前野隆司さんとの対話/いのちのはたらきと幸せは科学で証明できる!?

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私は、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授の前野隆司さんをお訪ねしました。

前野先生のご専門は、幸福学、イノベーション教育、システムデザイン、ロボティクスなどほんとうに多岐にわたりますが、そのすべての分野の背後には、大きないのちのはたらきへの畏怖と、尽きることのない興味が共通して感じられるように思います。こんなことを言ったら失礼かもしれませんが、前野先生の思想にはじめて触れたとき、「この方は、きっと、いのちの探究者仲間だ!」と、私は非常に胸が熱くなったのです。今回の対話の依頼にご快諾いただけたときは、全力でガッツポーズでした(笑)。

前野先生が科学研究という分野から導き出された結論が、私自身がひとりの仏教者として日々感じていたことと大きく重なること、そして、それに緻密で論理的なことばが正確にあてがわれたことがうれしくて、今回の対話では、少し、私がしゃべりすぎてしまったようなところがあります……。(前野先生ファンのみなさま、ごめんなさい!)しかし、それもまたいのちのはたらき、前野先生の「受動意識仮説」にのっとって言うのなら、無意識のはたらきのなせる業、ということで、ご理解いただけますとありがたいです。

科学という道。仏教という道。料理という道。スポーツという道……。道は無数にあるけれど、その真ん中にあるいのちは、間違いなく、ひとつ。前野先生とのあたたかな対話の中で、私はその直観を、あらためて確かなものにすることができました。みなさんにもなにか伝わるとうれしいです。少し長いですが、今回も、最後までじっくりとおたのしみくださいませ!

死ぬのが怖くなってきてしまいました

小出:今日は「いのちからはじまる話をしよう。」ということでお邪魔させていただいています。

前野:いのち、ですか。

小出:はい。それで、前野先生には、まずは、素朴に、「死ぬのは怖くないですか?」という質問をぶつけてみよう、と。

前野:ははは(笑)。

小出:先生、数年前に『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(講談社=刊)という本をお出しになられていますよね。拝読したのですが、もう、とにかく圧倒されました。哲学から進化生物学、いま先生が専門に研究されている幸福学まで、ありとあらゆる学問分野を縦横無尽に巡って、ごくごく緻密に、「死ぬのは怖くない」という結論を導き出されています。

前野:うん。確かに、その本を書く前は、僕、死ぬことが怖くないという境地がよくわかったと思っていたんですよ。……でも、実は、書いているうちにどんどん怖くなってきちゃいました(笑)。

小出:ええ? そうだったんですか(笑)。

前野:もうすこし正確に言うと、死ぬことが怖いというよりは、ほら、仙厓義梵(せんがいぎぼん)という高名な禅僧が「死にとうない」って言いながら死んだでしょう? あの気持ちがものすごくよくわかるようになったんです。

小出:本を書いて、死についての考えを整理していくうちに、生についての考えも同時に整理されていったんですね。そこであらためて生の素晴らしさに気づいてしまった、と。

前野:うん。だって、「死ぬのは怖くないな」と思いながら生きているこのいまって……まあ、生自体が幻想なわけですけれど、やっぱり、たのしいじゃないですか(笑)。

小出:はい、たのしいです(笑)。ただ、それはあくまで「生きたい」という方向の欲求であって、先生が緻密に論を重ねて導き出された「死ぬのは怖くない」という結論自体にはゆらぎはないわけですよね?

前野:確かに。基本的には、そうですね。

小出:実は、私も、死それ自体は、別に怖くないな、と思っているんです。

前野:ほお。死ぬのは怖くないですか?

小出:はい、死それ自体は怖くないです。ただ、死周辺のあれやこれや……たとえば大切な人たちとの別れとか、やり残したこととかを考えると、にわかに恐怖が湧いてくるようなことはもちろんありますけれど、死という現象自体に、特別な恐怖は感じていないです。

前野:死んでなんにもなくなってしまうことに対しては、どう思いますか? 怖くないですか?

小出:なんにもなくなる、というより、そもそもここにはなにもなかったんだ! みたいな気づきが、私の中にはドーンとあって。だから、死という現象をもってしたところで、結局、なにひとつ損なわれるものはないんだな、ということは、理屈を超えて理解しているんです。それなら、死自体は、決して、恐怖の対象にはならないなって。

前野:なるほど。うん。それは、そうですよね。

小出:でも、もちろん、いざ自分の死を目前にしたら、どうなるかわからないですけけれどね。思いっきりジタバタして「死にとうない!」って叫びながら死ぬかもしれないですけれど、まあ、そのときはそのときで(笑)。

「生自体が幻想」と気づいた途端にめちゃめちゃ幸せに

小出:さきほど、「生自体が幻想だ」といったようなことをおっしゃられましたけれど、先生がこのことに気づかれたのはいつ頃だったのでしょうか?

