梶田真章さんとの対話/無数のいのちの重なりの中に、今ここの「私」がいる

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私は、法然院貫主の梶田真章さんをお訪ねしました。

「いのち」を真ん中に置いたお話は、いつだって、真の意味で「自分ごと」として語られなくてはならない、と私は考えています。いのちに決まったかたちはなく、したがってそこには絶対的な正解もないからです。いや、あえて言うのなら、個人が生きる「物語」の中に真実はある。つまり、真実は、人の数だけあるということです。

今回、梶田さんは、穏やかでありながらも非常に確信に満ちた口調で、ご自身の信心から湧き上がってきたお話をお聞かせくださいました。それでいて、はじめから終わりまで、「これは、あくまで、私の信じる道です」「私の物語です」という立ち位置を決して崩されることがありませんでした。私は、そこに、大変な感銘を受けました。梶田さんの誠実なご姿勢に、決して絵空事なんかではない「世界平和」への道筋を見たような気がしたのです。

「わたしはわたし」「あなたはあなた」を生き切ったところに、はじめて、ほんとうの意味での自他へのリスペクトが生まれて、「わたしはあなた」「あなたはわたし」という世界が開けてくるのかもしれません。

深いところから、なにかをお感じいただけるとさいわいです。かなりのロングダイアローグですが、お時間のございます際に、どうかじっくりと味わってお読みださいませ。

取材協力:杉本恭子

いのちがなくなることはない

小出:今日は「いのちからはじまる話をしよう。」ということで法然院さんにうかがっております。どうぞよろしくお願いいたします。

梶田:よろしくお願いします。

小出:さっそくですが、梶田さんのご著書『ありのまま―ていねいに暮らす、楽に生きる。』(村松美賀子=構成・文 リトルモア=刊)の中に、かなり印象的な文章があって。

「いのちを大事にする」とかんたんに言いますが、ただ単に死ななければいいというものでもないのです。どのように自分の、そして他のいのちと関わっていくか。「死なない、殺さない」という特定の側面からではなく、もっと大きなところから考えられるとよいのですが。

小出:もちろん、これは前後の文脈あってのご発言ではあるのですが、私は、この「ただ単に死ななければいいというものでもないのです」というところに、まあ、非常にスカッとしたと言いますか、「ああ、これだ」と……。長年の間、意識的にであれ、無意識のうちにであれ、どこか違和感を覚えていたことに、まっすぐに光を当てていただいたような気がしたんです。

梶田:私は、人間の場合、一度誰かに出会ってしまった以上、もしその方がお亡くなりになったとしても、その方のいのちがなくなるということはないと思っているんです。

小出:いのちがなくなることはない、ですか。

梶田:その方が生前に出会った誰かの中に、いのちが重なっていくと言いますか……。

小出:いのちが、重なる。

梶田:亡くなった方は、生きている方の中に重なって、いつだって一緒に生活している。亡くなった方のいのちは、常に、生きている方のいのちに直に重なるようにしてあらわれていると思うんです。これが事実なのかどうかはわかりませんけれど、私はそういう風に信じて生きています。

小出:どこか遠くから見守っているとかそういうことではなくて、もっと直接的に、今、ここの私の上に、亡くなった方のいのちはあらわれている、と。

梶田:そうです。亡くなった方のいのちを重ねて、今、私は、ここに生きている。そういう風に信じています。それは親族であったり、これまで法然院に関わっていただいた方々であったり、ありとあらゆるすべてのいのちが私の上に重なっているのです。

小出:ありとあらゆる、すべてのいのちが……。

「いのちがあなたを生きている」ということばの意味

梶田:結局、いのちというのは、それぞれの人の中に、それぞれの重なり方で重なって存在しているものだと思うんですね。それを、仏教では「縁起」と言います。「私」というひとつのいのちが、他と切り離されて独立して存在しているのではなくて、さまざまな方のいのちがここに重なって、その重なり方次第で、存在のあり方が変わってくるのだ、と。その、いのちのありようを、お釈迦さまは「無我」ということばで表現したのではないでしょうか。

小出:「私」という、ずっと変わらない、固定された実体が、ひとつ、独立して存在しているわけじゃなくて、いろんないのちとの出会いの中に、重なり合いの中に、その瞬間、その瞬間の、まあ、あえて言うなら「私」が、たちあらわれてくる、ということですね。

梶田:それが「いのちが私を生きている」「いのちがあなたを生きている」ということばの意味だと思うんです。だから、まあ、より正確に言うのなら、「いのちが“そのときの”あなたを生きている」ということになるでしょうかね。

小出:あくまで、「そのとき」、つまり「今」の話である、と。

梶田:そういうことです。

小出:過去に出会った人たちのいのちが重なったところに、今の私がある……。

梶田:そういう意味で、人間というのは、そのかたちがなくなっても、いのちがなくなるわけではないんだ、と。

小出:なるほど……。今のお話は、お互いに生きているけれど、いろんな事情で会えなくなってしまった人に関しても、まったく同じことが言えますよね?

