私が今回お訪ねしたのは、禅僧の藤田一照さんです。このダイアローグシリーズも今回で12回目になるのですが、「いのちからはじまる話をしよう。」というタイトルに、ここまで大きく反応してくださったのは、一照さんがはじめてでした。実は「いのち“からはじまる”」というところに密かに大きな意味を込めていた私は、もう、のっけから大感激! スタートダッシュに乗ったような感じで、スムーズに対話を進めることができました。
いまここに、こうして「私」があることの不可思議さ、つまりはいのちのあり方の不可思議さに「触れられた」ところから、一照さんの仏道ははじまったと言います。以前、一照さんは「10歳のときにその問いを持って、でも、いまだに決着がついていないんですよ」と笑ってお話しになっていましたが、私は、そんな一照さんのあっけらかんとした明るさに、なにか救われた気持ちがしたのを覚えています。
「わからない」ものを「わかる」ものに変えてしまうのではなく、「わからない」ものを「わからない」ままに、そのままの大きさで扱っていく。そこにこそ、仏道の真髄があるのかもしれない……。そんな風に感じたのです。そんな道があること自体、大きな「救い」そのものじゃないか、と。
今回も、また、無理やり結論を出すようなことは一切せず、いのちの「わからなさ」をたのしんで分かち合うような、そんな素敵な対話となりました。ほんの少し難解なところもあるかもしれませんが、同じ「問い」を持つ方には、なにか届いてくれるのではないかと思っています。どうか、最後までじっくりとおたのしみくださいませ。
「いのちについての話をしよう。」ではなく……
小出:今日は「いのちからはじまる話をしよう。」ということでお邪魔しています。
藤田:「いのちからはじまる話」って、なかなか意味深ですね。これ、つまり「いのちについて」の話じゃない、っていうことでしょ?
小出:ああ、そうです! そこに全ポイントがあるんですよ!(笑) 対象としていのちを語るのではなくて、むしろ、それを語ろうとする「この私」をもひっくるめたところから、いろいろとお話ができたらうれしいな、と。
藤田:オブジェクト(客体)じゃなくて、サブジェクト(主体)の話だよ、っていうことでしょ? 問題意識は「あっち」じゃなくて「こっち」に向いているわけですね。
小出:そうそう。ここで言っている「いのち」は、そもそも対象になりようのないものなので……。
藤田:対象について語るときには、それについて語っている私が隠れてしまうわけですよ。でも、いのちって、いつだって自分抜きでは語れないというか、自分ごと巻きこまれているようなあり方をしているから、言葉でそれを扱おうとすることが、そもそも矛盾に満ちた行為なんですよね。
小出:だから「いのちからはじまる話をしよう。」というのが、その領域を侵さない、ギリギリのラインなのかな、と(笑)。
藤田:道元さんの『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』という本の中に「回光返照(えこうへんじょう)」という言葉が出てきますけれど、これもそういうことですよね。向こう側に光を当てるのではなくて、むしろこちら側に向けるのだ、と。その方向性で話をしていかないとね。
小出:はい! よろしくお願いします。
私たちは、地球ぐるみ、宇宙ぐるみのいのちを生きている
藤田:僕、さっき、いのちを考えるときは、自分ぐるみで考えなきゃいけない、って言ったけど、その自分というものをよく見ていくと、地球大、宇宙大にまで視野を広げていかなきゃならなくなると思うんですよ。地球ぐるみ、宇宙ぐるみのいのちっていうことですよ。
小出:地球ぐるみ、宇宙ぐるみのいのち……。いきなり話のスケールが大きくなりましたね(笑)。
藤田:でも、実際そうでしょう? 僕らのいのちは、生まれてから死ぬまで、地球という惑星の中にあるわけで。肺ひとつ取ってもそうですよ。僕らの肺って、地球の重力や大気の組成を前提とした形態、サイズ、はたらき方をしているわけですよね。
小出:確かに。この肺をそのまま月に持っていっても、まったく機能しないでしょうね。これはあくまで地球仕様の肺だから。
藤田:そう。肺だけじゃなくて、心臓も、皮膚も、髪の毛も、ぜんぶそうですよ。すべて、宇宙の中の地球という惑星の環境に合ったかたちで作られている。宇宙とこの肉体っていうのは、最初からセットになっているんですよ。うまくできているというよりは、最初からその中に組み込まれたかたちでいのちが作られている。
小出:なるほど……。肉体の話だといまのお話はすごく納得がいくんですけれど、でも、たとえば、人間って、ほんとうは考えなくてもいいようなこと、端的に言えば「不自然」なことも考えられるように作られているわけですよね? 「考える」という行為自体が不自然だ、という言い方をされる方もいらっしゃいますし。でも、それもまた、組み込まれて、そういう風にできている、と考えても良いのでしょうか?