前野:『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房=刊)という本を書いた頃でしたから、いまから12年ぐらい前になりますかね。

小出:私の愛読書のひとつです。「受動意識仮説」はかなりセンセーショナルでしたね。次の行動を決めているのは、私たちの意識ではなく、無意識と呼ばれる領域である。私たちは、無意識の領域で決められたことを受け取って、そのあとで「自分で行動を決めた」と錯覚しているに過ぎないんだと……。これって、つまり、ここにはほんとうになんにもないんだよ、ということですよね。

前野:そうです。心は無だということです。

小出:はい。それをいまの話につなげると、心が無であり、ここにはなにもないのだったら、死によってなにかが損なわれることすらない、よって、死は恐怖の対象にはなり得ない、ということになりますよね?

前野:そういうことですね。だから、僕も「受動意識仮説」を発見したとき、めちゃめちゃ幸せになっちゃったんですよ(笑)。

小出:めちゃめちゃ幸せに……(笑)。確かに、死って、人間にとって一番の恐怖ですからね。そこが克服されてしまったら、幸せにならざるを得ないですよね。先生は、とくに、幼少期から死ぬということが怖くて怖くてたまらなかったとご著書にもお書きになられていましたし。それが一気にクリアになったら……。

前野:そう。だから、この本を書いてしばらくは、この世のすべては幻想なんだ、生自体がまぼろしなんだ、私自体がまぼろしなんだ、もうなにもやることはない、欲しいものはなにもない、これ以上の幸せはないんだからって本気で思っていました。もうするべき仕事はないのだから、いっそ出家してしまおうかと思った時期もありました。

小出:そうだったんですか。でも、結局在家というお立場にとどまられたのはどうしてだったのでしょう?

前野:それは、やっぱり、現代の世の中の様子がいままで以上にはっきりと見えてきたからですね。いくら心は無で、死も、生も、私も、ぜんぶまぼろしなんだと言っても、事実、この世を生きていく上で、悩んだり、苦しんだりしている人たちはたくさんいらっしゃるわけですよね。

小出:そうですよね。それこそ、死を過剰に恐れたり……。

前野:そう。世の中の大半の人たちは、素朴に、死や、その他さまざまな事柄を恐れているわけですよ。そういう事情がリアルに見えてくると、ああ、やっぱり、僕にはまだまだここでやるべきことがあるな、と。「心は無だよ」「死ぬのは怖いことじゃないよ」と結論だけを伝えるのではなくて、じゃあどうやったらそこに近づいていけるのか、その方法論のようなものを、自分の得意な研究とか学術的な方法によって、お伝えしていく必要があるなと思ったんです。

小出:なるほど。その「方法論」というのが、先生が現在ご研究の主軸におかれている「幸福学」になるわけですね。

前野:そうですね。幸福学はそのひとつです。システムデザイン・マネジメント学のように、他のやりかたもやっていますけどね。

小出:先生の歩まれた道筋が、ざっくりとではありますが、理解できた気がします。

「受動意識仮説」は智慧、「幸福学」は慈悲

小出:ところで、いまのお話をお伺いしていて、仏伝の中にある「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」というエピソードを思い出しました。お釈迦さまも、菩提樹の下でさとりをひらかれたあと、しばらくの間は、ご自身おひとりの安寧の境地にいらっしゃったらしいんです。でも、そこに梵天さまが現れて「どうか、あなたがさとられたことを、いまだ苦しみの中にいる人々にお伝えください」とお願いをされた。お釈迦さまは、最初はそれに抵抗されたらしいのですが、最終的には納得されて、樹下から立ち上がったんですね。そこから仏教がスタートしたと言われています。前野先生の前には、梵天さまこそあらわれなかったとしても、これと同じことが起きたんじゃないかな、って。