梶田:もちろんです。

小出:私も、これまでの33年間の人生において、いろいろな出会いを経験したと同時に、いろいろな別れも経験してきました。死別もありますけれど、そうでなくても、お互いにまだ生きているけれど、まあ、いろいろあって、今生では、きっと、もう二度と会うことはないのだろうな、という人たちもたくさんいて……。でも、さっき梶田さんもおっしゃいましたけれど、ほんとうに、人間同士、一度出会ってしまったら、その方の存在を「なかったこと」には決してできないんだなあ、という思いは実感としてあるんです。

梶田:ええ。

小出:それでも、もう会えない、この目で見ることができない、手で触れることができないその人たちが、どうしようもなく私の中にいることがわかるんですね。いや、「いる」と言ったらことばがおかしいんですけれど、彼らの存在が今の私を作っているというか、今ここに、この瞬間に、このように私という存在をあらわす、ひとつの大切なご縁になっていることは間違いがなくて。だから、別れというのは、毎回、ものすごくつらいものだったりするわけですけれど、だからと言って、一度出会った人たちがほんとうの意味で「消える」ことは決してなくて。今の私というあらわれの上に、彼らは、疑いようもなく重なっている。その事実をきちんと見つめれば、一回一回の別れに、悲しみ、惑い、もがきながらも、不思議な安心感の中で、どこかくつろいで生きていくことは可能なんじゃないかな、と思っています。

良いことも悪いこともすべて必然。偶然はない

梶田:「縁」の話ですけれど、現代の人は、自分にとって都合の良いことがあったときだけ「良いご縁だった」と言って、悪いときには「運が悪かった」と言うんですね。簡単に言うと、良い結果は必然で、悪い結果は偶然だと思いたい、そういう考えの中で、多くの方は生きていらっしゃる。でも、仏教では、すべては「因縁(いんねん)」の中で起こってくるととらえるんですね。その視点は、やはり、大切なんじゃないでしょうか。

小出:この世に偶然なんかなくて、良いことも、悪いことも、すべて縁の中で、必然として起こってくるのだ、と。

梶田:良いことを思ったり、悪いことを思ったり、あるいは実際に良いことをしたり、悪いことをしたり……そういった「業(ごう)」と呼ばれるようなものが、すべて、まあ、難しいことを言えば「阿頼耶識(あらやしき)」を形成して、それが、いつかどこかでなんらかのかたちとなってあらわれてくると考えるのが仏教です。

小出:それは、良いことをしたから良いことが起こるとか、悪いことをしたから悪いことが起こるとか、そういう単純な話ではないんですよね?

梶田:そう。それはあくまで各々の解釈であって、実際にはそれがどこでどういうかたちになって出てくるのかはわからないわけですよね。でも、そうなっているということを信じて、良きにつけ悪しきにつけ、すべて私の業縁であって、それを引き受けていく、という覚悟していくことの中に、「他力(たりき)」の理解が生まれてくるのだと思います。

小出:他力。良いことも、悪いことも、すべて阿弥陀さまにおまかせしてしまうという道ですね。

梶田:そうして「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」ととなえながら生きていく。

小出:「おまかせ」というと、なにか、責任感のない生き方のように思われてしまいがちですけれど、実は、そこには大変な覚悟がともなっているんですね……。

出来事それ自体に善悪はない

梶田:ただ、そういった覚悟を持つことは、まあ、なかなか簡単なことではないですよね。だからこそ、たいていの方は、良いことが起きたら良いご縁、悪いことが起きたら悪いご縁、という風に、自分の中で意味づけをしながら生きているわけですけれど、それはあくまでその方ご自身の物語でしかないわけで。自分の目から見て、そのときそのときに良いとか悪いとか思うだけのことであって、それ自体に善悪があるわけではない。

小出:出来事自体には善悪はない?

梶田:たとえば、法然上人だって、幼い頃にお父さんを亡くされたからこそ出家をされて、その結果としてこの法然院が生まれて、現在に至るまでいろいろな方に集っていただいている、そういう事実もあるわけですから。

小出:ああ……。そういったことを思うと、なにが良いご縁で、なにが悪いご縁になるのかわからなくなってくるというか、ご縁自体に良いも悪いもない、ということが理解されてきますね。

梶田:ええ。ただ、ご縁に良いも悪いもないということを信じられるときもあれば、信じられないときもあるというのが人間ですからね。「これが正解だから必ずそう信じなさい」ではなくて、「そういう風に思って生きる道もありますよ」ということを、坊主としては申し上げていけばいいのかなと思います。

