれども、基本はものすごくシンプルなんですよ。『景徳伝灯録』にもこういった話が載っています。
(無業和尚伝)師、礼し跪いて問ふて曰く。三乗の文学はほぼ其の旨を窮む。常に禅門の即心是仏を聞けども、実に未だ了ずること能はずと。馬祖曰く。只だ、未だ了ぜざる底の心のみ即ち是にして、更に別物無しと。
横田:無業和尚という人が仏教学をほぼ極めた。しかしながら、心が仏だということだけがわからない。そこで馬祖という人に「これはどういうことですか」と質問したんですね。すると馬祖はこう答えた。「わからんというやつが、まさしくそれだ」と。「わからんと言っているそれが仏だ」と。「わからないと言っているそれ以外に仏はない」と、こういうことなんですね。わかりますでしょ。禅問答、ちっとも難しいことないじゃないの。
小出:ものすごくシンプルですね!
仏性は五目おにぎりのようなもの!?
横田:臨済禅師がさとりをひらくときの話も面白いですよ。臨済禅師は黄檗禅師という人のところに参禅に行くんですね。そこで長年坐禅だけをしていた。三年経ったころ、臨済禅師は黄檗禅師の前に行って「仏法とはなんですか」と質問をした。すると、黄檗禅師はいきなり臨済禅師を叩いてきた。臨済禅師はびっくりして飛び出した。その後、三回同じことを繰り返して、これじゃ埒があかないというので、臨済禅師は大愚和尚という別の人のところに行くんです。それで、「私が質問したらいきなり叩かれました。黄檗禅師はほんとうにひどい和尚です」と伝えたんですね。それをじっと聞いていた大愚和尚は、ひとこと、「黄檗はそんなに親切な人間であったか」と言った。そう言われた瞬間、「はっ」と気がついたと、こういうお話なんです。
小出:へええ。面白い!
横田:「いのちとはなんですか」「お前がいのちだ」と。「これ以外にないだろう」と叩いて教えているわけですよ。仏法とはいのちそのものです。
小出:臨済禅師のことが気に入らないから叩いていたわけじゃなくて、叩くことによって、ダイレクトに、「これがいのちだ」「聞いているやつがいのちだ」と教えてくれていたんですね!(笑)
横田:そういうことです。だから「黄檗は親切だなあ」と、こういうわけなんです。「黄檗禅師はまったく余計なことをしなかった、そのものズバリを私に示してくださっていたんだなあ」と。大愚和尚のことばを聴いた瞬間、臨済禅師はそれをさとったんでしょうね。
小出:そういうことだったんですね……。
横田:『頓悟要門』という書物にもこんな話が載っています。これも同じ話ですね。
(大珠慧海)師初め江西に至り馬祖に参ず。祖問う、何処より来たる。曰く越州の大雲寺より来たる。祖曰く、此に来たって何事をか須めんと擬す。曰く、来たって仏法を求む。祖曰く、自家の宝蔵を顧ず、家を抛って散走して什麼か作す。我が這裏、一物も也無し。什麼の仏法をか求めん。師遂に礼拝して問うて曰く、阿那箇か是れ慧海自家の宝蔵。祖曰く、即今我に問う者、是れ汝が宝蔵。一切具足して更に欠少無し。使用自在。何んぞ外に向かって求覓することを仮らん。師言下に於いて大悟す。自らの本心は知覚に由らざることを識り、踊躍礼謝す。師事六載。
横田:大珠慧海がはじめて馬祖に参禅をしたときのこと。馬祖が「どこから来たか」と言うので、「越州の大雲寺から来ました」と答えた。「なにを求めてきたか」。「仏法を求めてきました」。すると馬祖は、「宝はお前の中にあるじゃないか。外に向かってなにを探そうとしているのか。私はお前に示すような仏法はなにひとつない」と言った。「ではいったい、私にある宝とはなんですか」。それに対して馬祖は「いま質問したやつ、それが宝だ」と。「いま聞いているもの、それがいのちそのものだろう」と。「それが宝だろう」と。「すべてはそこに備わっていて、なにも欠けることはない。その活動が禅であり、いのちであるのだ」と。
小出:活動そのものがいのちである……。
横田:これが臨済禅の特徴なんです。ある先生が面白いことをおっしゃっていましたよ。臨済以前の「仏心」「仏性」というのは、いわば、梅干しのおにぎりのようなものだと考えられていた。ご飯の中に梅干しがあるでしょう。米粒は煩悩、梅干しが仏性。煩悩をのぞいたら梅干しが取れると。しかし、臨済以降の禅では仏性をそんな風には見ない。強いて言えば、仏性は五目おにぎりのようなものなんだと(笑)。