前野:うん。そういう言い方をすれば、そういうことになるのかもしれない。「受動意識仮説」と「幸福学」って、西洋的に言うと、哲学と倫理学にあたるんですよ。

小出:「受動意識仮説」が哲学、「幸福学」が倫理学、ということでしょうか。

前野:そうです。「受動意識仮説」は哲学に対応しているんです。心とはそもそもどういうものなのか、それを解き明かしていく学問。心の哲学という分野です。一方「幸福学」は、「べき」の学問といわれる倫理学に対応します。いかに幸せに生きるべきか、それを研究していく学問ですね。

小出:このふたつはセットになっているのですね。

前野:そう。いまの話にもありましたけど、お釈迦さまも、さとりをひらく前に、まずは菩提樹の下に坐って、心を鎮めるということをしたわけでしょう。その鎮まった心で、徹底的に考えて考えて考え抜いて、最終的に「無」の境地を見出した。それと同じで、まずは人間、心を整えて幸せを実感することから始めないと、なかなか、まあ、さとりの境地というか、ほんとうの意味での、ゆるぎない幸せの方には目が向いていかないんじゃないかということに気づいたんです。それで、「受動意識仮説」だけじゃなくて、「幸福学」の研究も始めた、というのが経緯です。

小出:哲学としての「受動意識仮説」、そして倫理学としての「幸福学」。どちらが欠けてもうまく回っていかない。それこそ両輪のようなものだということですね。

前野:はい。そういうことです。

小出:仏教のことばで言えば、「受動意識仮説」は智慧、「幸福学」は慈悲にあたるのかもしれないな、と思いました。「無」をさとると(智慧)、自他の苦しみのメカニズムがよりリアルに見えてくる。すると、その苦しみを抜き去るために、具体的な行動を取り始めて(慈悲)、その行動の中で、いままで以上にこの世の仕組みのようなものも見えてきて(智慧)、するとさらに自他の抜苦与楽のために具体的な行動が取れるようになって(慈悲)……。その無限の繰り返しの中に、いのちというものがリアリティをもって立ちあらわれていく。やはり、このふたつは、どちらが欠けてもいけないんですね。

いのちへ続く道はひとつではない

前野:仏教というのは、哲学と倫理学を総合した学問のようなものなんだなというのは、僕も、最近、リアルに実感していたところですね。

小出:学問……。そう、仏教は学問であるとも言えますね。そういう意味でも、仏教は、厳密な意味では「宗教」ではない、と言われたりもしていて。仏教というのは、教えを盲目的に「信じて」「すがる」のではなくて、実際に自分の心と身体で「感じて」「納得して」「実践していく」道ですからね。

前野:もちろん、現代の仏教には宗教的な側面もあります。と言いますか、その側面が強いかも知れませんが、もともと、仏教は、思想ないしは学問だったのだと思います。

小出:そうですか。ところで、いま、私、「道」ということばを使いましたけれど、前野先生が科学的なご研究の結果として指し示されている地点と、仏教が最終的に指し示している地点……それをここではいのちという三文字であらわしているわけですけれど、それがぴったり重なっていくのがすごく面白いというか、そこに希望があるような気がしているんです。

前野:なるほど。

小出:最終的な地点はひとつだけれど、そこへの気づきに至るまでの道は無数にあって、それこそ縁に従って、自分に合った道を愚直に歩んで行けば、きっと、開けていくものがあるんだろうなって。これは、人類にとって、ものすごく大きな希望になるのではないでしょうか。このTempleというサイトも、実は仏教に特化したものではなくて、それこそ、いのちに続く無数の道を紹介するプロジェクトのうちのひとつ、という位置づけなんですよね。だからお坊さんだけじゃなくて、ときには発酵生活研究家の方、ときにはスポーツトレーナーの方にもお話を伺ったりして……。これから先も、どんどん、いろんな分野でご活躍されている方々といのちの対話を行って、それを記事にまとめて発表していこうと思っています。

前野:素晴らしいですね。応援しています。

小出:ありがとうございます。ほんとうに、できるだけ多くの人が、自分に合った道を見つけられたらいいな、と思っていて。繰り返しになりますけれど、道はひとつじゃなくて無数にあるわけですからね。だから、たとえば「宗教は非科学的で信用ならない!」と思う方には、「科学の方面からいのちの実相を説いてくださっている前野隆司先生という方がいらっしゃいますよ」とご紹介できますし。とくに現代人は、数値化できないものを信じない傾向が強いですからね。そういう意味でも、数値的なエビデンスをきちんと表示された上で緻密に論を紡ぎ出される前野先生のような存在は、ほんとうに貴重で、ありがたいな、と思っています。