小出:そういった言い方をしていただけると、確かに、よりこころに届く気がしますね。あんまり「これが正しいんだ!」みたいなことを言われても、受け手としては身構えてしまうところがありますので……。

梶田:そうですね。それに、その瞬間に届くことはなくても、後々、なにかが起こったときにことばがよみがえってくることもあるでしょう。だから、私としては、その瞬間に即座になにかを届けることは目指していないし、望んでもいないんですね。

小出:届くも届かないもご縁次第ですものね。

梶田:もちろん、届ける努力だけは怠らずにしていきたいとは思っていますけれどね。ただ、それも、自分の意志だけでどうにかなるような話ではないですから。

「自分の意志」と呼べるものはほんとうにあるのか?

梶田:そもそも、そこに自分の意志と呼べるようなものがあるのかということ自体、疑わしいですからね。

小出:意志の存在自体が?

梶田:たとえば、今だって、私はほんとうに自分の言いたいことを言っているのか、というと、それはわからないわけです。今なら小出さんの表情やことばに一瞬一瞬反応しながら、そのご縁の中で湧き上がってきたものを「私のことば」として話しているだけですから。

小出:「これを話したいから話そう」という意志に基づいて話をしているのではなくて、あくまで瞬間ごとのご縁のあらわれとして、ことばが出てきている、と……。それは、なんだかわかる気がします。

梶田:だから、ほんとうのところ、自分の言ったことに責任を持つことはできないわけですが、でも、今の社会ではそうはいきませんね。

小出:自分ではそうは思っていなくても、他人が聞けば、それは明確に「あなたのことば」ということになってしまうわけですしね。

梶田:そういう風なところで社会は成り立っているわけですけれど、そこには責任がついて回るわけですから、息苦しい部分はあるでしょうね。

小出:「私の」とか、「あなたの」とかいうのは、まあ、言ってみれば幻想に過ぎないわけで。でも、その幻想が幻想であることに気づかないまま、「所有」という名のフィクションの檻の中でもがいているのが、現代人の姿なのかもしれません。

梶田:大切なことは「誰が語ったか」ではなくて「なにが語られたか」というところにあるんですけれど、大半の人は「誰がそれを語ったのか」というところに注目してしまうんですね。まあ、それは仕方のないことですので、私個人としては、私が語ったということで、仏法をみなさんに受けとめていただきやすくなるような、そういう自分を生きていくということは大切かな、と思っています。この社会ではね。

物語を共有できなくても、「物語を生きている」ということは共有できる

小出:今のお話にもありましたけれど、すべてにおいて「私の」とか「あなたの」とかいうことばを、意識的にであれ、無意識のうちにであれ、頭につけなきゃ気が済まないようなメンタリティーの中で、多くの人は生きていると私は思っていて。でも、本来、すべての言動はご縁の中で生まれてくるわけで、ほんとうのところ、そこには「私の」も「あなたの」もないわけですよね。その事実を、いちばんわかりやすく理解できるのが、やっぱり、対話の場だと思うんです。

梶田:ええ。

小出:そういうことで、私は「Temple」という対話の集いを定期的に開催しているんです。お寺に集まって、ただそこに湧き上がってくる対話をたのしんでみましょう、っていう、ごくごくシンプルなイベントなんですけれど。そこに湧き上がってくる対話は誰のものでもなくて、その瞬間の大きないのちのあらわれなので、それにふわっと身を預けてください、みたいなアナウンスを、毎回、イベントの最初にさせていただいて……。

梶田:対話というのは、相手の物語をそのままに受け止めていく場でもありますよね。

小出:相手の物語、ですか。

梶田:人間は、それぞれに、自分だけの物語を作りながら生きている生き物ですから。それはそれぞれに違っていて、誰ひとりとして自分と同じ物語を生きている人はいなくて。でも、対話の中で、お互いに自分の人生を語り合うことで、みんなそれぞれ違う物語を生きているけれども、それぞれの物語の中でひとりひとりが生きているという点では同じだということに気づいていくことができる。

小出:同じ物語を共有できなくても、「物語を生きている」ということ、それ自体は共有できる、と。

梶田:そこをみんなが理解し合うことができたら、もうちょっと、この世界は生きやすくなるんじゃないかな、と思うんですよ。

小出:自分の物語が自分にとって大切なものであるように、誰かの物語も、その人にとってはとても大切なものなんだ、ということがわかれば、互いの物語を尊重し合えますものね。