藤田:そうですね。組み込まれていると考えた方がいいと思います。いのちってそれこそ無限のはたらきですからね。無限の外に出ることはできないのと同じように、不自然なことも、また、自然の中に組み込まれている、と。無限のはたらきの懐からはみ出るものはないと考えた方が、ほんとうに近いんじゃないですかね。
「部分」と「全体」のサイズは同じ!?
小出:あらためて考えると、「無限」っていうのも相当面白いコンセプトですよね。
藤田:そうだね。仏教をやっていく上で「無限」の実感を持つことはすごく大切なんですよ。
小出:「無限」って実感できるものなんですか?
藤田:できますよ。たとえばこういう話は知っていますか? 数直線ってありますよね。0があって、右にプラス、左にマイナスがある、あの直線。たとえば、0から1までの間を区切り取りますよね。これが「部分」になるわけね。さて、ここで問題です。この部分の中にある実数の数と、全体にある実数の数は、果たしてどちらが多いでしょうか?
小出:???
藤田:部分には端っこがあります。全体には端っこがありません。実数の数は、部分と全体、どっちが多いと思いますか?
小出:うーん……。(しばらく考えて)「同じ」ですかね……? なんだか不思議な感じがしますけれど、やっぱり、「同じ」としか言えないような……。
藤田:そう、「同じ」なんですよ。これ、面白くない? 部分と全体はサイズが同じなんですよ。
小出:部分と全体はサイズが同じ!?
藤田:無限のサイズとしては同じなんです。これ、部分の中に全体があるということの証明になると思いますよ。
小出:部分の中に全体が……。
藤田:そう。「一即一切(いっそくいっさい)」の世界観ですね。いまのをさっきの話とつなげれば、僕らの肺はそのまま宇宙に内包されているし、僕らの肺がそのまま宇宙を内包している、ということも言えると思います。
小出:気が遠くなるようなお話ですけれど……。
藤田:単純な話ですよ。無限の中に部分の集合があるわけですよね。部分っていうのは有限ですよね。区切れるわけですから。
小出:はい。
藤田:でも、その区切りの外側には、いつだってそれを含む無限の集合があるわけで。だから要素が無限にあるようなものですよね。
小出:たとえて言うなら、ひとつひとつの「波」の背後には、いつだって「海」という無限のはたらきがあるようなものですかね?
藤田:そうだね。海という無限のはたらきが、波という有限のかたちを作り出すわけだからね。だから、いのちってふたつの言いあらわし方ができるんですよ。ひとつは有限のいのち、つまり「かたちあるいのち」。もうひとつは無限のいのち、つまり「かたちなきいのち」。僕らが一時的に知覚できるものは「かたちあるいのち」ですよね。でも、波が海から生まれてくるように、ほんとうは「かたちあるいのち」は、すべて「かたちなきいのち」から生じているんですよ。
小出:「かたちあるいのち」は、「かたちなきいのち」から生まれる……。
「(いのちに)触れられた!」という実感
藤田:そのことに気づかされるような瞬間っていうのが人生にはあって、そこに感動が生まれるんですよね。英語に「I’m touched.」とか「I’m moved.」とかっていう表現がありますけれど、ぜんぶ受動形であらわされるんですよ。「触れられた」とか「動かされた」とか。
小出:へええ……! その、触れたり、動かしたりする主体が、まあ、言ってみれば「かたちなきいのち」であるわけですね?