前野:ありがとうございます。

「無意識領域の小びとたち」に任せていたらベストセラー本ができた

小出:前野先生という存在のユニークなところは、あくまでも科学の見地に立脚されて、ものすごく論理的な説明をされるのに、決してドライな印象を受けないところなんですよね。感性に非常に強く訴えかけてくるものがあるというか。たとえば先生が「受動意識仮説」の説明でよく使われるこの絵なんかも、ものすごくアーティスティックですし……。

前野:ああ、これですか。

小出:これって、そのまま曼荼羅ですよね。

前野:ああ、やっぱりそう思いますか。実はね、この本を出してすぐの頃、海猫沢メロンさんという作家の方が僕に会いにいらして、かなり興奮した様子で「先生、これは曼荼羅ですよ!」っておっしゃったんですよ。

小出:ええ。間違いなく、曼荼羅だと思います。

前野:そうなんですか。僕としては、当時はそこまで仏教のことを意識していなかったし、曼荼羅だと思って描いたわけじゃありませんでした。だから、海猫沢さんにそう言われても「はあ、そうですか」としか言えませんでした。具体的には、どのあたりが曼荼羅なんですか? だって曼荼羅って、あの、仏さまがいっぱい描いてあるやつでしょ? 似ていないじゃないですか。

小出:絵そのものが曼荼羅に似ている、というわけじゃなくて、ここで表現されている世界観が、曼荼羅の世界観と重なると思うんです。

前野:世界観が、ですか。

小出:「色即是空」「空即是色」式に言えば、「自分即宇宙」「宇宙即自分」みたいな……。まあ、仏教にも「自他一如」ということばがありますけれど、そういう世界観ですよね。「自分」と「宇宙」、あるいは「世界」がひとつらなりのものとして存在している。それが、この絵にはばっちり表現されているなあって。そこが曼荼羅と共通していると思うんです。

前野:ああ、そういう意味ですか。12年間の謎が解決しました。つながりの世界観が共通しているんだ。なるほど。いまの話でやっとこの絵が曼荼羅だと言われた意味がわかりました。すっきりしました(笑)。

小出:お役に立ててうれしいです(笑)。この絵は、先生ご自身がお描きになられたんですか?

前野:はい、元絵は僕が描きました。

小出:すごいなあ……。ほんとうに多才でいらっしゃいますね。

前野:「受動意識仮説」を発表した頃は、いろいろやっていましたね。でも、いま思い出すと、『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』という本を書いたときは、僕、完全にフローに入っていたな、と思います。いま読み返してみても、うーん、我ながらうまいこと書いてあるなあって感心してしまいますもんね(笑)。別にスピリチュアルを信じるわけじゃないんですけれど、やっぱり、どこかとつながって、そこから降りてきたものを、そのまま流れるように書いた感じはありますよ。

小出:へええ! それこそ、「受動意識仮説」で言う「無意識領域の小びとたち」のはたらきに任せているうちに、いつの間にか書き上がってしまったという感じですか?

前野:うん、そうですね。いつの間にかね。

小出:「意識ではなく、無意識の領域が私たちを動かしている」というご自身の論を、ご自身で実証されたんですね。


「幸福の4つの因子」は、すべて、ほんとうのいのちをベースにしている

小出:少し話はさかのぼりますけれど、先ほど、「受動意識仮説」によって導き出される「心は無」「生は幻想」「私も幻想」という、言わば「ゆらぐことのない、ほんとうの幸せ」に目を向けるためには、まずは「幸福学」によって心を整え、鎮めることから始めないといけない、といったお話がありました。それはひとつの論理的な説明としてきっちりと成り立つとは思うのですけれど、それ以前に、先生の提唱される実践的な「幸福学」自体が、「心は無」「生は幻想」「私も幻想」という気づきをベースにして作られているのではないかな、と私は考えているのですが。

前野:まあ、そうですよね。「心は無」「生は幻想」「私も幻想」という気づきというか、まあ、仏教で言う智慧を得た上で、じゃあ、いかにしてそちらに行くか、というところから始まっていますからね。

小出:ということは、やはり、究極的な幸せというのは、「生も死も超えたところにあるいのち」に気づいて、そこをダイレクトに生きていく、ということになりますよね。

前野:そういうことですね。

小出:「生も死も超えたところにあるいのち」への気づきがあれば、先生が提唱される幸福の4つの因子も、すべてすんなり理解できるなあ、と思うんです。

【幸福の4つの因子】

第一因子:「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)
→「自分の強みを活かせているか?」「自分が成長している実感はあるか?」などの要素。

