松本紹圭さんとの対話/今、いのちがあなたを生きている

2018年9月13日

ほんとうに目の前の人と出会っていますか?

松本:でも、なんで「なるほど! わかった!」っていう風に思っちゃうのかな。わからないことに耐えられないのかな?

小出:わからないことに耐えられないっていうのもあるし、それ以外の生き方を知らないっていうのもあると思います。

松本:「ラベルで規定される私」というものにしがみつけばしがみつくほど、しがみつくクセが強化されてしまうのにね。一度、手放してみれば、「あ、そんなもんか」っていう風になるんだろうけれど。

小出:クセが強化されるっていうの、わかる気がするなあ……。

松本:ラベルにしがみつけばつくほど、わかったような気になっている範囲が広くなっていくんですよね。「ああ、これ知っている」「ああ、それはこういうことだ」って、脳内に記憶パターンを蓄積してしまう。すると、目の前のことに触れているようで触れていないっていうようなことが起きてくるんだと思います。

小出:触れているようで触れていない?

松本:たとえばいまだったら、僕は2016年某月某日何時何分の小出遥子さんに出会っているはずなのに、過去の小出遥子像を呼び覚まして、それと話しているだけっていうことになってしまう、と。目の前にいる人と全身全霊で出会えないっていう。

小出:全身全霊でね。

松本:小出遥子さんの姿を見ているようで、小出遥子さんの姿的なものをあたまの中で再現しているだけかもしれないし、小出遥子さんの声を聞いているようで、小出遥子さんの声的なものをあたまの中で再生しているだけかもしれない。

小出:悲しいなあ……。

過去の記憶にアクセスしていることにマインドフルでいれば……

小出:でも、どうなんだろう。過去の記憶を再生することすら「いま」起きていて、いま、それがいのちのあらわれとして起きているのなら、別に、それを否定すべきものでもないのでは、という気も……。

松本:記憶にふけって懐かしい気持ちになるならなればいいじゃない、って。

小出:うん。それ自体にくつろいでしまうことは可能ですよね。ただ、もちろんそのためには、自分がいま、過去の記憶にアクセスしているっていうことにマインドフルであることが絶対条件になりますけれど。

松本:そうだね。過去の記憶にアクセスしているということが「いま」起きている。その構造をちゃんとわかっているかどうかは、大きな違いになると思う。

小出:うん。その構造自体にちゃんと気づいているなら、過去の記憶にアクセスすることは問題にならないんですよね。

松本:でも、まあ、そうは言ってもクセの力は大きいですからね。慣性力が働いて、どうしても、気づかないうちに過去の記憶にアクセスすることが起きてきちゃうっていうのはあると思う。「わかっちゃいるけどやめられない」っていうやつですよ。

小出:そんな歌があったような気が(笑)。それが起こると苦しいんですよね……。松本さんもそういうことありますか? なさそうに見えますけど。

松本:僕の場合は、もともと記憶が弱いので、クセどうこうとか関係なく、どんどん忘れていくんですけれど(笑)。

小出:いいなあ(笑)。

宇宙から眺めているような「誰か」がいる?

小出:でも、私も、さっきも言ったけど、もう、どんどんアホになってきちゃって。感じたことも、考えたことも、実際に体験したことも……いろんなこと、どんどんどんどん忘れていくんですよね。それこそ瞬間ごとに忘れていっている。あたま空っぽなまま生きている感じ。

松本:空っぽですか。

小出:以前はこんなことなかったんです。昔の私は、記憶っていうのがすごく自分にとって大事なものだと思っていたので。記憶がないと自分を保てないと思っていた。だから、それこそ後生大事に記憶を持ち運んで(笑)、感情も、思考も、体験も、絶対に忘れちゃいけない! って常に力んでいたような気がするんですけれど……。

松本:うん。

小出:でも、別に記憶があろうがなかろうが、必要なことは、いまここでかならず展開されていくので。思い出すことが起きれば思い出すし、思い出さなかったら思い出さなかったでそれがベストというか、それ以外には起きようがなかったので。まあ、言ってみれば、ご縁の……いのちのダイナミズムを信頼しているんですよね。だから、最近は安心してどんどん忘れていっていますね(笑)。

松本:わかる気もする。

小出:それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど。でも、さっきもあったけれど、良いも悪いも人に決められることじゃないし。

松本:自分に決められることでもない。

小出:そう、自分に決められることでもない。だからね、もう、どちらでもいい(笑)。投げやりな意味じゃなくてね。

松本:ジャッジメントがなくなっちゃうんだよね。

小出:ほんとうに。まあ、一応ね、判断を迫られるようなことがあれば、判断をするということが起きてくるし、そういうこともしようと思えばできるんですけれどね。でもね、別にもう、なにに対しても、起きてきたことに対して、ほとんど否定のエネルギーが湧いてこない。もし仮に「こんなことが起こっちゃいけない!」っていう思考や感情が起こったとしても、それすらOKというか。

松本:「そういう思考や感情が湧いてきた」ということが、ただ起こっただけっていう。

小出:いのちの表現としてそのように起こっただけ。だからOK。

松本:どこか宇宙から眺めているような……私でもない、そして誰でもない誰かがいるっていうか、あるんだよね。まあ、「誰か」とかね、「いる」とか「ある」とかっていうのも、また語弊があるけれど。