小出:仏性も煩悩も渾然一体になっているんだと(笑)。
横田:そういうこと。具だけを取り出すことはできないんだと。なるほど、うまいこと説明するなあと思いましたね(笑)。こうして活動している全体が仏性だ、いのちだと。こういう見方ですね。肺が肺のはたらきをしている。胃袋が胃袋のはたらきをしている。大腸が大腸の働きをしている。手がこうして動いている。口が動いて話をしている。その全体がそのまま仏性であり、いのちなんですな。
小出:余すところなくすべて。まさしくすべてが、いのちなんですね。
姿ではなく、いのちを見る
横田:辻光文(つじこうぶん)先生という方がいらっしゃいました。この方は、もともと臨済宗のお寺の生まれでね。柴山全慶(しばやまぜんけい)老師という当時の南禅寺派の管長さんから、非常に将来を嘱望されておったんです。しかし、この方はいまの仏教界のあり方に疑問を抱いて、お寺には入らずに、非行や問題行動を起こした子どもたちを預かる施設を作って、一生涯、じっと、そういった方々のお世話をして過ごされたんです。
小出:そんな方がいらっしゃったんですね……。恥ずかしながら、存じ上げませんでした。
横田:その辻先生が、あるとき、S子さんという少女を施設で預かるんですね。その少女というのが、もう、名うてのワルで。とにかく悪い。言うことをきかない。暴れる。問題行動ばかりを起こす。それで、まあ、さすがに辻先生も手を焼いて、「この子さえいなければ……」と思っていたらしいんです。ところが、その少女がですね、あるとき悪性腫瘍を患って、余命数か月だと宣告されるんです。そこではじめて、辻先生は、「ああ、自分は、この子のいのちを見ていなかった」と、こう気がつくんですよ。「自分の都合でしか見ていなかった。姿だけを見て、いのちを見ていなかった。すまないことをした。申し訳ないことをした」と。その反省の中で、辻先生が作られた詩がこちらです。
「いのちはつながりだ」と平易に言った人がいます。
それはすべてのもののきれめのない、つなぎめのない東洋の「空」の世界でした。
障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、
区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち、
いのちそのものです。
それは虫も動物も山も川も海も雨も風も空も太陽も、
宇宙の塵の果てまでつながるいのちなのです。
劫初よりこの方、重々無尽に織りなす命の流れとして、
その中に、今、私がいるのです。
すべては生きている。
というより、生かされて、今ここにいるいのちです。
そのわたしからの出発です。
すべてはみな、生かされている、そのいのちの自覚の中に、宇宙続きの、
唯一、人間の感動があり、愛が感じられるのです。
本当はみんな愛の中にあるのです。
生きているだけではいけませんか。
横田:「空(くう)」というのもね、まあ、難しい概念にされてしまいがちですけれど、つまりは、こういう、つながり合いの世界なんですよね。無限のつながり合い、無限の広がりですよ。
小出:つながりがそのまま「空」であると。つまりは、いのちであると。
横田:大きなものとつながっているという、この実感は、やはり、生きていく上で大きな力になるんですよ。そのつながりを感じることは、人間、できるんだと思うんですよね。そして、それこそがいちばんの感動になる。最後、すごいでしょう。「すべてはみな、生かされている、そのいのちの自覚の中に、宇宙続きの、唯一、人間の感動があり、愛が感じられるのです。本当はみんな愛の中にあるのです。生きているだけではいけませんか」と。
小出:力強い問いかけです。
横田:私がこの辻先生の詩を知ったのは、ちょうど、あの、相模原の障害者施設での事件のあったあとだったんです。だから、なおのことこう思ったね。目に見える現象、自分だけの都合、功利主義的な考え、そこしか見ていない。いのちを見るということができなくなっている。ああいった事件は、そういったものの見方の結果として起きてきたんじゃないのかなと……。
小出:そうなのかもしれませんね……。
