
「正しさ」って、ほんとうに厄介だなあって思うんです。
自分の中に「これが正しい!」という思いが芽生えた瞬間、
対極に「正しくないもの」「間違っているもの」が生まれます。
「正しさ」は、また、執着を生みます。
執着が生まれた瞬間に過剰ポテンシャルが発生し、振り子が振れて、
私たちは、あっという間に、戦いの構造に飲み込まれてしまうのです。
私たち人類は、この「正しさ」の罠に、ずっとハマり続けてきました。
どうすればこの罠から抜け出すことができるのでしょうか。
最近私が実践している、とってもシンプルな方法をお伝えします。
◆これは単なる「性癖(へき)」である
自分の中に「絶対にこれが正しい!」という強い思いや、執着が湧き上がってきた時。
頭に血と気がわーっとのぼって、脳内に変な汁(ドーパミン)がドバドバ出てしまっている、
そんな感覚に気づいた時。
いったん「しらふ」の状態に戻って、
「あ、これが私の性癖(へき)なんだな」
と、クールに思ってみてください。
「この思想こそが世界を救う!」とか、
「みんなもこの正しさに合わせるべきだ!」とか、
正しさに固執しそうになっている自分に気づいたら、
「これ、私の個人的な趣味なんです……///」
「私、こういう性癖(へき)を持っているんです……///」
と、自分一人(いちにん)の物語の中に立ち返るのです。
例えば、私が日々実践し、みなさんにお伝えしている「あるねメソッド」や、
たのしく実践している「タフティ」や「トランサーフィン」についても同じです。
「この理論こそが世界を救う!」
「この思想が世界平和につながる!」
なんてことを声高に主張し始めたら、
その瞬間に、皮肉なことに平和とはほど遠い重苦しいエネルギーが生まれ、
あっという間に「新興宗教いっちょ上がり!」ってことになってしまいます。
そうではなくて。
「私は、あるねメソッドをベースにして世界を観るのが好きなんです。
そうやって生きることに、なんだかわからないけれど、
おなかの底から謎のよろこびを感じてしまう。
そういう性癖(へき)を持って生きているんです。」
こうやって「単なる個人の性癖(へき)です」と宣言してしまえば、
(別に言いふらす必要もないけど。ただ思うだけでいいですね)
いい感じに力が抜けますよね〜。
◆「そうなんですね」で終わる、平和な世界
「私、男の人の手に萌えるんですよね」
「僕、ちょっとSっ気があるんです」
誰かがそんなフェチ(性癖)を語った時、
私たちは「そうなんですね」と言うしかありません(笑)。
そこに「正しいか、間違っているか」というジャッジが入り込む余地はないからです。
同じように、自分の信念、大切にしているものも、
「これは私の個人的な性癖(へき)です」という枠に収めておけば、
他人に押し付けることもなく、「べき」「ねば」「はず」の罠に落ちることもなく、
「同じ性癖(へき)を持った人たちと、楽しく交流できたらいいよね」
「違う性癖(へき)を持った人とも、リスペクトし合いながら生きていけたら素敵だね」
という、軽やかで平和なスタンスを保つことができます。
私たちはどうしても「数の多さ」に安心を見出して、
「自分は多数派の、“正しい”側にいるんだ!」と徒党を組みたがります。
でも、それは、見せかけの安心にすぎません。
100パーセント自分の責任において、自分の椅子にどっしりと座る。
自分の「よろこび」の感覚に、100パーセントくつろぐ。
その態度が、いまここを生きる私たちには必要だと思うのです。
◆AI時代だからこそ、人間の「偏り」がアートになる
少し話が逸れるかもしれませんが、AI(人工知能)が発達した現代において、
人間が持っていてAIが持っていないものって、まさにこの「性癖(へき)」だと思うのです。
AIの出す答えは、過去の膨大なデータの「平均化」です。
そこに、「性癖(へき)」という名の「偏り」は生まれません。
AIが「普通」や「一般常識」を担ってくれるこれからの時代、
私たち人間はわざわざその平均の枠に自らを嵌め込みにいく必要はないのです。
そこからどうしてもはみ出てしまう自分自身の偏り、
存在の根幹からやってくる、打ち震えるようなよろこびを、
100パーセント自分の責任において、大切に扱っていく。
「性癖(へき)」という名の個人的な偏りを深めた先に、
自己表現という名のアートが自ずと生まれていく。
それが、あたらしい時代における人間のお役目なのだと思います。
◆「性のよろこび」と「法悦(ほうえつ)」は同じもの
そして、性的なよろこびも、教えや宇宙の真理に触れた時のよろこびも、
究極的には「同じもの」であると、私個人は感じています。
おなかのあたりからふわーっと無限の渦が広がっていくような、あの和合の体感。
仏教では、宇宙の真理(ダルマ)に触れた時の、
全身が打ち震えるようなよろこびを「法悦(ほうえつ)」と呼びますが、
ほんとうの意味で性のよろこびを味わっている時、
私たちは全世界とまぐわっているような感覚になります。
そこには「わたし」しかおらず、他者が介在する余地はありません。
ミクロがマクロであり、マクロがミクロである、
「唯一絶対」の世界において、ただ存在のよろこびだけがある。
そのよろこびは、ただただ純粋で、美しいものです。
だからこそ、そこに「正しさ」を持ち込んで、
誰かと徒党を組む必要なんてまったくないのです。
◆「ひとえに親鸞一人がためなりけり」という態度
浄土真宗の開祖である親鸞聖人が、このような言葉をのこされています。
「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」
阿弥陀様の気が遠くなるほどの長い長い時間の祈りは、よくよく考えてみたら、
すべて「私(親鸞)一人のためのものだったのだ」という、
圧倒的なよろこびと感謝の言葉です。
親鸞さんご自身は、このよろこびを誰かに押し付けたり、
「これこそが正しい教えだ」と徒党を組んだりはしませんでした。
「ひとえに親鸞一人がためなりけり」という、
このよろこびを、100パーセント自分自身で引き受ける態度こそが、
実は、本質的な「いのり」の姿なのだと思います。
◆「わたし」一人のいのりを生きていく、あたらしいステージへ
何かに対して「これが正しい!」「あれは間違っている!」と熱くなりそうになったら。
戦いの構造に飲み込まれそうになっている自分に気づいたら。
ふっと力を抜いて、
「これも私の性癖(へき)なんだな」
と、笑ってみてください。
実は私自身、昨日のライブ配信の中で、
「ネクストステージに行かせていただきます」と宣言をしたばかりです。
そのネクストステージとは、
まさにこの「小出遥子一人(いちにん)のいのり」を直に生きていく、
ということにほかなりません。
私の世界には、
もはや「救われるべき自分」や「救うべき他者」は存在しません。
私自身が、すでに、圧倒的な救いの光、いのりの光の中にくつろいでいる。
その感覚を、丁寧に大切に深めながら、
私一人のよろこびの世界をただ生きていく。
あたらしい扉が開いた感じ。
平和は、いつだって、「わたし」のあり方からはじまります。
ここから、足を一歩も外さずに。
いのりの世界を、生きていきます。
何か受け取っていただけるものがあれば嬉しいです。