「傷つく権利」をど真ん中に置く生き方。誰も傷つかない世界の「ヤバさ」について。

こんにちは、小出遥子です。

世間はゴールデンウィークの真っ只中ですが、自営業の私はいつも通りお仕事をしています。
皆さんはどのようにお過ごしでしょうか。

今回は、4月30日にYouTubeライブでお話しした「人には、傷つく権利がある」というテーマについて、
ライブ中にはお伝えしきれなかったニュアンスも含めて、改めて記事にまとめてみたいと思います。

『正欲』が突きつけてきた、強烈な問い

このテーマについて深く考えさせられたきっかけは、朝井リョウさんの小説『正欲』を読んだことでした。
映画化もされた作品ですが、私はページをめくる手が止まらず、ほぼ一日で一気読みしてしまいました。
そして、ものすごい衝撃と、揺さぶりを受けました。

この小説は、一般的な多様性の枠組みからは漏れてしまうような、
究極のマイノリティとされる性的指向を持つ人々の、どうしようもない孤独と、
その果てに生まれた「繋がり」を描いた作品です。

ここで少し私の個人的な話をします。
私自身、「男でも女でもない(ノンバイナリー)」という性自認を生きています。
女性の体で生きていることに違和感はなく、これまで恋愛相手としてお付き合いしてきたのも全員男性ですが、
「男ですか? 女ですか?」と問われると、「どちらも違います」と答えざるを得ない感覚を持っています。

だからこそ、
社会のルールや前提が「大多数のマジョリティの感覚」に合わせて作られていることで生じる、
日々の細かな摩擦や痛みについては、少なからず身に覚えがあります。

特に、自分自身の性のあり方や性欲のことって、
誰かとつまびらかに語ることがなかなかできないからこそ、
「自分は普通じゃないのでは」という恐怖や不安や後ろめたさを抱きやすく、
人がとても深く傷つきやすい領域なんですよね。

この世界に提示された「二つの進路」

『正欲』の中に、今の社会が直面している「二つの進路」についての示唆的な記述がありました。

一つは、誰かが嫌な気持ちを抱く可能性を極力摘んでいくために、
可能な限りすべての「種」を見つけ出し、そのいちいちに規制をかけていく方向。

もう一つは、自分の視野が究極的に狭いことを各々が認め、
「はなから誰にもジャッジなんてできない世界」をどう生きていくかを探る方向。

今の世の中は、明らかに前者の「規制を強める方向」に進んでいるように感じます。
たとえば私が応援しているYouTubeチャンネルでも、性的な意図などまったくない(と判断されるような)
伝統的なタロットカードの絵柄(裸の人間が描かれた『星』や『恋人』など)でさえ、
規制の対象になることを恐れて隠しながら配信しなければならないような状況が起きています。

もちろん、人を傷つけないための配慮は必要です。
でも、「誰も傷つかない、誰をも傷つけない世界」をスローガンにして過剰な規制を進めていくと、
この世界はどんどん「のっぺらぼう」になり、息苦しく、生きづらくなってしまいます。
何を取り締まっても、また別の誰かが傷つく。
その誰かを守るために作ったルールに、また他の誰かが傷つく……。
そのイタチごっこにはキリがありません。

私たちは、ただすれ違うだけでも傷つく生き物

そもそも、私たちは、他者と交わる以上、傷つくこととは無縁でいられません。
「ただ道で人とすれ違うだけで、私たちの心は傷ついている」という話を聞いたことがありますが、本当にそうだと思います。

こちらにまったく悪意がなくても相手を傷つけてしまうことはあるし、その逆もまた然りです。
特に、真剣に自分を生きている者同士が交わる時にはなおさらです。
そこに摩擦や痛みが生まれるのは、ある意味で避けられないことなのです。

では、なぜ人はそこまでして傷つくようにできているのか。
それは、痛みがあるところは、
自分自身の「魂のテーマ(今生越えるべき課題、自分自身の真の望み)」とイコールだからです。
痛みは「ここに大切な宝があるよ!」と魂が教えてくれているサインです。
魂レベルで見れば、激しい痛みがあるところにこそ、尊い学びの機会(恩寵)があるんですね。

「傷つかなければ、気づけないことがある」

逆に言えば、

「激しく傷ついてまで、気づきたかったことが、そこにはあるんだ」

ということ。

痛みと望みは、常にセットです。
痛みのど真ん中に立ち続けることでしか、魂の本当の願いには気づけないようになっているのです。

被害者でも、加害者でもない世界へ

だからこそ、「人には傷つく権利がある」という事実を、自分のど真ん中に置いてみてほしいのです。
(もちろん、「傷つける権利」を振りかざしていいという話ではありません。)

自分にも、そして相手にも「傷つく権利」がある。
そう認めることができたとき、
私たちは自分を「被害者」のポジションに置いたり、相手を「加害者」のポジションに置いたりする、
単純な二項対立の世界からふわっと降りることができます。

「あの人のせいで傷ついた」と誰かを責めたり、「自分のせいで相手を傷つけてしまった」と自分を責めたり、
そういった慣れ親しんだパターンからは一歩距離を置いて、

「この痛みの奥には、私のどんな大切な望みがあるのだろう?」
と、自分自身とていねいに対話していく。

相手が傷ついたときも、過剰に恐れて心を閉ざすのではなく、
「お互いの痛みの奥にあるテーマに向き合っていこうね」と、
爽やかに健闘を祈り合えるような関係性を築いていく。

傷つくことを極端に恐れて行動範囲を狭めるのではなく、
自分自身の傷や痛みに「あるね」の光を当てて癒して手放し、人間としての器を大きくしていくこと。
そして、自分の人生の本当のテーマを引き受け、誇り高く、胸を張って生きていくこと。

もちろん、そんなふうに前を向けない時だってあります。
そんな自分すら受けいれて、それでも上記の方向性に自分自身を開き続けようとすること。

それこそが、最も本質的な「自衛」であり、健やかな生き方なのではないでしょうか。
いつか、大ベストセラー本の『嫌われる勇気』とセットで読んでもらえるような
『傷つく権利』という本を書きたいな、なんて密かに思っています。

なにか受け取っていただけたらうれしいです。

【お知らせ】「Curian Lab 49(通称・キュリラボ)」メンバー募集中

「傷つく権利」を真ん中に置き、誰かや何かと「戦わなくてはいけない」世界、
つまりは、被害者と加害者がいる世界からそっと降り、真の意味で自分の足で立ち、胸を開いていきていく。
キュリラボは、そんな生き方にシフトしていくための実験室です。

自分の内側にある傷や痛みを「あるね」の光でていねいに見つめ、
しみじみとした「滋味深いよろこび」をベースに、あたらしい世界を軽やかに選び直していく。
そんな自分への四十九日間のシフトの旅、ぜひご一緒しましょう。

5月9日スタート
Curian Lab 49:7週間の煩悩成仏プログラム
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https://koideyoko.thebase.in/items/141340271

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