
先週から今週にかけて、私のなかで「いのり」ということについて、
大きな「シン化」が起きていました。
進化であり、深化であり、
同時に、ほんとうの意味で、「神ともにある」という意味での神化のようなもの。
この2026年の5月は、きっと後から振り返ったときに、
「あのとき、あの瞬間から、いのりを直に生きることがいよいよ始まったんだな」と、
人生の大きな転換点として思い出す月になる。
すでにそんな予感があります。
私自身の記録として残しておくために、
この5月に受け取った大きな気づきを、ここでお話しさせてください。
◆高野山での護摩祈祷と「願い」と「いのり」のレイヤー
5月13日に、高野山へお参りさせていただきました。
1200年間、ずっといのりの場として機能し続けてきた土地が持つエネルギーは凄まじく、
そこにいるだけで細胞の一つひとつが大切なことを思い出していくような感覚がありました。
あるお寺で、真言宗の護摩祈祷(ごまきとう)を受けました。
木の札(護摩木)に願意を書き、それを炎にくべて成就させていく密教の法要です。
今回お参りしたお寺の護摩祈祷は、燃え盛る炎の中に、
自分たちで直接その札をくべさせていただくスタイルでした。
事前の解説で、お坊さんがこのようにお話しされていました。
「どうして自分の願いが書かれた札を火で燃やすのか。
それは、願いにはいろいろな『念』が付着しているからです。
それを火で燃やして、純粋なものにしていくのが護摩祈祷なのです」
このお話を聞いたとき、私の中でとても深く腑に落ちるものがありました。
願意を書いている段階では、それはまだ「願い」のレイヤーにあります。
そして、願いに付着している念とは、すなわち「本当に叶うのだろうか」という、
私たちの中にある疑いの心です。
それを炎の力で燃やし尽くし、清浄なものへと変えて、「いのり」へと昇華させていく。
私個人は、「願い」と「いのり」はまったく別のレイヤーにある営みだと感じています。
「願い」は、常に「未来」に自分の幸せを先送りする状態です。
「本当に叶うのかな」という疑いとつねに背中合わせにあります。
対して「いのり」のレイヤーにおいては、すでに疑いが消えています。
いのりをささげているその瞬間には、もうすでにそのことが成就している体感が、
いまここに生まれているのです。
未来に先送りするのではなく、いまここにある自分の神経系の状態が、
すでに完了している、すでに叶えられているという安らぎの中にある。
体まるごと、心まるごとで「祈願即成就」の世界にくつろいでしまう。
時間軸が存在しない世界。
それが「いのり」のレイヤーです。
護摩の炎は、願いにへばりついていた疑いの念を燃やし尽くし、
強制的に私たちを「すでに成就しているいのりの世界」へと連れて行ってくれるのです。
◆奥之院での「なにもしなくていい」というBeingの気づき
護摩祈祷のあと、そのまま奥之院へお参りしました。
鬱蒼とした杉林の中、苔むした供養塔やお墓がずらりと並ぶ山道を歩いていると、
体感温度がぐっと下がるような感覚に包まれます。
一番奥にある弘法大師空海さまの御廟(ごびょう)を前にして、手を合わせた瞬間、
いきなり空がゴロゴロと言い始め、土砂降りの雨がバーッと降ってきました。
私たちがおいのりをする10〜15分の間だけ激しく降り注ぎ、
その場を離れた瞬間にまたいきなり晴れて光が差し込む。
まるでお大師さまからの特別なおもてなしのような天体ショーでした。
雨によって結界が張られたようなその静寂の中で、
お大師さまと言葉にならない対話をさせていただいたとき、私の中からわき上がってきた体感。
それは、
「私は、ほんとうに、なにもしなくていいんだ」
ということでした。
個人の私としては、なにもしなくていい。
ただ私を生き、私といういのちを全うする、ただそれだけでいい。
その平和のなかに、ただ落ち着いてくつろいで生きていけばいいのだ、と、腑に落ちたのです。
いま、私は、飛鳥の土地で、土に近くて泥臭い、非常に地味で地道な生活を送っています。
畑に種をまき、日々のごはん作りで出た生ごみをコンポストで土に還し、
またそれを畑の肥料にしてお野菜をいただく。
この、生々しい、どこにも派手さのない循環の中にただ参加させていただくこと。
これ以上のいのりなんて、本当はどこにもない。
その暮らしをただただ続けていくことへの感謝が、じわじわと体に染み渡ってきました。
◆「生かせいのち」 BeingとDoingの両輪