梶田:もちろん、口で言うのは簡単ですが、実際にそうするのはなかなか難しいことだとは思いますけれどね。

宗教は「個人の物語」を相対化するための「大きな物語」

小出:梶田さんは、よく、「物語」ということばを使われますけれど、それで言えば、私は、以前は、物語を生きているということ自体が、人間の苦しみの原因になっていると思っていたんですね。だから、単純に考えて、物語の外に出てしまえば苦しみは消えるのだ、と。仏教はそのための道筋を説いたものだと思っていたんです。でも、そういうことではなかったんだな、っていうのが、あるとき……まあ、結構最近なんですけれど、ようやく理解されて。個人として生きている限り、そこにはどうしても個別の物語が生まれて、それは決して避けられるものではないのだ、と。でも、それがあくまで物語に過ぎないことを知っているか否かで、また、生き方というのは変わってくることは確かで。仏教をはじめとする本質的な宗教は、その可能性を指し示すものなんですね。

梶田:自分の小さな……というと言い方は悪いかもしれないけれど、小さな物語を超えたところにある、大きな物語を教えてくれるところに、宗教の役割はあるということですよね。

小出:宗教は、大きな物語なんですね。

梶田:でも、大きな物語に出会ったからといって、個別の小さな物語を捨てるわけではない。

小出:そこは、変わらず、自分の身をもって生きなきゃいけない、と。

梶田:はい。でも、大きな物語を信じていくことで、自分なりの物語を相対化していくことはできる。

小出:相対化。自分の物語に閉じていた視界が開かれると言いますか……。

梶田:大きな物語から見れば、自分の物語も、「まあ、これもひとつの生き方だな」「かけがえのない人生だな」という風に思える瞬間も生まれてくる。そこから「自分は自分の人生を生きていくしかないんだ」という覚悟も出てきます。

小出:ここ、法然院は、名前の通り、浄土宗の開祖、法然さんが開かれたお寺ですけれど、ここにおいての「大きな物語」というのは、阿弥陀さまの物語、浄土の物語ということになるでしょうか。

梶田:そうですね。私たち人間はこの世では決してさとることができないけれど、死後、浄土に行けば、そこで必ず阿弥陀仏に目覚めさせていただける、という物語ですね。

小出:人間はさとることはできない?

梶田:この世ではね。法然上人、親鸞聖人はそう教えています。みんなそれぞれの物語を生きることに必死ですから。でも、個人の小さな物語を超えたところにある物語に触れて、最後は一緒にさとろうね、みんなで一緒に目覚められたらいいよね、といった気持ちを持つことができたら、それぞれが、それぞれの苦しい人生を悲しみ合いながら、ときに笑い飛ばし合いながら生きていくことも可能になっていくのではないでしょうか。そういう可能性を確認する場所として、お寺があればいいなと思っていますね。

お寺では「非常識」なことが説かれなければいけない

小出:そういう場所として、お寺は、今、顕在的にも潜在的にも、ものすごく多くの方に求められていると思います。

梶田:だから、ある意味、私たち坊主は、非常識なことを説いていかなくてはならないと思うんですよ。

小出:非常識なこと!(笑) うーん、その表現にはちょっとびっくりしてしまいますけれど(笑)、でも、確かにそうですよね。大きな物語というのは、常識を超えたところにあるわけですからね。

梶田:坊主が常識の中でなにかを語っていたってどうにもならないですよ。そういうことだったら社会運動家の先生に語っていただいた方がよっぽどいいと思いますので。私たち坊主は、みなさんがしがみついている社会の常識を超えたところにある大きな物語を届けるのが役割ですから。

小出:そういうことで言えば、さっきもお話になられていたように、私たちは普段、すべて、自分の意志で自分の言動を決めていると思っているけれど、仏教的に言えば、それはすべて縁の中で起こっていることで、そこに自分の意志がどれだけ関与しているかどうかは疑問だ、というのも、まあ、一般的には「非常識」なお話ですよね。「自分を信じなさい」というようなことばがもてはやされているこの世の中で、「自分を信じるな」「自分のこころをあてにするな」なんて(笑)。

梶田:そうですね。もちろん、自分を信じることが物事を成し遂げる力になっていくこともあるでしょうけれど、あんまりそこを拠りどころにしすぎると、今度は苦しくなってなにもできなくなってしまう。そんなときに、お寺で、「こころなんてあてにならないものですよ」という物語を聞けば、また違った道が開けてくることもあるかもしれませんのでね。

小出:そういう風に、普段生きている中では思いもよらなかったことをお寺で聞かせてもらえることは、「常識」にがんじがらめになっている私たちにとって、ものすごくありがたいことです。

梶田:その結果、相対化が起これば、自分の物語をしっかり生きていく力になりますからね。

「願っても叶わない」「問題は決して解決しない」

梶田:あと、私が思っているのは、「願ったら叶いますよ」と言うのではなくて、「願っても叶わないことはありますよ」と。坊主はそのことをもっと語るべきだと思いますね。現代においては、とくに。