第ニ因子:「ありがとう!」因子(つながりと感謝の因子)
→「人を喜ばせているか?」「感謝することはたくさんあるか?」などの要素。

第三因子:「なんとかなる!」因子(前向きと楽観の因子)
→「ものごとが思い通りにいくと思っているか?」「失敗や不安をあまり引きずらないか?」などの要素。

第四因子:「あなたらしく!」因子(独立とマイペースの因子)
→「自分と他人を比べずに生きているか?」「人目を気にせずものごとを楽しめるか?」などの要素。

小出:「生も死も超えたところにあるいのち」を「私」の本性だと見抜いてしまえば、恐怖感は消えていって、まずはなんでも「やってみよう!」という気持ちが湧いてくる。そして、それは、もう、そのままつながりの中にあるいのちなので、ごくごく自然に、すべてに対して「ありがとう!」と感謝の気持ちが向けられる。すべては大きなつながり、つまりはご縁の網目の中で起こってくることがわかれば、どんなことだって「なんとかなる!」と思える。そういった活動の中で唯一無二の自分という存在のかけがえのなさに気づいて、おのずと「あなた(自分)らしく!」生きられるようになる……。ほんとうに、ぜんぶ、つながっているんだなあ、って。

前野:その通りです。

「縁起」を認めたときに、ほんとうの意味で「自由」になれる

小出:でも、現代を生きる我々は、どうも、こういった「ほんとうの幸せ」とは真逆の方向に突っ走ってしまいがちで……。それは、やはり、「ほんとうのいのち」への意識が希薄になっているためだと思うんです。

前野:はい、そうだと思います。

小出:いのちと言っても、どうしても、この「私のいのち」、つまり「個人のいのち」の話に終始してしまいがちで。その「個人のいのち」を成り立たせている、大きな大きなつながりとしてのいのちに目を向ける機会が失われている。それゆえに、すべてがブツブツに分断されているかのように見えてしまって、孤独感ばかりを深めてしまって、その孤独感を埋めるために余計なことをたくさんして、結果、さらに傷を深くしているっていう……。

前野:確かに。そうですよね。

小出:とは言え、分断の世界の中で生きている人に、いきなり「ほんとうは、すべて、大きな大きなつながりの中にあるんですよ」みたいなことを言ったところで、なかなか信じてもらえないのは当然のことで。それこそ天動説を信じている人たちに地動説の正当性を説いたところで、受けいれられるまでに大変な時間がかかったように……。でも、先生もご著書にお書きになられていましたけれど、大縄跳びみたいに、一度「つながり」という輪の中に「えいっ!」って勇気をもって飛びこんでしまえば、あとはもう、どんどん楽しく、幸せになる一方だとは思うのですが。

前野:飛びこむまでがね。やっぱり、人間、いままで自分が生きてきた常識とは違うことを言われると、反射的に抵抗してしまいますから。

小出:『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』をお出しになられたときも、ほんとうにさまざまな反響があったようですね。2010年に発刊されたこの本の文庫版のあとがきにも、こんな風な記述があって。

おかげさまで、これまで拙著をお読みいただいたたくさんの方々から、さまざまなご意見をいただいた。(中略)せっかくの機会なので、読者の方々への道標として、ご意見の分布を記しておきたい。これまでのご意見のうち、多かったのは、以下のようなものだ。

(1)クオリアの謎への立場に対するご意見。
(2)本書の主張は、釈迦、老荘、ソクラテス、スピノザ、ヒューム、ニーチェ、ミンスキー、下條……と同じではないか、というご意見。
(3)参照した実験結果はいずれも信憑性に疑問の余地があるのではないか、というご意見。
(4)本書の主張には合意するけれども、「私」は幻想なんて、空しくて切ない、というご意見。
(5)本書の主張に合意するし、「私」は幻想なんだから、肩肘張っていなくてもいいとわかって心が軽くなった、というご意見。

小出:この、(4)と(5)の対比は興味深いですよね。両者の違いは、どういうところから出てくるのだと思われますか?