お参りを終え、奥之院の山道を抜け、高野山の街中を通り抜けているとき、
こんな言葉が目に飛び込んできました。
「生かせいのち」
高野山真言宗のスローガン。
その能動的な言葉が、さきほど「なにもしなくていい」という
究極のBeingに落ち着いたばかりの私の中に、ドーンと力強く入ってきました。
私たちは、大いなるいのちに生かされている。
それは絶対的なベースとしてあるBeingの事実です。
けれど同時に、
「このいのちを能動的に生かしていきたい、世界のために使っていきたい」
というDoingの意思も、人間には同時に生まれてくるものです。
なにもしなくていい。
だけど同時に、なにかをしたい。
そして、実際、なにかをしていく。
BeingとDoingが矛盾なく同時に存在している感覚、これこそが「中道」のあり方であり、
いのりの本質なのだと感じました。
◆SOPP(世界平和交響曲)の場で感じたこと
高野山から下りた数日後の5月17日、今度は、
富士山のふもとで開催された「世界平和交響曲(SOPP)」といういのりの会に
ご縁あって参加させていただきました。
仏教、神道、イスラム教、ヒンズー教、キリスト教、ユダヤ教など、
世界のあらゆる宗教指導者の方々が富士聖地に集まり、
日本全国の会員さんとともに、それぞれのいのりを分かち合う場です。
式典の構成はとてもシンプルで、世界193カ国の国名をひとつずつ英語で読み上げながら、
それぞれの国に平和のいのりを送っていきます。
「May peace be in Japan.」
「May peace be in Israel.」
「May peace be in Ukraine.」
そのいのりの言葉を2時間半、みっちりと唱え、その波動に身を浸しているとき、
はっと気付かされたことがありました。
各国に向けて、平和をいのっている時、
私とその国々との間の境界線が、完全に消えてしまっていたのです。
たとえば、私はイスラエルであり、私はウクライナである、という感覚。
そして、その国々は「すでに平和である」という感覚につつまれて、
わけもわからず涙があふれて止まりませんでした。
いつか世界が平和になるといいな、という未来への「願い」ではなく、
いのっているその瞬間、私の心と体はすでに完全な平和の中にくつろいでいる。
外側の世界ではまだまだ激しい戦争が続いていたとしても、
私一人(いちにん)のなかに平和が実現されているのなら、世界は「すでに」平和である。
その圧倒的なベースがあるところに、同時に、
でも、「これから」のために、自分にできることはすべてやらせていただきます、
と体が勝手に動いて、大きな志のもとに、やるべきことを淡々とやっていく。
Beingという揺るぎない土台があって初めて、的を外さないDoingが立ち上がってくる。
この構造を、深く理解しました。
◆往相と還相の無限の円環
これは、浄土真宗の言葉でいう「往相回向(おうそうえこう)」と「還相回向(げんそうえこう)」このふたつのあり方の同時存在性にもつながります。
人が仏に向けて「阿弥陀さま、お助けください」と念仏を称える。
その瞬間に、自分の耳に聞こえているその声は、
すでに「すでにあなたは救いの中にある」という仏からの呼びかけの声なのです。
お助けくださいという願いと、すでに救われているといういのりの事実。
この世からあの世に向けた願いと、あの世からこの世へ送られるいのりと。
言葉のレベルでは矛盾しているように見えても、私たちの体感のなかでは、
何一つ矛盾なく、ひとつの事実の無限の円環として同時に存在しています。
◆「いのりとして生きる」私のいのちの、あたらしい始まり
起点にあるのは、いつもBeingであり、いのりです。
すでに満ち満ちている世界のなかに、体まるごと、心まるごとでただくつろぐこと。
その安らかな神経状態をベースに置いたうえで、
大きなビジョン(志)を持って、この世界のために、宇宙のために、
自分のいのちを能動的に生かしていく。
この5月、私の中で「いのり」という営みが、
37兆個の細胞の一つひとつにまで完全に行き渡ったような、
そんなフルリニューアルの感覚があります。
私といういのちを、いのりそのものとして、ただ、生き、生かしていく。
そんなあたらしい生き方が、すでに始まっています。
このうつくしく力強い転換点を、みなさまとともに歩んでいけることが、
いま、なによりもうれしく、幸せです。