一呼吸一呼吸が無限のいのち
横田:辻先生は、最晩年に、こんなことをおっしゃっていたそうです。神渡良平(かみわたりりょうへい)先生という作家さんのインタビューからの抜き出しです。
今はこうやってベッドに寝ているしかなくなりました。こうして呼吸しているいのちを見詰め、味わっていると、次第に見えてくるものがあったんです。生も死も別物ではなく一如、二つ別々に分けることができない不二の世界でした。自分と他人は分けることができない“一ついのち”であるように、何と生と死も分けることができない“一つつながり”だったのです。
(『共に生きる』 神渡良平=著)
横田:病床で自分の呼吸を見つめていると、生と死の間には切れ目、継ぎ目がないことがわかったというんですね。生と死はひとつながり。いのちはひとつながりであると。
小出:さきほどの詩は、横田老師のことばをお借りするのなら空間的な横のつながり。こちらのインタビューのことばは、時間的な縦のつながりをあらわしているように感じます。
横田:そういうことです。その横軸と縦軸とが交わったところに、「いま」のこの一呼吸があるんですな。この一呼吸を見つめれば、生と死の切れ目がないということがわかる。これは、禅の究極だなあと思いますね。
小出:禅の精神の極みでもあるし、そのまま「南無阿弥陀仏」の世界でもあると感じますね。
横田:そうでしょうね。生と死の切れ目がないというのは、つまりは「無量寿如来」の世界ですから。
小出:無量寿如来は、阿弥陀如来の別名ですものね。
横田:ふうっと息をしている。この一呼吸が無限のいのち、つまりは無量寿如来、阿弥陀如来であると。辻先生はこういう風には表現されていらっしゃいませんけれども、同じことだと思いますね。ここにすべてが言い尽くされている。
小出:ほんとうに、ありがたいことです。南無阿弥陀仏……
「ひとつのいのち」があるからこそ多様性を発揮できる
小出:少しさかのぼりますけれど、辻先生の詩の中に、「区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち」という表現がありましたよね。ここが、すごく素敵だなあって。
横田:そう、つながっているけれど、「区別」はできるんですよ。ここは大事なところですね。
小出:でも、「いのちひとつ」ということばだけを聞くと、人間、どうしても、なにかのっぺらぼうみたいな、平坦でつまらない世界をイメージしてしまいがちなんじゃないかなって。でも、「区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち」というのは、つまりは、個々のいのちがそれぞれに個性を持ちながらも、全体としてはひとつとして動いているということですよね。ベースに「ひとつ」があるからこそ、安心して個性を発揮できる世界というか……。そっちがほんとうなんじゃないかなって。
横田:それに関してはうまいたとえがありますよ。いのちというのは、昔の日本画でいうニカワのようなものだと。
小出:ニカワですか?
横田:昔はね、絵を描くときに、絵の具をニカワで溶いたの。どんな色でもニカワで溶くんです。つまり、青でも、赤でも、そこにはニカワが入っているんですよ。だからちゃんと塗れるんですよ。いのちというのは、このニカワのようなものです。すべてに満ち満ちている。かと言って「これだ」と言って取り出すことはできないんですね。
小出:すごい! わかりやすいです。ベースにニカワがあるからこそ、それぞれの色を発揮できる。ベースにひとつのいのちがあるからこそ、それぞれの個性、多様性を発揮できるんですね。華厳で言う「一即多」「多即一」の世界。「一」も「多」が、なんの矛盾もなく同居している。般若心経の「色即是空」「空即是色」もこういうことなのかもしれませんね。「色」も「空」もわけられなくて、同時にあるんだと。
横田:そういうことですね。
そもそもみんな世界にひとつだけの花
横田:多様性ということで言えばね、ちょうど昨日、養老孟司先生との対談をうちの寺でやっていたんですよ。面白い話をされていましたよ。先生が言うには、動物は「同じ」ということがわからない、と。
小出:「同じ」ということがわからない?
