自然からみればすべては自然。だけど……

小出:前回の講習会のときに、光岡先生が、「自然の側からみれば、すべては自然の産物ということになる。でも、人間の側から見れば、自然なものと不自然なものとの間の差は歴然としてある」といったようなお話をされていて、それがものすごく印象的だったんです。私自身、そこにずっと問題意識を持っていたというか、解決できないものを感じていたので……。

光岡:そうですね。たとえば、このプラスチックの椅子とか、蛍光灯とか、それこそ原発とかを、私たちは自然のものであるとは感じないわけですよね。木や、川や、山を自然のものだと感じるのと同じようには、それらを見られないわけでしょう?

小出:はい。

光岡:どうしても、人工的なものを不自然だと感じてしまう感性というのが人間にはあって。でも、それと同時に、大枠で考えれば、自然は、そういったものすらひっくるめて、すべてを自然なものと見ているわけです。人間の存在というか、人間の行いそのものも、自然から見れば、すべて自然である、と。でも、それは決して人間側の見解ではないですよね。人間側がそう感じるということは、たぶんないと思うんですよ。

小出:ほんとうにそう思います。すべて自然のものと「考える」ことはできるけれど、実際にそう「感じる」ことは難しいです。

光岡:実際に山道を歩いていてキノコのように土からスマホが生えていたらギョッとするわけだしね(笑)。

小出:ほんとうに。それを「自然」と見なすことは絶対にできない。実際にそう感じられないのに、「すべて自然の中で起きていることなんだから」と言って、やりたい放題やってしまうのは、やっぱり、違うんじゃないかな、と思うんです。

光岡:そうそう。ナチュラリストになってしまうのも問題ですよね。

矛盾を矛盾として矛盾のまま扱うのが武術

光岡:うちの親も、ちょっとナチュラリスト的なところがあったんですよね(笑)。私、子どもの頃、山の中で生活していたんですよ。それで、山の中で生活するためには、ブルドーザーを入れて道を作らないといけない。家の周りの木を切り倒さなきゃいけないんですね。でも、子どもの頃の私はそれに疑問を感じて。小学校三、四年生の頃だったかな? 「どうして自然が好きで自然の中に住むのに、自然を壊さないといけないの?」と父に聞いたんです。そうしたら「これをしないと家も建てられないし、暮らしていけないから、仕方ないんだよ」と返されて(笑)。

小出:それは……(笑)。

光岡:全然納得いかないでしょう(笑)。その矛盾は、私の中にずっと残りつづけましたね。

小出:矛盾は解消されましたか?

光岡:いや、これは消えないと思いますよ。私が四つ足歩行の動物に戻ったら「すべては自然」と言うこともできるかもしれないけれど、そこまで回帰しないと、実感をもって語ることはできないでしょう。それに四つ足に戻ると言語能力や概念を失っていくでしょうから、少なくとも今の人間の定義からは外れて行きます。

小出:人間である限り、ずっとその矛盾を抱えて生きていくしかない、ということですね。

光岡:そうですね。解決することはできないと思います。でも、解決できないからと言って、人間にはなにもできないかと言うと、決してそうではなくて、都度、自覚自省し、冷静に物事を見たり、状況判断をしたりして生きていくことはできるので。

小出:それが武術につながっていくのですね。

光岡:そうですね。武術を、「矛盾を矛盾として矛盾なく扱う技術」という風にお考えになる方もいらっしゃるんですけれど、私は、「矛盾を矛盾として矛盾のまま扱う」のが武術である、と。そう考える方がしっくりくるんですよ。

小出:矛盾を矛盾として矛盾のまま扱う……。

光岡:人間の行いって、そもそも矛盾だらけなんですけれど、武術なんかとくに矛盾していますよね。同種同士殺し合わない方がいいし、生命を脅かし合わない方が絶対にいいのに、どういうわけか仲間内で「争う」という手段に出るわけですから。そして、より殺傷性の高い技や術ができ、そこから武術は発生したわけで。そもそもの最初から武術がテーマとしているところは矛盾しているんですよ。