小出:願っても叶わない、ですか。

梶田:みなさん、なにか、問題を解決しよう、解決しようと頑張っていらっしゃいますけれど、その頑張りがしんどさを生んでいるのであって、そもそも、この世において問題が解決することはないのだ、と。解決しないままに終わっていくのが人間という存在なのだ、と。そういう風に、たとえば法然上人はおっしゃっていたと思うんです。その教えを受け止めたところに、まあ、日常的にいろいろな悩みは出てくるけれども、究極、悩みすぎることもなく、自分や他人を追い詰めすぎることもなくなってくる。そういう生き方もできるようになっていくのではないでしょうか。

小出:なるほど……。

梶田:もちろん、解決しようともがいたり、なんらかの願いをもって行動をしたりすることは悪いことではありませんし、私自身、大きな願いを持ちながら、それに対してなにかできることがあれば都度なにかしらの行動をとっています。しかし、基本的には、この世においては、すべて、自分の思い通りになるものではない。それでも、浄土に行けば、この世で解決しなかったことがすべて氷解していくのだ、そういう場所があるのだ、と。そのことを信じていれば、何度も言うように、自分の小さな物語が相対化されて、少し、生きていきやすくなるというか、自分の物語を生きていく覚悟を持てるようなこともあるかもしれませんので。だから、そういう視点を、浄土宗の、他力本願の坊主としては提供できれば良いのかな、と。「こういう物語もありますよ」「これを信じてみたらいかがでしょう」と。

小出:あくまで「提案」なんですね。

梶田:そうです。必ずそうでなければいけないとは思っていませんし、それを誰かに押しつけるつもりもありません。私は他力本願を旨とする信心の坊主なので、そのような物語があることをお伝えしているだけですから。「いや、私はやっぱり自力で頑張ってみます」という方には、もっと違った物語が意味を持ってくるのでしょうし。

小出:ひとりひとりが、まったく違う物語を生きているわけですからね。自分にとっていちばんのものが、他人にそのまま当てはまるかと言ったら、そういう単純な話でもない。

梶田:そこをきちんと理解することができたら、宗教による戦争もなくなると思います。もちろん、何度も申し上げますけれど、それは口で言うほど簡単なことではないですけれどね。やっぱり、人間というのは、自分がいちばん正しいと思いたい生き物ですからね。でも、そんな中でも、「自分が信じるこれこそが絶対に正しいと口に出してはいけないよ」ということだけは、お釈迦さまの教えに生きるものとしては、伝えていけたらいいんじゃないかな、とは思っています。みんながみんな、自分なりの正しさを持っている。その事実だけは共有できると思いますので。

小出:「絶対的に正しいなにか」を共有しようとするのではなくて、「みんなそれぞれに正しさを持っているよね」「それだけは知っておこうね」と、そこに共有点を見出していくということですね。

ひとりのお坊さんの話を何度も聞くことが大切

梶田:自分なりの正しさを持ちながら生きていくのが人間の姿であって、そこだけはどんなに時が経っても変わることはないと思います。その中で平和を実現していこうと考えるなら、やはり、やり方を考えないと。でも、こういう話も、いかに押しつけがましくなく語るかということは大事なんじゃないかとは思いますね。

小出:仏教のこと、宗教のことって、いつだって「自分ごと」でなければいけないとは、私も思っています。押しつけられた物語は、やはり、押しつけられた物語でしかないので、自分ごとにはなっていかない……とまでは言わなくても、なりにくいようなところがある。

梶田:もちろん、自信満々になにかを話している人に魅力を感じることはあるでしょうけれど、そういうのは、ただそのときだけの感動として終わってしまう場合が多いと思うんです。結局は、人間、誰かから聞いたことを鵜呑みにするのではなく、それを自分の中で咀嚼する時間というのが必要なんですね。宗教という分野においては、とくに。

小出:あれはどういうことだったんだろう? もしかしてこういうことかな? それともこういうことかな? と、自分なりに反芻する時間ですね。

梶田:そうですね。聞いたことを、自分の人生に照らし合わせて振り返っていく。そして、また話を聞いて、あらためて考えて……という繰り返しが必要です。そうしていく中に、「やっぱり、私はこう生きるしかない」という覚悟が定まっていく。そういったプロセスのないところでは、人は、一生の物語には、なかなか出会えないと思います。

小出:一生の物語ですか。

梶田:ですから、仏教といいますか、宗教、大きな物語に出会うためには、やはり、一回だけお坊さんのお話を聞くのではなくて、同じ人のお話を何度も何度も繰り返し聞くという姿勢が大切になってくると思いますね。最初はいろんなお坊さんのお話を聞かれてもいいと思うんですけれど、結果、最終的には、この方のお話をずっと聞いて行こう、というのをひとり決めていただいた方がいい。

