
最近、「人には、傷つく権利がある」ということをよく考えています。
人間関係において、「自分が傷つくこと」も、
「自分の言動で誰かを傷つけてしまうこと」も、
どちらも本当に怖くて嫌なものだし、極力避けたいことではあります。
でも、こちらにまったく悪気や悪意がなく、
また、どんなに言葉や態度に気をつけていても、
相手がふとした瞬間に深く傷ついてしまうことはありますし、その逆もまた然りです。
なぜ人は傷つくのか
ここでひとつ、究極的なことをお伝えします。
人は、自分自身の「魂のテーマ(今生、越えるべき課題)」に触れたとき、
必ず傷つくようにできているのです。
心が激しく痛むということは、
「ここ、テストに出るよ!」と魂が教えてくれているサインであり、
魂レベルで見れば、すべてが尊い学びの機会(恩寵)なんですね。
「傷つかなければ、気づけないことがある」
逆に言えば、
「激しく傷ついてまで、気づきたかったことが、そこにはあるんだ」
ということ。
それでも、痛みは消えない
そして、
「気づいたからといって、その痛みが消えるわけではない」
というのも大切なポイント。
それでもなお、その痛みの中に立ち続けることでしか、
触れられない領域がある。
そこに突き進む勇気を持てた人だけにしか、見えないものがあるんです。
「傷つけていい」という話ではない
これって、「人には傷つく権利があるんだ! だから誰かを傷つけてもいいんだ!」
と開き直ることを促すような話では、もちろんありません。
「傷つける権利」を振りかざすことを肯定しているわけじゃなくて、
あくまで主体的に、能動的に、自らの「傷つく権利」を真ん中に置いて生きていくこと。
ここに私の伝えたいことの主眼があります。
被害者でも、加害者でもなくなるということ
そしてもうひとつ、大切にしたい感覚があります。
それは、
気づくと自分を「被害者」に置いてしまったり、
相手を「加害者」にしてしまう、その見方から降りていくこと。
同じように、
世間や社会に対しても、
被害と加害という単純な構図で捉えなくなっていくこと。
なぜなら、
「傷つく権利」を真ん中に置いて生きるということは、
起きている出来事の意味を、誰かのせいにするのではなく、
自分の人生として引き受けていくことでもあるからです。
痛みとともに生きる覚悟
相手への想像力や配慮は、当然持っておくべきですが、
それでも「誰も傷つかない、誰をも傷つけない世界」を理想として掲げ、
さまざまな事柄に対して過剰な規制や配慮を進め、それらを強要するようになってしまうと、
この世界はどんどん「のっぺらぼう」のようになり、本質的な自由が奪われてしまいます。
痛みは、決して「悪」ではありません。
大切なのは、
傷つくことを極端に恐れて行動範囲を狭めたり、
社会や周囲に対して規制や自制を強要したりすることではなく、
「なぜ、私は今、こんなに心を痛めているのだろう?」と、
自分自身の傷や痛みとていねいに対話し、
「あるね」の光で癒し、手放し、
人間としての器を大きくしていく方向性に自分を力強く進めていくこと。
それでも胸を張って生きていく
もちろん、そう簡単に癒せないものも、手放せないものもある。
それも含めて、そちらの方向性で生きていく覚悟を、毎瞬毎瞬固めていくこと。
そこから自分の人生の本当のテーマに気づき、受けいれ、深め、血肉化し、
誇り高く、胸を張って生きていくこと。
もちろん、そうできない自分も、これから先も現れ続けるでしょう。
それでもなお、胸を張ろうとし続けること。
それこそが、最も本質的な「自衛」なのかもしれない。
そして、その生き方こそが、
「傷つく権利」を直に生きるということなんだと思っています。
「傷つく権利」が、誰にも保証されているという事実を、
そして、その権利をど真ん中に置いて生きてもいいという希望を、
私自身、これからも、大切に伝えていきたいです。
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