藤田:そうだね。西洋的に言えば、その主体は一神教的な神さまということになるのかもしれないけれど、東洋的に言えば、いま見たもの、聴いたもの、感じたものを通して、なにか「かたちなきいのち」に触れられたような感覚があるっていう。
小出:たぶん、厳密に言うなら、そこでは「触れるもの」と「触れられるもの」の境目もなくなっているのでしょうね。
藤田:そうそう。「触れる」っていう行為もすごく面白いですよね。だって、「触れる」っていうのは、そのまま「触れられる」っていうことですからね。この机に僕が触れているときは、僕が机に触れられているっていうことも同時に起こっているわけですから。
小出:確かに……。興味深いです。
藤田:いのちって、目に見えるものとしてあらわれるときは、いつだってなんらかの具体的なかたちを持って出現するわけだけれど、実は、同時にかたちのないものでもあるっていうのが面白いところだよね。本来、かたちがないから、制限もないものなんですよ、いのちって。
小出:本来は。
藤田:うん。でも、僕らって、肉体を持っている以上、常に物理的な制限を受けなきゃいけないわけでしょ。ある場所にいたら、その場所以外には存在できないし、ある時点にいたら、それ以外の過去や未来にはいられないじゃない。
小出:そうですね。この、肉体を持った私は、「ここ」にしかいられないし、「いま」にしか存在できません。
藤田:でも、同時に、いまここを超えたなにかが、いまここという限定の中で存在しているっていうのが、いのちの不思議なところなんですよ。
小出:うーん。言葉で考えようとすると、どうしても矛盾が生まれてしまいますけれど、実際そういうものなんですよね。
「不思議さ」に突き動かされて……
藤田:西田幾多郎さんはそれを「絶対無の自己限定」という言葉で表現していますね。
小出:絶対無の自己限定。
藤田:無ってかたちのないものでしょう。でも、無が自己限定をすると、そのかたちのないものが、具体的な時点に、具体的なかたちをもってあらわれるんだ、と。そういう見方ですね。そうなると「たまたま」という概念が消えるんですね。すべて、偶然じゃなく、ある種の必然性をもってそこに存在するのだ、と。そういうのが宗教的な世界観です。
小出:たぶん、その「必然性」を理屈じゃなく感じたとき、世界がこのように成り立っていることの不思議さというか、不可思議さに打たれて、人によっては人生が変わってしまうほどの衝撃を覚えるのでしょうね。
藤田:そうですね。たとえば南方熊楠(みなかたくまぐす)さんなんかもそういう人だよね。ちょうどいま、小出さんが「不思議」っていう言葉を出したけど、熊楠も、世界には「物(もの)不思議」「心(しん)不思議」「事(こと)不思議」「理(り)不思議」の4つの不思議があるって言っているのね。最初の2つは西洋の物理学とか心理学とかで片がつくけれど、物と心の相互作用の結果として生ずる事の不思議や「理不思議」は西洋の学問ではどうにも解明できない。まだこの上に「大不思議」なんてものがあるとも言っています。でも仏教はそこらへんを扱っているんじゃないですかね。
小出:「理不思議」の「理」というのは、「ことわり」のことですか?
藤田:そう。かたちのないはたらき。つまり、かたちのないいのちのことですね。熊楠も「触れられた」人だよね。世界がこのようにあることの不思議さに、どうしようもなく打たれてしまって、それをどうにか知りたい、という思いひとつで探究していって、広い分野に優れた業績を遺したわけでしょう。
小出:確かに。熊楠のあのすさまじいまでの業績の背後には、なにか、やむにやまれぬ情熱を感じます……。
藤田:作家の宮澤賢治さんや、数学者の岡潔(おかきよし)さんなんかもそのタイプだと思いますね。この三人の共通点、わかる? みんな仏教に関係しているんだよ。
小出:ああ、賢治が法華経を熱心に信仰していたことは有名ですよね。でも、仏教は、その「不思議さ」を「不思議さ」のまま、大事に扱ってくれる分野だから、「触れられた」人たちがそこに興味を持つのは、まあ、当然と言えば当然なような気がします。
藤田:そうだね。
「触れられた」者としての運命を引き受けていく
小出:一照さんも間違いなくそのタイプですよね。以前、10歳の頃の「星空体験」が、結果的に自分を仏教に連れてきた、みたいなことをおっしゃっていましたけれど。
藤田:あれは大きかったね。10歳のときに、自転車で夜道を走っていて、ふと夜空を見上げたときに、「どうして僕はここにいるんだろう? なにがどうなってこうなっているんだろう?」って、いきなり強い衝撃を受けてしまって……。