小出:「この方は!」と思う方をひとり見つけることができれば、そのお坊さんの毎回のお話に照らし合わせて、自分の今立っている場所がわかりやすくはなりますよね。

梶田:ただ漫然とたくさんのお坊さんの話を聞かれていても、まあ、仏教知識は増えるかもしれませんし、さまざまな考え方、それぞれの信心に接することはできるとは思うんですけれど、結局、自分がどういう物語を生きたいのかという、宗教のいちばん大事なところが、かえってややこしくなってしまいますので。

今をあきらめ、未来をあきらめない

小出:ところで、さきほど「因縁」のお話をされましたけれど、そこに関して、もう少し詳しくうかがいたいんです。というのは、一般的には、どうしても、因縁と聞くと、運命決定論というか、「これから起こることはすべて決まっているということですか!?」という風に思ってしまう方も出てくると思うんです。でも、私としては、仏教は決して運命決定論を説いているわけではないと考えておりまして。

梶田:そうです。因縁というのは、あくまで、「そのときの私の因縁」と呼ぶことしかできないものです。

小出:そのときの、私の、因縁。

梶田:今、ここに、このかたちを取ってあらわれているこれを、あえて「私」と呼んでいるわけですけれど、その「私」というのは、さっきもお話ししましたけれど、ずっと続いて存在しているではなくて、一瞬一瞬、生じたり、滅したりしているわけですよね。だから、因縁というのはそこに見出すしかないものなんです。

小出:あくまで、今、ここにあらわれている「私」からしか、因縁は辿れない、と。

梶田:そう言うしかありません。そして、仏教が言っているのは、今、ここにあらわれている因縁をあきらめましょう、つまり、あきらかに見ましょう、ということなんですね。そして、あきらめるのは、あくまで今であって、未来ではない。未来をあきらめることはないんです。

小出:未来をあきらめる必要はない。未来を勝手に予測して、絶望することはない、ということですね。

梶田:諸行無常ですからね。今あらわれているものは必ず変わっていきますし、それによって未来も変わっていきますから。しかし、逆に、今をあきらめないで、未来をあきらめてしまう方が多いんですよ。今の事実を受け止めないで、未来はああなるんじゃないか、こうなるんじゃないかと勝手に決めつけて、あきらかに見ているつもりでいる。本来、未来はあきらかに見ることなんかできないのに。

小出:未来は、今ここにないですものね。今ここにないものをあきらかに見ることなんか不可能ですよね。

梶田:そうやって、今をあきらめて、未来をあきらめないということができるようになれば、結局、今の自分にとって良い因縁も、悪い因縁も、すべて諸行無常で、一瞬のうちに流れ去っていくことがわかってくるんですね。自分のことすら自分でままならないということを、それぞれの人生の中で確かめていけば、うまくいったときは自分の努力のおかげ、うまくいかなかったときは他人のせいというのは、やっぱり、ちょっと違うでしょう、という話に落ち着いてくる。

小出:今の自分のあり方を省みることにつながっていく、と。

梶田:はい。ただ、それもやっぱり一回聞いたぐらいでは「そうですか」という話にはならないので、何度でもお寺に来て、揺さぶられて、自分の人生を考えて、またお寺に来て、揺さぶられて、自分の人生を考えて……ということを繰り返していただかないと。

小出:そのプロセスは必須なんですね……。

存在するから信じるのではなく、信じるから存在する

梶田:まあ、それもすべて因縁次第でね。その時々で、話が届く場合もあれば、届かない場合もある。それは、私ひとりの力ではどうにもならないので。法然上人も「阿弥陀仏も力およばず」といったようなことばを遺されています。阿弥陀仏でも信じさせることができないんだから、どうして私なんかにできるものか、と。法然上人がこのことばを遺してくださったことは、私にとっては、とてもありがたいことですね。

小出:阿弥陀さまの本質というのは、まあ、決してことばにはできないものでしょうけれど、あえて表現するなら、どういったものなのでしょう?

梶田:阿弥陀さまの本質は、やっぱり本願でしょう。

小出:本願、ですか?

梶田:みんなを目覚めさせたいという願い。その願いというのは、普段は、私たちの中に眠っています。でも、それは、私たちが「南無阿弥陀仏」をとなえることで目覚めさせられていくんですね。

小出:願いが目覚めさせられていく……。

梶田:みんなと一緒に目覚めたい、みんなで一緒に仏さまになりたい、さとりたい。そういう願いが、念仏によって目覚めさせられていく。まあ、それが現代的な念仏の物語でしょうね。

小出:昔は違ったのでしょうか?