前野:それは、やっぱり、西洋的な考え方をする人と、東洋的な考え方をする人の違いかなと思っています。

小出:分断的なものの見方と、統合的なものの見方という方向性の違いは、確かにありそうですよね。これも、やっぱり、どれだけ「私」を手放せるか、という話になってくるのかな、と思います。「この私」という意識すら、広大なご縁の網目の中で仮に生まれているものであって、「私が意識を使ってなにかを為した」ということすら幻想なんだ、と。そのことを少しずつですが受けいれられるようになってから、私自身、生きることがどんどん楽になっていったという実感があるんです。いまでもそのプロセスの中にいます。でも、「私は幻想」なんてことを誰かに言うと、みなさん、「人間には自由意志がないと言いたいのか」「自由意志がないなんて恐ろしすぎる」みたいなことをおっしゃって……。

前野:そうですよね。

小出:でも、すべては広大なご縁の中で起こってきているんだ、ということを認め切ってしまえば、むしろ、「私」の範囲がぐぐっと広がって、それこそ世界大、宇宙大に広がっていって、巨大ないのちをそのまま直に生きていけるわけで。それこそ、究極の「自由」なんじゃないかな、って。

前野:うん。「自由さ」が開けていくんですよ。

小出:そう! そのことを受けいれてしまえば、逆説的ですけれど、ほんとうの意味で「自由」になれるんじゃないかな、って。でも、「自由意志」って、いかんせん頭に「自由」ということばがついていますからね。それゆえ、「縁起を認めること」イコール「自由を失うこと」だと思ってしまうんでしょうね。その気持ちは、すごくよくわかるな、と。


流行りのマインドフルネスは「智慧なき慈悲」?

前野:やっぱり、自分が「ある」と信じているものを「ない」と言われても、受けいれるのは難しいですからね。とくに、キリスト教以降の西洋文明の中で生きている人にとって、「我はない」という考え方はなかなか受け入れがたいと思います。まあ、西洋の中でも、ポストモダン哲学が至ったように、ニヒリズムまでいくと、確かに「私はない」「すべてには意味がない」みたいなことは言い出して、割と「無我」の思想には近づきますけれどね。

小出:でも、ニヒリズムと仏教って、やっぱり、最後のラインで絶対的に違うんですよね。ニヒリズムでは、「個人」という枠が、薄皮一枚ではあるけれど、絶対的に残ってしまっている。「いい線いったのに、惜しかったな」とは思うんですけれどね。……って、ニーチェ相手にナニサマだ? って話ですね。ごめんなさい(笑)。

前野:近代西洋流って、だいたい、ある程度まではいい線いくんですよね。でも、東洋にある最も重要な部分が抜け落ちた結果、「いい線」止まりになるというか。いまの欧米マインドフルネスブームもそうですけれど。「智慧なき慈悲」にならないように気をつけるべきだと思います。

小出:「智慧」がない、というのは、「無我」という視点を欠く、ということですね。

前野:そうそう。だからマインドフルネスだって、ちゃんと智慧をベースにしてやっていけば、「生きるとはなにか」という本質的な学びにつながるんですよ。でも、どうも、いまの流れを見ていると、「より仕事のできる人間になるには」「よりお金を稼ぐには」みたいなところで止まっている面がある。藤田一照さんは、そういうタイプのマインドフルネスを「世俗的マインドフルネス」と呼んでいらっしゃいますよね。

小出:そう、「宗教的マインドフルネス」と区別されて、そういう風に呼んでいらっしゃいますね。確かに、一般的なマインドフルネスって、「この私」「個人としての私」をいかに喜ばせるか、みたいなところでもてはやされているのかな、という印象があります。でも、本来的なマインドフルネスは、それこそ藤田一照さんの表現を借りれば、「私の自由」ではなく、「私からの自由」をもたらしてくれるはずのものなので。究極的な「自由」は、やっぱり、そちらの方にあるんですよね。

前野:そうなんですよ。だから、そこを無視してしまっている最近のマインドフルネスブームに対して、僕は「けしからん!」と思っていました(笑)。マインドフルネスに限らず、東洋のものが西洋に行くと、だいたい似て非なるものになってしまうのは、残念なことだと思っていたんですよ。

小出:「思っていた」ということは、お考えが変わってきたということでしょうか?