小出:「問答無用で、このわけのわからない世界に放り込まれてしまった!」みたいな感じですかね。
藤田:そうですね。
小出:自分がいまここにこうして存在しているという、超巨大な「謎」というか、「不思議さ」「不可思議さ」に打たれてしまったんですね。
藤田:そう。その瞬間に、当たり前だと思っていた世界にヒビが入ってしまった。
小出:一度入ったヒビは、なかったことにはできないのでしょうね……。
藤田:少なくとも僕はなかったことにはできなかったね。なかったことにする人もいるのかもしれないけれど、僕はこだわり続けちゃった(笑)。一度「触れられた」からには、その運命を引き受けていかなきゃいけないんじゃないか、みたいなのはずっとあったからね。こういうのって僕だけじゃないと思いますよ。たとえばキリストなんかも「神よ、できるならこの盃を私から遠ざけてください」みたいなことを言ったわけでしょ。「でも、それがあなたの御心ならば飲みます」と言って、運命を引き受けた。そんな感じだよね。
小出:「運命」ですか。
藤田:うん。まあ、しんどい運命ですよね。「触れられていない」人たちが作った社会の中で、「触れられた」人として生きていかなきゃいけないっていうのは、その違和感や生きづらさを引き受けていくこととセットになっているわけだから。
小出:確かに……。
仏教はどこまでも「個人プロジェクト」
藤田:でも、ほんとうは「触れられていない」人なんかいないんだよね。みんな、間違いなくいのちを生きているわけだから。「生きている」っていうことは「触れられている」っていうことなんですよ。
小出:でも、どういうわけか、人間、その事実を忘れてしまうんですね。
藤田:そう。白隠さんも『坐禅和讃』の中で「長者の家の子となりて貧里に迷ふに異ならず」というたとえを用いているけれど、みんな、もともと大金持ちの家の子として生まれてきているのに、「足りない、足りない」って貧乏根性で生きてしまっているんですね。最初からいのちを与えられているのに、「ない、ない」って外側を探し回っている、っていう。家の中で家を探し回っているような感じですよね。これはしんどいですよ。
小出:根っこの部分に、とんでもない思い違いがあるんですよね。その思い込みが、しんどさの根本原因になっていたんだ、と。そのカラクリを見抜いたところにあるいのちの本質をただ生きていく道、それが「仏道」なんじゃないかな、と私は思っています。一照さんは、いつも、その根本の思い違いの部分からお話をしてくださるので、とてもありがたいです。
藤田:いやいや……。でも、僕自身は、仏教を広めようとか、人を助けようとか、そういう思いを持って活動をしているわけではないんですよ。僕は、これ、最初から個人プロジェクトだと思ってやっているから。
小出:「触れられた」ショックを引き受けていく道としての個人プロジェクトですか?
藤田:そう。ただ、僕が個人的にやっていることを喜んでくれたり、たのしんでくれたりする人がいるのはうれしいことだとは思っていますけれどね。でも、もしそういう人がいなくなっても、僕はずっとひとりでやっていくつもりですし。
小出:強い覚悟ですね……。
この僕は、この僕だけで、あの僕でも、この僕でもない
藤田:そもそも僕はほかの人の人生に責任持てませんからね。
小出:それは、確かにそうですよね。
藤田:誰かが僕に「私の代わりに死んでください」って言ってきても死ねないし。別に犠牲になることは構わないけど、僕が先に死んだところで、その人もどうせ後で死ななきゃいけないわけだから、どうにもならないじゃないですか。澤木興道老師が「屁一発貸し借りできない」って言っていたけど、ほんとうにそうなんですよね。誰も僕の代わりになれないし、僕も誰の代わりにもなれない。
小出:ほんとうにそうなんですよね。私も、生理痛で寝込んでいるときとか、よく思いますよ。「ああ、この痛みは誰にも代わってもらえない、私がぜんぶ引き受けなきゃいけないんだ……」って。
藤田:そういう感じ。いま、この痛みを感じているのはこの僕だけで、この人でも、あの人でもない、っていう。替えのきかない、唯一無二の存在としての僕。この僕は、この僕だけで、あの僕でも、この僕でもないんだって。そういう実存的な目覚めみたいなのが、僕の場合、高校のときにありましたね。
小出:それは、ある瞬間、ふっと「ああ、そうなんだなあ……」って?