横田:たとえば家族でシロという名の猫を飼っているとしますよね。お父さんが「シロ」と呼びかける。お母さんが「シロ」と呼びかける。子どもが「シロ」と呼びかける。この3つを同じ「シロ」だと認識するのは人間だけ。猫はそれぞれをまったく違う音として認識していると。動物は絶対音感の世界で生きているんですね。ところが人間は、お父さんの「シロ」も、お母さんの「シロ」も、子どもの「シロ」も、みな同じ「シロ」だという風に概念化してしまうんです。
小出:なるほど。
横田:こんな話もされていました。赤いペンで青という文字を書く。これはなんだと問いかけると、人間は「青」と答える。しかし、動物はそれをそのまま「赤」と見るんだと。
小出:面白い!(笑)
横田:動物の見ている、絶対的な違い、変化のある世界がほんとうなんですよね。ところが人間はすべてを同一化しようとするでしょう。いまなんか、どこに行っても同じコーヒーショップがあって、どこに行っても同じファミレスがあるじゃない。みんな同じものを求めようとするんだね。
小出:地方の国道沿いなんか、ほんとうに、どこに行っても同じ街並みが広がっていますものね……。
横田:いまは道路そのものにも変化がなくなってしまった。昔の道は毎日違いました。雨が降ればぬかるむし、日照りが続けばほこりが舞うし、毎日違うのが当たり前だったんですよ。しかしそれだと大変だからということで、みんなアスファルトで舗装してしまった。これはつまらないですよ。その究極がグローバル化だと、養老先生はおっしゃっていた。世界中が同じ価値観に染まって、同じものを共有しようとしている。そんなことを突き詰めた先はどうなるでしょう。いのちがないがしろにされるような世界が広がっていくだけですよ。いのちは本来、多様性そのものなんだから。
小出:多様性としてあらわれるのが、いのちの特性ですものね……。
横田:先日もね、丸の内に講演に行ったんですよ。随分綺麗なところでしてね。ビルの中、塵ひとつないんです。セキュリティーも万全で。会場には同じようなスーツを着た人たちがぴしっと立って並んでいてね……。寺に帰って、私、ほんとうにほっとしましたよ。昨日の養老先生の講演会にもいろんな人たちが来てくださっていてね。お母さんが子どもを連れてきたりね、年寄りがごろごろしていたりね(笑)。みんなのびのびとくつろいでおって……。この多様性こそが、いのちの世界なんだなあ、と実感したことです。
小出:その光景を想像しただけで、私も、なにか、ほっと安心しました。
横田:多様性があるのが当たり前なんです。でも、時代は画一化の方向に進んでしまった。だから「世界にひとつだけの花」とかいう歌が流行るんでしょう。
小出:(笑)
横田:昔はね、みんな、当たり前のようにして、世界にひとつだけの存在として、ひとりひとりが生きていたんですよ。そんなこと、いちいち言う必要もなかったの。でもあんな歌が流行るということは、それだけ大切なことが見失われているということでしょう。そんな話を養老先生はされていました。
小出:考えさせられるお話です。
「知らない」というのがいちばん素晴らしい
横田:いのちは、個々別々、曲がりくねったのもあれば、ひねくれたものもある。それでいいんですよ。世界はそれで上手に調和を保つんです。それをみんな変に揃えようとするからおかしなことになってしまうんですよ。なにかそっちの方が都合がいいと思われているから、そうなってしまうんでしょうけれど。
小出:多様性を認めるというのは、つまり、自分のわからないことが増えることとイコールだから。それが、みんな、恐ろしいのかもしれないですね。
横田:そうだねえ。みんな、なにか「わかっていたい」という気持ちがあるのかもしれませんね。しかし、それが問題の根本なんだな。盛永老師はこんなことをおっしゃっています。
限りないものはわかったとは言えません。だから禅宗では知らないということが一番素晴らしいこと、「知らざる最も親し」という言い方をするんです。
横田:これ、いいでしょう。
小出:「知らざる最も親し」! いいですねえ! わからなくてもいい、わかりようがないんだから、ということですね。
横田:そう。そこに安らぎを持たなければ仕方ないんですよ。昔の人はね、農業を通して、明日のことはわからない、というところを直に生きていたんですよ。自然相手ですからね。去年こうだったからといって今年も同じかというと全然違う。毎日違うのが自然というものなんですよ。ところが、いまの人はなんでもかんでもマニュアルを作りたがるでしょう。去年そうだったことは、今年もそうなるんだって言って疑わない。私どもも修行道場で梅干しを作っていますけれど、ある年のことですよ。土砂降りの雨の日にね、雲水が、梅干しを一生懸命干しておるのよ。びっくりしてねえ。「おい、なんで今日干しているんだ」って言ったら、「去年の今日梅を干したって帳面に書いてありました」なんて言うんですよ。
小出:ほんとうですか?