前野:そうなんです。最近ね、ライフネット生命の出口治明会長とお会いして、こんなお話をお聞きしたんです。柔道というのは、もともとは日本が誇るべき伝統的な武道の代表格だったわけですよね。でも、世界に広まっていくうちに、単なる力任せの格闘技に成り下がってしまったような面もある。ただし、それも一概に悪いことだとは言えなくて、たとえばロシアで柔道に触れた女の子が、「いつかは日本に行ってみたい。日本には本物の柔道があるはずだから」みたいなことを、希望に満ちた表情で言うそうなんですよ。

小出:ああ……。そうなってくると、こちらとしても「本物」を用意して待っていなきゃいけないな、っていう気分になりますね。

前野:そう。つまり、ちょっと本質からずれたようなものが広まったとしても、それによって、より、「本物に触れたい」と願う人も増えていくんです。そう考えると、多様化は、良い面だとも捉えられるわけです。マインドフルネスブーム、素晴らしいですよ(笑)。

小出:確かに、そこは完全に表裏一体ですよね。本質的でないものがもてはやされる一方で、どうしようもなく、「こんなもんじゃないだろう」「これで終わりのはずがないだろう」という風に思う人は、一定数、出てくるわけですから。作られたものというのは、あくまでも「作られたもの」でしかないので。ひずみのようなものが、見えてしまう人には見えてしまうんですよね。それを放っておかなかったような人たちが、「無我」という名の本質的な自由に向かうきっかけにはなるのかもしれない。もしかしたら、すべてがうまく整っているのかもしれませんね。

前野:そうですね。世の中はよくできていますね。無駄に見えるものも無駄ではない。

小出:希望が持てるお話です。

「私でない」を積み重ねた先に「私はない」が導き出される

小出:ところで、私も今日の対話の中で、ほとんどなんの意図もなく「無我」ということばを使ってきましたけれど、仏教では、もともとは「無我」ということばは使われずに、「非我」ということばだけがあった、という説もあるそうですね。

前野:そのようですね。「無我」というのは「私はない」。「非我」というのは「私でない」ということですね。

小出:はい。それで、その説の正当性については、専門家の方のご判断にお任せしたいのですが、ただ、その「非我」の「私でない」という言い方に関しては、なるほどな、と思っているんですよ。と言うのは、「私でない」の方が、割と、個人の存在を疑っていない人間にとっては納得しやすいので。「私はない」というのは、つまり「私の死」をあらわすことばなので、どうしても個人として生きている私には受けいれ難いところがある。でも、たとえば「この髪の毛は私ではない」「この爪は私ではない」「この名前は私ではない」「この職業は私ではない」、あるいは「この思考は私ではない」「この感情は私ではない」という風に、ひとつひとつ納得していけば、論理的に無理なく、最終的な「私はない」というポイントに到達することも可能なんじゃないかな、って。

前野:なるほど、そうですね。無我は科学では解明できないですけれど、非我は科学でも論じられますからね。事実、リベットの自由意志の実験をはじめ、多くの科学的な実験から、非我は説明できることが明らかになりつつあるんですよ。

小出:あ、そうか。前野先生の「受動意識仮説」も、まさにそこから組み立てられていますものね。

前野:そう。脳科学で、実際に、無意識下での発火が観測されるわけですから。そういったことの積み重ねで非我が説明できるようになったら、そのまま無我ということに関しても納得せざるを得なくなっていきます。無我も、非我も、同じものを別の側面から見たところからの呼び方の違いに過ぎないわけですから。

小出:なるほど……。

前野:無我を知ることがすなわち「さとり」なのだとすれば、科学をちゃんと学べば、みんな、さとらざるを得ないんですよ(笑)。

小出:さとらざるを得ない!(笑) いいですねえ。

前野:それが現代的なさとりですよね。さとれないかさとれるかの違いは、事実に抵抗するかしないか、それだけになっていくのだと思います。

これからは様々な分野が互いに認め合い、協力し合う時代

小出:科学の見地からさとりを得られたいま、前野先生ご自身の人生の展望のようなものは、なにか、具体的にございますか?

前野:そうですねえ……。最初に『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』という本を書いたら、死ぬのが怖くなっちゃった、みたいなお話をしましたよね。僕の中で、「死ぬのが怖い」という気持ちが、完全に消えたわけじゃないんです。でも、いまみたいに、「自分ってほんとうはないんだよ」と考えると、「ああ、ほんとうに、生きているだけでもうけものだなあ」「幸せだなあ」って、心の底から思えるんですよ。そうすると、「死ぬことは、やっぱり、ぜんぜん怖くないな」って、そっちの方に、すっと行けるんです。

小出:それは、ほんの一瞬で?