「矛盾が普通」という感性の大切さ

光岡:それに、さっきもお話ししましたけれど、人間は自分自身を省みることができるから、人を殺めたらいけないということを、直感で知っているんですよね。でも、人は「神がアイツを悪いやつだと言っている、だから俺はアイツを殺す」とか、そういう大義名分を神からもらったり、どこかから持ってきたりして、直感的にオカシイと感じても、そういった感性を観念や理屈で捻じ曲げて、実際の行動に移してしまうようなことがよくある。武術って、その感じたことと行動の狭間に立つことなんですよね。

小出:狭間ですか。

光岡:やっちゃってもダメだし、やられてもダメだし……みたいなね。やっちゃえるけどやっちゃダメというところに立たなきゃいけない。だから、すごく面倒なんですよ。武術家って(笑)。

小出:どこにも落ち着けないんですね……。

光岡:常に落ち着いていて、冷静に状況を把握する必要もあり、人間として抱えた矛盾とも常に付き合っていく必要もある。それが、武術家として、人間として生きて行くということなのかも知れません。

小出:そもそも矛盾を抱えた生き物として生まれてしまったという事実、光岡先生のお話は、いつだってそこからスタートしている。だからこそ、ものすごいリアリティーを感じるんですね。

光岡:そう、どう足掻いたって逃げようとしたって私たちが人間である以上は人間から逃げられないし、人間であることを避けて通れないでしょ。「人間は矛盾している」。じゃあ、その矛盾を抱えたままに、いかにして人間であることに開き直ることもなく、深刻になることもなく、清々しく、気持ち良く、ひとりひとりが生きていこうか、というところです。

小出:矛盾を解消してしまったらいけないのでしょうね。それをやると人間ではなくなってしまうから。

光岡:そう。矛盾を消しちゃったらダメ。だけど、その場その場では結論を出していかないといけない。でもね、そうやって生きていると、絶対的な答えのなさというのが、もう、ほんとうに、理屈じゃなくわかってくるんですよね。そうすると、この矛盾と、あの矛盾と、その矛盾が、それこそまったく矛盾し合っているのに、各自で独立して存在しているということにも目が行くようになって。

小出:ああ。矛盾し合いながらも、すでにそういう風にして存在できているよね、共存できているよね、と……。

光岡:そうなんですよ。大枠の自然の中では、すべては自然なものとして存在しているわけでね。自然界の多様性を見ると、矛盾を矛盾のまま矛盾としておくことが、絶対的に「あり」なんですよ。

小出:なるほど。でも、いま光岡先生がおっしゃったような道筋を辿らないと、その「あり」には辿り着けないですよね。

光岡:矛盾は矛盾のままでいいというか、矛盾をなくそうとした瞬間に、すべては狂いはじめてしまうことはわかるので。矛盾が普通なんだ、という感性を育てていくことは大切なことだと思いますね。

小出:……というところでお時間です。なんだかものすごく壮大で、示唆に富んだお話をお聞きしてしまった気がします。即座に理解することは難しい部分もたくさんありましたけれど、自分なりに、時間をかけて発酵させてみますね。ここからなにかが大きく育っていくような予感がします。光岡先生、今日はほんとうにありがとうございました。

光岡:ありがとうございました。

光岡英稔(みつおか・ひでとし)

1972年岡山県生まれ。日本韓氏意拳学会会長および国際武学研究会代表。多くの武術・武道を学び、11年間ハワイで武術指導を行う。著書に『武学探究』(甲野善紀氏との共著/冬弓舎)、『荒天の武学』(内田樹氏との共著/集英社)、『生存教室 ディストピアを生き抜くために』(内田樹氏との共著/集英社)、監修本に『増補新版 FLOW:韓氏意拳の哲学』(尹雄大著/昌文社)、『韓氏意拳〜拳の学としての意味』(スキージャーナル)がある。

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