親鸞さんは「種明かし」をしてしまった人

松本:いまの話に関連して言えば、浄土真宗では「他力」や「凡夫」を強調しますが、「私は、あらゆることに対して、なにひとつ責任なんて取りようのない存在である」ということを信知(しんち)することが大事なんですね。

小出:「信知」ですか?

松本:「いただく」というかたちで知るということです。主体のない「知る」、とも言えるかな。

小出:なるほど……。ほんとうにね、自分はなにもしていないよね、っていうところで……なにも「できない」んじゃなくて、なにも「していない」よね、っていうところで生きていると、いよいよ、仏教のことば、親鸞さんのことばに辿りついてしまうなあ、っていうのは私も実感するところで。ものすごくしっくりくるんですよね、親鸞さんの語りって。なんの力みもなく、フラットに受け取れる。

松本:親鸞さんは出家者じゃないから、枠組み自体を解体しちゃったんですよね。社会の中で、人間界というか、娑婆というか、そういう世界を出たところでやるっていうのではないあり方で、人生をかけて表現した人なんだなと、そう思いますね。

小出:いのちの表現をね。親鸞さんのしたことをひとことであらわすなら、ズバリ「種明かし」だと思うんですよ。

松本:種明かし。なるほどね。

小出:どんなあり方をしていたって構わないっていう意味での種明かしを、親鸞さんは全身全霊で、本気でやっちゃった。

松本:扉を開けちゃった。扉の向こうにあるものじゃなくしちゃった。

小出:というか、扉なんかそもそもなかったっていうのを証明しちゃった。「扉があると思っていたでしょ? それがどこにもないんだよなあ~」みたいな(笑)。「なにをしたから救われる、なにをしなかったから救われないとか、そんなケチ臭い話なんかじゃないんだよ~」って。

松本:うん。

小出:さっきの話で言えば、「崖も人もどこにもなかった!」みたいなのが究極の種明かしになるわけですけれど。だから、根本のところでは安心していていいんだよ、っていう。そういう風に、私は、親鸞さんのことばを受け取っていますね。

大丈夫しかないから大丈夫

小出:でも、もちろん、そうは言っても、表面上、すごくいろいろな不安が出てきたりとかはありますけれどね。

松本:ねえ。当然ですよね。実際に崖に連れていかれて突き落とされそうになったら……

小出:全力で抵抗するし。泣くし、叫ぶし、つかまるし。

松本:全力でじたばたするし、「うわ~!」って思うし。

小出:そりゃそうですよ。崖のところで落ちかかっているのにニコニコ笑っているのが「達観」だと思ったら大間違いだからね、っていう。

松本:臨終の際にニコニコしていられるかって言うと、そんな確証もないし、最期のことばは「死にとうない」かもしれないし。

小出:それ、一休さんでしたっけ? 仙がいさんだっけ(笑)。ねえ。でも、ほんとうに、そんなのは、ぜったいにわからない。自分で決められるものじゃないし。それに……

松本:「死にとうない」かもしれないけれど、それでも大丈夫っていう。

小出:そうそう。「死にとうない」って言いながら死んでも大丈夫だし。絶対的に大丈夫なんですよね。それはもう存在のベース音として常に響いている。さっきも「常に南無阿弥陀仏が聞こえる」って言ったけど、そういうことなんですよね。南無阿弥陀仏は、「大丈夫」という呼びかけにほかならないとも言えて……。

松本:その「大丈夫」がほんとうに大丈夫なのか、っていうのは大丈夫? いまはそうかもしれないけれど、これから先変わるかもしれないじゃない。

小出:大丈夫です。

松本:変わったとしても大丈夫なんだよね。なぜなら大丈夫だから。大丈夫しかないから。

小出:そういうことです。大丈夫しかないから、大丈夫。南無阿弥陀仏しかないから大丈夫。それがいのちの表現だから。

できることは「対機説法」だけ

小出:でも、どうなんだろう。「南無阿弥陀仏」とか言うと特殊な話だと思われちゃうかもしれないけれど、とにかく、いのちのベースに「大丈夫」があることに気づいていれば、それでいいよね、と思っていて。ほんとうに、どうあっても大丈夫なんだよ、っていうのが、究極的な種明かし。

松本:うん。

小出:だからと言って、「リラックスして生きなさい」とかそういう単純な話じゃなくて。リラックスして生きるんだったら生きればいいし、緊張しながら生きるんだったら生きればいいし。どのみち救われているから。ほんとうのほんとうのほんとうに、どうあっても大丈夫。なぜなら大丈夫しかないから。……っていう無限ループ(笑)。

松本:ほんとうにそうだと思うの。でね、その「大丈夫」を伝えるときに、じゃあ僕らがなにをするのかって言うと、やっぱり対機説法っていうことになるんだと思う。出会った人と対話している場で、僕らが立っている大丈夫なグラウンドから出てくることばを、その都度話しているんだろうなと。別にその人になにかできる自分っていうのはいないんだけど、できるとしたらそれぐらいしかない。その結果なにになるのかもわからないけれど……。でも、せめて、精一杯やっていきたいですね。