藤田:そうだね。さっき言った、10歳のときの星空体験の思春期版みたいなものかな。宇宙の中に、たったひとり、僕だけがいる……みたいな感覚が、いきなりやってきた。
小出:その感覚から、すべてがはじまっているんですね。
藤田:そう。その感覚を抜きにしたところでなにかを語っても、なにか甘っちょろいものになるっていう感じはある。仏教にしろ、なんにしろね。
小出:確かに。「自分ごと」から出発しないと、どこか的外れになってしまいますよね。
藤田:僕にとっては「このいのち」しかないわけだからね。いつだって「このいのち」からスタートするしかないんですよ。自分抜きのいのちっていうのはないからね。小出さんのいのちを僕は生きられないし、小出さんは僕のいのちを生きられない。
小出:その通りです。
ミクロがマクロで、マクロがミクロで……
藤田:でも、ここにある「僕のいのち」をどんどんどんどん掘り下げていくと、いまここにおいて、小出さんも、間違いなく僕のいのちの中身であることがわかってくるんですよね。
小出:具体的ないまここの一点を見つめていくと、それがそのまま宇宙のすべてになっていく。なんかそういう短編映画ありましたよね。60年代の……なんだっけ……?
藤田:『Powers of Ten』?
小出:それそれ! 最初にピクニック中の男女二人を真俯瞰で撮影して、それがどんどんどんどん上空の方に引いていって、国を飛び出して、地球を飛び出して、太陽系を飛び出して、最終的に宇宙の果てにまでいって……。で、そこからまた最少の人物の方にカメラが寄っていって、細胞の中身から、最終的には分子レベルの映像が大写しになって……っていう。あの映画、大好きです。ミクロがマクロで、マクロがミクロで……っていう世界観を、ものすごくわかりやすく伝えてくれますよね。
藤田:あれはよくできた映画だよね。ああいうのを、僕は学校の授業の教材として使うべきだと思いますね。別に宗教の話を持ち出すまでもなく、世界のあり方の神秘みたいなものは伝えられるわけだから。
小出:そうですよね。
すべての存在はそのままスピリチュアル
藤田:僕としては、もう、すべての存在がそのままスピリチュアルだと言ってもいいと思うんですよね。
小出:スピリチュアルなものと、そうでないものがあるわけじゃなくて、この世に存在するものすべてが、すでにスピリチュアルなあり方をしているんだ、と。
藤田:そう。たとえば味噌汁なんかも、よくよく観察してみると、なにやら不思議な模様を作っているじゃない。お椀の中で対流が起こって、秩序を持って動きはじめるわけでしょ。あれ、不思議じゃない? 誰が起こしているの?
小出:誰が起こしているんですかねえ?(笑) いや、きっとその「誰が」はいないのでしょうけれど。不思議ですよね……。
藤田:なににおいてもそうですよ。そのものがそこに存在していることとか、その振る舞い自体が、すごく宗教的なあり方をしている。そういうところに、僕らはもっと目を向けてもいいんじゃないかと思うんですよね。
小出:霊的な存在が、物質的なものに宿って、そこでようやくスピリチュアリティーが発揮されるというわけではなくて、そもそも物質そのものがスピリチュアルな知性を持っているのではないか、と。
藤田:そう。物質がある秩序をもって振る舞ったときに、そこに霊的ななにかを感じられるというだけで、そのふたつはそもそもわかれていないんだよ、ということですね。
小出:「かたちなきいのち」が、「かたちあるいのち」として一時的にあらわれていて、「かたちあるいのち」の上に、それとまったく切り離されないで、「かたちなきいのち」の存在も感じられる。そもそもそれらは「ひとつ」。わけられるものではないですよね。
藤田:そう。「一元」「一如」ということですね。
いのちは壮大な実験場
藤田:ところでこんな脈絡のない話を続けていて大丈夫なの?(笑) ちゃんと記事にまとめられる?