梶田:法然上人の登場以前は、阿弥陀仏の世界が西方にあって、自分は死後そこに行って仏さまにしてもらうのだ、というのが、一般的な、念仏に託された物語だったと思うんです。でも、現代に即して言えば、やはり、みんなばらばらの考え方、感じ方をもって暮らしているけれど、最後は一緒に目覚めたいよね、という共通の願いのもとに生きていく。そういう物語として受け止めたらいいのではないか、と。

小出:なるほど。

梶田:阿弥陀仏の存在は、あくまで主観的事実であって、客観的事実であるわけではありませんので。明治期に活躍した宗教哲学者・清沢満之(きよざわまんし)も言っています。「私どもは神佛が存在するがゆえに神佛を信じるのではない。私どもが神佛を信ずるが故に、私どもに対して神佛が存在するのである」と。信じたいかどうか、大切なのはそこであって、神や仏が客観的に存在するから信じるのではありません、ということですね。それと同じようなことを、たとえば親鸞聖人は、「ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということばであらわされたのでしょう。

念仏をとなえても即座に苦しみが消えるわけではない

小出:また少し話は変わるんですけれど、私、法然さんの臨終の際のエピソードが大好きなんですよ。こんな話を本で読んだんです。法然さんは、念仏をとなえれば、必ず浄土で阿弥陀さまに救い取っていただけるんだ、ということをお説きになった方ですけれど、いざ、最期を迎えるときに、お弟子さんたちはさすがに心配をして、当時の慣習にのっとって、臨終の際の儀式をしようとしたらしいんですね。たとえば阿弥陀像の指と、法然さんの指を五色の糸で結んで往生を願うとか……。でも、法然さんは「そんなことはしなくていい」「必ず救い取ってくださることはわかっているんだから」と言って、お弟子さんたちを制して、そのまま息を引き取られた、と。これはすさまじいお話だなあ、と。最後まで他力の道をまっすぐに歩まれた、その法然さんのおこころに、なにか、涙が出てきてしまうんです。

梶田:そうですか。

小出:法然さんが他力の道を見出されてからの数十年間が、その臨終の際のお姿に凝縮されているような気がして。どんなに肝の据わった人でも、いざ死を目前にしたら、平常心でいることはなかなか難しいことだと思うんです。でも、このエピソードの中の法然さんは、まあ、もちろん、事実はどうだったのかはもちろんわかりませんけれど、とにかくゆったりと落ち着いていて、阿弥陀さまの救いを、完全に信じ切って、まかせ切って、ゆだね切っているように感じられるんですね。そのときの法然さんのおこころの中は、ものすごく穏やかで、安心感に満たされていたんだろうな、と。法然さんの心中に、他力の道、念仏の道の真骨頂を見るような気がして……。素敵だなあ、こういう風に生きてみたいなあ、と憧れてしまいます。

梶田:そうですね。もちろん、向こうで必ず救い取ってくださる存在を信じることができれば、信じないよりは、こころ安らかに生きていくことができる、というのはあるでしょう。しかし、その一方で、先ほども申しましたけれども、人間は、人間である限り、自分の物語を生きていくしかない。一瞬一瞬悩みながら生きていくしかないので。だから、いくら念仏を申していても、苦しみが消えることはないんですよ。苦しみながら生きていくのが人間の姿であるし、それは一生解決することはない。

小出:そうですか……。

梶田:しかし、「そもそも解決することはない」ということを知ることで、自分の物語が相対化されて、少し楽になるかもしれない。でも、楽になったからと言って、ずっと楽であるかというとそうではなくて、また自分の物語に執着してしまうこともある。そんなときに、また、大きな物語が意味を持ってくるという話なんですね。

小出:行ったり来たり、なんですね。

梶田:そうです。行ったり来たり、揺れながら、自分の小さな物語にこだわりながら、大きな物語にどこかで支えてもらいながら生きていくその姿が、念仏とともに生きていく姿であると、私は思っています。

小出:なるほど……。

物語を信じて生きていくことがそのままよろこびとなっていく

小出:あの、かなり失礼な質問になってしまうかもしれませんが、梶田さんご自身はいかがですか? ご自身の往生を確信されていますか?

梶田:そうですね。ありがたいことに、40年以上念仏をとなえてきたおかげで、そこに関しては解決していますね。

小出:そうですか。

梶田:もちろん、最初は、私を往生させてください、というような願いの中で念仏をとなえているようなこともありましたけれど、長年やっているうちに、そこに関しては私の中では安心できてきましたので、今は、私自身の往生ではなくて、みなさんと一緒に往生すること、最後には一緒に目覚めさせていただくこと、それが「南無阿弥陀仏」になっています。そこまでいけば、まあ、さとれないなりに、自分や他人に対して寛容に生きていけるようになりますね。まあ、往生を確信すると言っても、その物語がほんとうのことかどうかはどちらでもいいんですよ。そもそもわかりようのないことなので。

小出:生きている限り、わかりようがないですよね。

梶田:でも、わからないならわからないなりに、その物語を信じて生きていくことが、自分のよろこびになっているという実感はあります。

小出:しかし、よろこびの中で生きていらっしゃるのであれば、それは、すでに「救われている」と言っても良いのではないでしょうか?