小出:そう、絶対にことばにはできないけれど……。でも、その「誰か」としてあるものを、たとえば仏教では、仮に「仏」と呼んでいるのかな、って。

松本:そうだね。そして、そういうあり方を、「安心(あんじん)」とか「信を得る」とかって言うのかもしれない。

探求心がなくなってしまいました……

松本:いや、ほんと、最近ね、思うんですけれど、僕自身、探求心みたいなのがあんまりなくなっちゃったな、って。

小出:そうだと思いますよ。探求心って、実はそのまま現在の否定のエネルギーだったりしますからね。「いまではないいつか」「ここではないどこか」にゴールを設定して、それを求めていくっていう。いまここに落ち着いて、安心の中で生きるようになったら、そのエネルギーは消滅していきますよね。

松本:うん。でも、世間を見渡してみると、やっぱり多くの人が否定のエネルギーで動いていて、しんどそうだな、っていう風にも思ったりもしていて……。そこをもうちょっと軽くしてあげるためのお手伝いができないかな、という思いはありますね。

小出:しんどくない生き方もあるよ、って伝えてあげるお手伝いね。

松本:うん。もしかしたらその余地もないのかもしれないけれど。

小出:そうですよね。誰が誰を手伝うの? って話でね。ぜんぶいのちがやっていることだから……。でも、いまここで、そっちの方に気持ちが向くんだったら、そうやっていくしかないですよね。まあ、お手伝いする余地だって、ねえ、ほんとうはどこにもないんだけれど。でも、結果として、誰かが楽になってくれるなら、それはうれしいな、って。

松本:そうなんですよ。

小出:わかります。私も、あるときから、存在のベースに、絶対的に揺らぐことのない、強固な安心感が生まれてしまって……。私にやりたいことがもしあるとしたら、究極的にはその絶対的な安心感、絶対的な「大丈夫」を伝えるというか、共有していくことだけなんですよね。

松本:絶対的な「大丈夫」?

小出:たとえば、断崖絶壁ギリギリのところに人が立っていて、その人は「落ちまい、落ちまい」と必死で踏ん張っているわけですよ。これが、まあ、一般的な私たちの姿ですよね。常に緊張感を持って生きている状態。

松本:うん。

小出:でも、いざ、なにかのはずみでからだが前に出てしまって、「あ、ヤバい! 落ちる! 死ぬ!」って言ってぎゅっとからだを縮こまらせるんだけど、いつまで経っても地面に辿り着かない。「あれ……?」と思って目を開けてみたら、実は最初から崖なんかなかった。そもそも崖に立つ自分すらいなかった。……それが「救い」ということばの究極的な意味だと思っていて。思っているというか、まあ、あるとき「そうか、そういうことだったのか」って、どうしようもなく気づいてしまったんですよね。

いのちの邪魔なんかできようがない

小出:だから、なんかね、別にどんな生き方をしたって、そしてどんなに死に方をしたって、そもそも救われているんだから大丈夫、っていうのは、ベースのところにずっとあるんですよ。どんなに悲惨な人生を歩んで、どんなに悲惨な死に方をしたとしても、絶対的に救われている。その「救い」っていうのは、主体も客体もないものなんですけれど、やっぱり「救い」としか言いようのないものがあって。

松本:うん、条件じゃないんだよね。なにをしたからどうなるとかじゃない。したから救われるでもないし、したから救われないでもないし、しなかったから救われるでもないし、しなかったから救われないでもないし。

小出:そうそう。ぜんぶ起きていて起きていないんだから、そもそも「救い」しかない。条件がない。その上で、でも、刻々と、いろんな出来事や活動が起こってきて、それにともなっていろんな思考や感情もごくごく自然に起きてきて……ただ、それに淡々と乗っていくだけ。

松本:じゃあ、日々をどういう風に生きるの? と言えば、いのちの邪魔をしないように生きたいな、いのちの躍動を邪魔しないように、いのちが生まれるように生きたいなって、そんな風にどこかで思っていますね。

小出:うん。……でも、どうだろう。そもそも邪魔なんかできるのかな?

松本:そう。邪魔できると思うことも、結構おこがましくて。

だからやっぱり「今、いのちがあなたを生きている」

松本:じゃあ、なにもしないんですか? となるんだけれど、そういうことじゃないんですよね。努力をしないということでもなくて。なにかできる私なんていうものは、根本的にないっていう。

小出:ほんとにね。だから……

松本:つまりは「今、いのちがあなたを生きている」っていうことですよね。

小出:あ、いま綺麗に円が閉じましたね!(笑) でも、それだけ聞くと、ものすごく、こう、無責任な感じに取られてしまうようなところがあって……。難しいですよね。でも、まあね、実際、無責任と言えば無責任なんですけれど。責任とる人もいないし。そもそも責任という概念が成り立たない。

松本:突き詰めれば、人は誰も、責任なんて取りようがない。

小出:究極はね……。でも、責任なんてどこにもないんだけれど、この世界において自分が責任を取らなくてはいけないようなことが起こったら、ちゃんとそれに対処するようなことも起きてくるんですけれどね。

松本:うん。とくにお坊さんなんて、そういうのをちゃんとする役割の人だっていうことになっているから、僕もちゃんとやらないとな、と思うんですけれどね。