小出:大丈夫です、ぜんぶ間違いなく「いのちからはじまる話」ですから(笑)。そもそも今回の企画に「正解」は設けていないし、それを求める気持ちもありませんので。ただ、「いのち」というキーワードをポンと真ん中に置いてみたときに、そこにどんな対話が生まれてくるのか、それをただただたのしんでいこう、というものなので、どうか安心してください。
藤田:わかりました(笑)。
小出:私は、Templeというのはそのまま「実験場」だと思っているんです。成功も失敗も、正解も不正解もなくて、ただただその場にあらわれたものをそのままのかたち、そのままの大きさで受けとめていく場。
藤田:なるほどね。それはいいですね。そもそも、いのち自体が実験場みたいなものだからね。
小出:なにが出てくるのかがわからないわけですからね。
藤田:そうそう。決まったものが決まったように出てくるわけじゃなくて、毎瞬、意外なものが出てくるっていう。しかもすべて一回きりの姿で。
小出:一回きり……。この自分だって、ほんとうはいつだって一回きりの姿なんですよね。そこを忘れたらいけないな、と思っています。「一回きり」という事実にこそ、いのちの「いのち性」があらわれてくるように感じるので。
藤田:そうだね。自分は大きないのちに組み込まれたものとして存在しているという実感は、いつだって持っておかなきゃいけないよね。
小出:その実感を持つことから、真にいのちを生きていく、ということがはじまっていくような気がするんです。私たち、ほんとうはいつだっていのちを生きているわけだけれど、その事実への自覚を持って、はじめてほんとうにいのちを生きることになる、というか……。
「信仰心」とは、つまりは「自覚」のこと
藤田:滝沢克己さんってご存知ですか? 元々、西田幾多郎さんに影響を受けて、カール・バルトに師事した神学者で、仏教とキリスト教の対話みたいな本をたくさん書いた方です。滝沢さんは、神と人との間には「第一次接触」と「第二次接触」の二種類があるって言うのね。
小出:「第一次接触」と「第二次接触」ですか。
藤田:あらゆる存在は元から神と接触している、それが「第一次接触」である、と。あらゆるものは、そもそもいのちを生きている、っていうことですね。ところが我々は、「第一次接触」の中にありながら、神との接触を見失っている、と。そこにイエス・キリストがあらわれて、「第一次接触」を完全に生きてみせた。イエスが成し遂げたのが「第二次接触」である、と。
小出:なるほど……。さっき私が言った「自覚的に生きる」というのが、イエスの歩んだ道、つまり「第二次接触」への道につながっていくわけですね?
藤田:そうそう。「第一次接触」には信仰も修行も関係ないんですよ。すでにそこにあるものだから。でも、だからといってそこにベッタリではいけなくて、ちゃんと自覚を持って修行をしていかないと、「第二次接触」は起こってこない、ということですね。
小出:となると、「信仰心」というのは、つまりはこの「自覚」のことなのかもしれないですね。
藤田:そういう風にも言えますね。
坐禅はいちばん純粋にいのちを表現している姿
藤田:道元さんも、最初にこの問題に取り組んだんですよ。「本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)天然自性身(てんねんじしょうしん)」っていう言葉を本の中に残しています。「人間はみな本来成仏しているのに、なぜ祖師方は修行をしてさとる必要があったのか?」という疑問ですね。
小出:道元さんはその問題をどういう風に解決されたのですか? 答えは出たのでしょうか?
藤田:それが「只管打坐(しかんたざ)」だったわけですよ。坐禅っていうのは、言ってみれば、「第一次接触」に落ち着いている状態でしょう。つまり、いちばん純粋にいのちを表現している姿です。
小出:手も足も口も出さずに、ただただいまここに起こってくることにオープンでいる姿ですものね。ということは、坐禅をして、「そもそもいのちを生きていたな」と気づいて、その自覚を持ったままに生きていくのが「第二次接触」の道になるわけですね?
藤田:そう。風の性質って、ほんとうは世界のすみずみまで遍満しているわけでしょ? でも、あおがなかったら風は起こらない。
小出:確かに……。「あおぐ」というはたらきは、どうしても必要なんですね。
藤田:点として「第一次接触」を感じたら、今度は自分が「第一次接触」を表現する点にならなきゃいけない。風が遍満しているということを、あおぐことによって自分が証明していかなきゃいけないんです。
小出:それが「自覚の道」、「信仰の道」、つまりは「真にいのちを生きていく道」になるわけですね。そしてその「道」に終わりはなくて……。
藤田:うん。いのちに、はじまりも終わりもないですからね。
小出:……というところで、唐突ですがお時間です。はじまりも終わりもないいのちを、これから先も、自覚を持って生きていきたいとあらためて思える対話でした。「触れられた」者の大先輩として、今後もいろいろご教示くださいませ! 今日はほんとうにありがとうございました。
藤田:ありがとうございました。
藤田一照(ふじた・いっしょう)
1954年、愛媛県生まれ。灘高校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。院生時代に坐禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導する。2005年に帰国し、現在、神奈川県葉山の「茅山荘」を中心に坐禅の参究、指導にあたっている。曹洞宗国際センター所長。
※「まいてら新聞」【藤田一照さん(僧侶)の“いのち観” 前編&後編】も、どうかあわせておたのしみください。