梶田:それはどうでしょうか。現代においては「救い」ということばにいろんなイメージが付きすぎてしまっているという事情がありますので……。

小出:確かに、「救い」と聞くと、悲しみや怒りなどのネガティブな感情から完全にフリーになる、みたいなイメージが、どうしても湧いてきてしまいます。

梶田:そういうことではなくて、必ず自分をおさめとって捨てることがない阿弥陀仏という存在を信じること、それを他力においては「救い」と呼ぶのですね。そこに安心がある、と考えます。

小出:その「安心」というのも、不安の対極にあるものではなくて、不安すら包み込んでしまうような……。怒りとか、悲しみとか、ありとあらゆる思いや感情は、大きな物語に出会った以後も、相変わらず浮かんでくるけれど、それでも、ベースのところに、阿弥陀さまが必ず救いとってくださるんだ、という安心感があるから、もがきながらも生きていける。そういうことでしょうか。

梶田:そうですね。もがきながら生きるしかないという覚悟ができていくんですね。今ここにあらわれている因縁の中で生きるしかないんだ、それが私のかけがえのない人生なんだ、と。

日本仏教のあり方は世界への見本となる

小出:浄土教というと、どうしても死後の世界のことを説いているようなイメージが一般的にあると思うんですけれど、やはり、基本は、今、ここにおいて、この私がどう生きていくのか、そこにあるんですね。

梶田:私はそのように考えています。

小出:梶田さんはそのようにして生きていらっしゃる、と。それにしても、今日あらためて感じたのですが、梶田さんは、徹底して「これは私の理解です」「それ以外の物語もあっていいんです」といったところからお話をされますよね。その、とてもあたたかいんだけれど、どこかクールと言いますか、なにごとにも「絶対」ということばを付与することがない。そういう立ち方、それ自体に、大きな学びをいただいている気がします。

梶田:なににおいてもひとくくりにすることはできませんからね。仏教にだってさまざまな宗派があるわけでしょう。でも、それが共存してきたというのが、仏教のまことに素晴らしいところだと私は思うんですね。だから、仏教は、そこを、世界に見本として示す役割があるのではないかと。

小出:ああ……。

梶田:日本の仏教には、念仏もあれば、禅もあれば、お題目もあれば、密教もあれば、という風に、それぞれに異なった実践と信心のあり方が、それぞれの物語として共存し続けてきた。それを可能にしたのは、最後はみんなで目覚めようという大きな願いを共通して持っているからだと思うんですね。これは、世界宗教としての仏教としていちばん大事なところです。だから、今、禅が世界に広まっていますけれど、それも、禅だけが仏教で、それ以外は仏教じゃない、みたいな風に間違ったかたちで伝わってしまったら、本質的なところが見落とされてしまうような気はしていますね。

小出:自分の物語や、自分の信じている物語が、自分にとってかけがえのないものであるように、他人の物語や、他人の信じている物語は、他人にとってかけがえのないものであるということに思いをいたせば、互いに尊重し合える。そして、それぞれに違う物語を生きていたとしても、最後にはみんなで一緒に救われたい、という共通の願いを持つことは可能である、と……。

梶田:そういうことですね。

小出:それは、まさしく希望です。なんと言いますか、今、このタイミングで、梶田さんのお話をうかがえてよかったです。なにか、こう、じわじわとこころにしみわたっていくような……。今日はほんとうの意味での「世界平和」への大きなヒントをたくさんいただけた気がします。梶田さん、ほんとうにありがとうございました。

梶田:ありがとうございました。

 

梶田真章(かじた・しんしょう)

1956年、浄土宗大本山黒谷金戒光明寺の塔頭、常光院に生まれる。
1980年、大阪外国語大学ドイツ語科卒業。
1984年、法然院第31代貫主に就任、現在に至る。

1985年、境内の環境を生かして「法然院森の教室」を始める。
1993年、境内に「共生き堂(ともいきどう)〔法然院森のセンター〕」を新築、この建物を拠点に自然環境と親しむ活動を行う市民グループ「フィールドソサイエティー」の顧問に就任。
現在、NPO法人和の学校理事。きょうとNPOセンター副理事長。
アーティストの発表の場やシンポジウムの会場として寺を開放し、法話を数多く行う。

著書に『ありのまま―ていねいに暮らす、楽に生きる。』(村松美賀子=構成・文 リトルモア=刊)など。

 

※「まいてら新聞」【梶田真章さん(僧侶)の“いのち”観】 – 「願い」のシンボルとなり、この世にはたらきかけ続けていく – も、あわせておたのしみください。

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