横田:いや、実話なんですよ。そういう人間が生まれてしまうのが現代の病理ですよ。いのちの実感が失われてしまっているんでしょうなあ……。
小出:マニュアルに頼ってしまうのも、やっぱり、「わからない」に対面するのが怖いという心理から来るのでしょうね……。我が身を振り返って、そう思いますよ。
横田:そうなのかねえ。しかし、わからないこと、知らないことは、決して恐ろしいことではないんだけれどね。
小出:すべての大元にあるいのちのことすらわからない、わかりようがないのだから。
横田:そういうことですね。
わからなくても、知らなくても、懐(いだ)かれている
横田:こんな歌があります。
その中にありともしらずはれわたる空に懐かれ雲のあそべる 九条武子
横田:雲は大空のことなんか知りません。しかし、確実に大空の中にあって、そこでのびのびと遊んでいる。知りもしない、わかろうともしないけれども、しかし、確実に、そこに懐かれている。その安心感はあるんでしょうな。この安心感というのが、いちばん大事だと思うんですよ。
小出:安心して、わからないことにくつろいだままに生きていける世界。いいなあ……。
横田:しかし、現代は真逆の方向に進んでしまっている。やっぱり教育に問題があるんですよ。子どもが「わからない」と言うと怒るから。ほんとうはそこで褒めてあげなきゃだめなんだ。
小出:「わからないというのは素晴らしいことだよ」って。
横田:いまはね、どうしても、わからんっていうと、わかるまで教えようとしてしまうでしょう。それが大きな間違いなんですよ。
小出:わからないことを、わからないままに、そのまま認める力が、そのまま、いのちの多様なあらわれを受容する力になるのでしょうね。でこぼこはでこぼこのままでいい、そのままで調和が取れているんだって。そのことが信じられないから、どうにか、世界を平坦なものにしてしまおうとする。そうして自分の理解できるものに変えてしまおうとする。理解ができれば、ちょっと安心できるような気がするんですよ。でも、それはニセの安心感ですよね。
横田:ニセですね。だからかならずほころびがくる。そんなものに頼るよりも、思い切ってわからないことにくつろいでしまう方がいいんじゃないですか。
小出:「わからない」の海は、思っている以上に、やさしいです。
横田:そこを実感していくことが大切なんです。禅はそこをまっすぐに説いているんですよ。わかりやすいでしょう(笑)。
小出:ほんとうに、わかりやすいお話でした。……というところでお時間がきてしまいました。「ひとつのいのち」と「多様性そのものとしてのいのち」。そこがなんの矛盾もなく統合されていて……。理屈抜きで、ただただ、感動しました。横田老師といのちのお話ができてよかったです。ほんとうにありがとうございました。
横田南嶺(よこた・なんれい)
1964年和歌山県生まれ。1987年筑波大学卒業。在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。1991年円覚寺僧堂で修行。1999年円覚寺僧堂師家。2010年臨済宗円覚寺派管長に就任。
著書に『いろはにほへと―鎌倉円覚寺 横田南嶺管長 ある日の法話より』(インターブックス)、『祈りの延命十句観音経』(春秋社)、『禅の名僧に学ぶ生き方の知恵』(到知出版社)、『二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう 生きるための禅の心』(PHP研究所)、『人生を照らす禅の言葉』(到知出版社)など。