前野:一瞬ですね。世俗の人間と、さとりとを、一瞬のうちに行き来する感じです。だから、やっぱり、哲学と倫理学をもっとちゃんと統合して、智慧と慈悲の両輪をこれまで以上にうまく回して、それこそ大きなつながりとしてのいのちの話を、縁ある人たちに伝えていきたいな、と思っています。「ほんとうは生きているだけで幸せなんだよ」っていうことは、まだまだぜんぜんうまく伝えられていないので。そこは、しっかりやり切りたいですね。

小出:ありがたいです。どうか、よろしくお願いいたします。

前野:あと、実はね、僕、あたらしい宗教をつくろうかと、ちょっとだけ思ったこともあったんですよ(笑)。

小出:ええ?(笑)

前野:科学に立脚した、まったくあたらしい宗教を作りたいなって。さっきもお話ししましたけれど、たとえばさとりだって、科学的に説明ができるわけですよね。やっぱり、宗教っていうと「あやしいもの」という風に思われがちだけれど、科学の方面から説明すれば受けいれてもらいやすいでしょう。そういう風にして、伝統の中で形骸化してしまったものも、科学の力で刷新できるんじゃないかって。その先にほんとうの平和が広がっていくのなら、やるしかないじゃないかって……。でも、松本紹圭さんにその構想をお話ししたら大反対されました(笑)。

小出:そうでしたか(笑)。

前野:いまの宗教に力がなくなっているのは確かだけれど、それをなんとかしようと、いまお坊さんたちも必死で頑張っているところだから、応援していただけるとありがたいです、と。それよりも前野先生には、現代人にとって最も説得力のある科学の立場から、世界の仕組みやさとりの本質を解明していただきたいです、と言われまして。

小出:なるほど……。これは私個人の考えですけれど、これからは、なにかひとつの突出した分野が世界を引っ張っていくのではなくて、いろんな分野が、お互いにインスピレーションを与え合い、認め合い、リスペクトし合い、力を出し合って、よりよい「いま」を作っていく時代だと思うんです。だから、まずはその一歩として、科学者は科学者として、宗教者は宗教者として、料理家は料理家として、スポーツ選手はスポーツ選手として、それぞれにそれぞれの道を歩んで、その先に見えてきた風景を、広く一般にシェアしていただければ、すごくありがたいなと思っています。私も、Templeというプロジェクトを通して、前野先生をはじめとする素晴らしい方々のご活動を広く紹介して、それぞれのご縁をつなぐことで、微力ながら応援させていただきますので。そこから「枠」を超えた活動、そして気づきも、おのずと生まれてくると信じています。

前野:うん、そうですね。僕も、東大病院の稲葉俊郎さんと、SMD研究所の針谷和昌さんと3人で、この2月から、「道の学校(仮)」という学びの場をスタートさせる予定なんですよ。合気道の先生とか、西洋型のスポーツ選手とか、さまざまな「道」のエキスパートをお呼びして、理論と実践についての学びを深めていくことで、心と身体の統合的なあり方を探っていこう、と。

小出:素敵です! わくわくしますね。

前野:小出さんの活動とも、なにかのかたちでコラボできそうですね。

小出:うれしいです。よき機会がございましたら、ぜひ、お願いいたします。

前野:……ということで、まあ、当面は、ご縁に従い、なりゆきに任せながら、やれることをやっていこう、と思っています。そこからなにか大きな面白いことにどんどんつながっていけばいいな、と。

小出:前野先生のご活躍がますますたのしみになってきました。是非、これから先も、先生独自の視点と、その溢れるバイタリティーで、私たちにいのちの実相を鮮やかに切り取って見せてくださいませ! 今日はほんとうに楽しかったです。ありがとうございました。

前野:こちらこそ、ありがとうございました。

前野隆司(まえの・たかし)

慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。
東京工業大学卒、同大学院修士課程修了。キヤノン株式会社勤務、カリフォルニア大学バークレー校客員研究員、ハーバード大学客員教授、慶應義塾大学理工学部教授などを経て現職。博士(工学)。ヒューマンインタフェースのデザインから、ロボットのデザイン、教育のデザイン、地域社会のデザイン、ビジネスのデザイン、価値のデザイン、幸福な人生のデザイン、平和な世界のデザインまで、さまざまなシステムデザイン・マネジメント研究を行っている。

著書に『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房=刊)、『死ぬのが怖いとはどういうことか』(講談社=刊)、『幸せのメカニズム-実践・幸福学入門』(講談社=刊)など多数。近著に『人生が変わる! 無意識の整え方 – 身体も心も運命もなぜかうまく動きだす30の習慣 -』『無意識と「対話」する方法 – あなたと世界の難問を解決に導く「ダイアローグ」のすごい力 -』(共にワニプラス=刊)などがある。

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