小出:はい。

松本:精一杯、大丈夫なグラウンドから出てくることばを話す。相手の立っているグラウンドなのか、あるいはひっかかっている木の枝なのかはわからないけれど、あ、この辺が苦しみの原因なんだなっていうのを、絶対的な「大丈夫」と照らし合わせて考えながら、いま、どういうことばをかけてあげたら、ちょっと手放せるようになるかな、って。そういうことをやっているのかな、と思いますね。

小出:そういうのが、まさしく、ほんとうの「対話」なんじゃないかな。

対話とは、人との出会いを真剣にやるということ

小出:対話って、いま松本さんがおっしゃったように、一対一の真剣勝負が基本形なんですけれど、ほんとうはそれだけに限らない。たとえばこのTemple Webでやろうとしていることだって対話なんですよ。

松本:そうだと思います。

小出:いま松本さんと直に対話をして、それを記事にまとめますよね。で、サイトに載せますよね。じゃあ、その記事は誰に向かって発信されているんですか? って聞かれたら、やっぱり、それはたった「ひとり」に向けているんですよ。読者の方はたくさんいらっしゃるけれど、そのおひとりずつに、っていうより、単純に、たったひとりに、なんですよね。だって、PCでも、スマホでも、この記事を読んでくださるときは、みなさん、おひとりでお読みになるわけだから……。やっぱりね、それは対話になると思うんですよ。

松本:対面だろうが、メディアを通してだろうが、誰かと、人として出会うということを真剣にやるっていうことだよね。

小出:そう。対話って、そのまま「出会い」ですからね。だから、ほんとうは、人と人とが向かい合って話すという以外のどんな場面であっても、対話っていうのは常に生まれ続けていて。いまの時代はとくに、いろんな対話の機会が、いろんな人に与えられているんじゃないかなって。インターネットを介したコミュニケーションだって、間違いなく、ひとつの対話のかたちだと思うんですよね。

松本:うん。

小出:Temple Webに掲載した記事をお読みになった方が、まあ、なにかを感じてくださるんだったらありがたいことだし、その場で感じてもらえなくても、なにが縁になっていくかなんてわからないので。この記事に出会って、読んでくださった、ということは、もはや対話をした、ということなので。そういう対話の力を信じてみようかな、っていうので、今回、Templeはスタートしたわけなんですけれども。

答えを得ることが人生のゴールではない

松本:ほんとうに人と出会うということは、自分と出会うということなんじゃないかなって。

小出:その通りだと思います。

松本:だから、昔の高僧の本を読むのもひとつの対話だと思うし、ご先祖さまのお墓の前で話しかけるのも対話だと思うし、それこそウェブメディアを通じて対話をすることもあるだろうし。

小出:うん。どんなかたちであっても、究極的には自分と出会っていく、いのちと呼ばれる自分と出会っていくっていうのが、対話の真ん中にあるものですよね。

松本:で、知れば知るほど知ることができない、その不思議さに出会っていくというか、深めていくというかね。

小出:それこそが大事なところですよね。「わかんないな~」っていうことに落ち着くこともできるんだよね、っていうのが……。明るいわからなさというか、あっけらかんとしたわからなさと仲良くしていくことだってできる。すると、さっきも言ったけど、ただ、「感動」だけが広がっていくようなことが起きてくるんですよね。だから、人生って、答えを探す場所じゃないんだよな、って。最近、すごくそう思いますね。

松本:うん。

小出:もちろん、答えを探してもいいし、それは別になにも悪いことじゃないけれども、答えはゴールではない。

松本:答えを得たとか、ゴールに辿り着いたって思ったら、誰が? って問われますよね、常に。収穫しようと思ったとたん、即、すり抜けていくというか。

小出:ほんとうにそうなんですよね。ぜったいにつかまえられない。つかまえる対象もなければ、つかまえる主体もないので。……ということで、ほんとうに、ゴールもなにもない対話でしたけれど、とりあえず初回の「いのちからはじまる話をしよう」はだいたいこんな感じで終わりに……しちゃっていいのかな? 大丈夫かな? 記事になるかな? ちょっと不安ですよ(笑)。

松本:まあ、いいんじゃない? いのちがそうあらわれたのなら(笑)。

小出:「今、いのちがあなたを生きている」んですものね。じゃあこのまま載せちゃおう! 苦情はいのちに言ってくださいね(笑)。ということでお開きです。松本さん、今日はたのしい対話をありがとうございました。

松本:ありがとうございました。

(2016年初秋 神谷町光明寺にて 取材・編集:小出遥子/撮影:佐藤圭祐)

松本紹圭(まつもと・しょうけい)

1979年生まれ。
一般社団法人お寺の未来理事。浄土真宗本願寺派光明寺僧侶。
東京大学文学部卒業。Indian School of BusinessでMBAを取得。
超宗派仏教徒によるインターネット寺院「彼岸寺」(higan.net)、お寺カフェ「神谷町オープンテラス」を企画。
2013年、世界経済フォーラムのYoung Global Leadersの一人に選出される。
著書に『東大卒僧侶の「お坊さん革命」』(講談社)ほか多数。

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