撮影:佐伯慎亮

「チクショー」という気持ちすら南無阿弥陀仏

小出:こんなにユニークで、唯一無二の存在感を持つアーティストさんなのに、活動のスタンスやその歴史があくまで控え目というか、「私が!」を押し出すまでもなく、ごくごく自然な流れの中で、いまのスタイルが形成されていったというのが面白いです。

二階堂:いやいや、控え目だなんて、そんなことぜんぜんないんですよ(笑)。ほんとうにね、「もっと認められたい!」みたいな気持ちは、もちろん、ずーっとありましたから。まあ、最近はね、歳もとったし、あんまりそうは思わなくなってきたけれど。昔は、やっぱり、常に、くすぶりとか、嫉妬とかが渦巻いていたし。ぜんぜん綺麗なもんじゃないです。だから、ある意味「がめつさ」で、ぜんぶの縁を、こう、がっ、がっ、がっ、ってかき集めて、ようやく活動していたみたいなところもあって。もう、7割ぐらいは負のパワーで、「チクショー!」みたいな感じで動いていましたね(笑)。いまでもそういうところはありますし。

小出:でも、もし、負のパワーで動いてこられたのだとしても、そのおかげでこれまでの素晴らしい歌が生まれてきたのだとしたら、すべて、ありがたいご縁だったんだなあ、と。って、ごめんなさい。自分が経験していないから、こんな風に無責任に言えるのかもしれませんが……。

二階堂:いや、でも、ほんとうにそうなんですよね。負の感情がなければ、いまの歌は生まれてきていないし、いまの活動の形態も生まれてはいないので。それがなくては仕方なかった。いまの私にはなっていなかったんだな、って。だからこそ、浄土真宗なんですよね。私には浄土真宗しかない。お念仏を、南無阿弥陀仏をとなえるしかない感じなんですけれど。

小出:ああ……。ものすごく共感します。自分にとって不都合なものから目を背けていても仕方がないというか。そこから生まれてくるものって確実にあるので。だから、冗談でもなんでもなく、「チクショー」という気持ちすら南無阿弥陀仏(笑)。

二階堂:ねえ、ほんとうに(笑)。私の曲を聴いてくれる方々、ライブに来てくれるお客さんも、きっとね、みんなそうだと思うんですよ。一枚ぺろっと皮をはがしたら、ほんとうは、みんな、結構ぐちゃぐちゃしたものを抱えているはずで。親鸞先輩もおっしゃっているしね。「人間、どうやったって、どうしようもないものなんだ」って。すみません、ちょっとざっくりしすぎた言い方しましたけど。

小出:大先輩がそうおっしゃるのなら間違いないですよね(笑)。いや、ほんとうに、自分自身の在り方を振り返ってみてもそう思います。人間って、心底、どうしようもない生き物なんだなあって……。

二階堂:だからこそ、そういう自分の中の汚いというか、ぐちゃぐちゃした部分をお互いに「ドサッ!」と出して、「わっはっは!」「わっはっは!」みたいな(笑)。私も出すから、みんなにも出してもらって、お互いに「だよね!」「人間ってそんなもんだよね!」みたいな感じになれたらいいな、って。

小出:二階堂さんの音楽を聴くと、表面的にじゃなく、おなかの底の方からじわじわと元気が湧いてくるのですが、そのカラクリが、いま、明らかになった気がします。自分を、そのまま、まるごと受けとめてもらえるから、なんですね。

二階堂:いやあ……(笑)。ありがとうございます。ほんとうにね、音楽の力ってそこにあると思っていて。私自身、その力をすごく感じながら歌わせてもらっているので、受け手の方にもそう思ってもらえるのだったら、こんなにしあわせなことはないです。

「ナシだけど、アリだよね」と受けとめることから始まるものがある

小出:いまのお話をお伺いしていても思ったんですけれど、二階堂さんの歌って、聴き手を裁くことがないんですよね。懐がとにかく深いというか……。「仕方ないよね」「そうなっちゃっているんだもんね」みたいな感じの、おおらかな受容の心がベースにある。こちらがそこにどんな感情を乗っけても、絶対に拒絶されることがない。

二階堂:ああ、なるほど。

小出:だから、決して「がんばれ!」とか「大丈夫!」とか、そういうポジティブな励ましのことばが歌詞に並んでいるわけじゃないのに、すごく心が動かされて、あたたまって、また、人生に向かう力をもらえるんですよね。

二階堂:それはうれしいですねえ。歌ってそういうものであって欲しいな、って、自分自身、聴き手としてそう思うので。もちろんそれには仏教の影響もあるし、自分自身が自分のことを受けいれるために書いているっていうのもあるんですけれど。私もね、結構悲観的になってしまって、「なんで私ってこうなんだろう」とか、「なんであんなことしちゃったんだろう」とかって思うこともしょっちゅうなんです。そういうときに、それこそ「ナシだけど、アリだよね」って、常に自分に向けて言っているようなところがあるんですよ。

小出:「ナシだけど、アリ」ですか。

二階堂:完全に肯定でもないけれど、でも否定もしないというかね。だから、「仕方ない」ということばって、ちょっとネガティブなイメージが強いけれど、私はそんなに嫌いじゃなくて。だって仕方ないものは仕方ないから。もちろんね、いまの政治の状況とか、「仕方ない」のひとことで済ませたくはないことだってたくさんあるけれど……。

小出:ほんとうにそうなんですよね……。でも、まずは、すでにそうなってしまっているものを受けとめないことには、やっぱり、なにも始まらない。

二階堂:そう。「仕方ないな」って受けとめたところから、じゃあ、これから先、どうやって肯定的に進んでいこうか、という発想が生まれてくるので。やっぱりね、生きていれば、壁にはぜったいにぶつかるから。なにをやっていてもすぐぶつかるから。

小出:お釈迦さまも、そもそものはじめから「人生は苦である」っておっしゃっていますものね。

二階堂:ねえ。大前提としてそれがあるんですよね。壁にぶつかって、乗り越えて、ぶつかって、乗り越えて……。人生、常にそれの繰り返しなんだから、そんなにいちいち「ガーン!」ってならなくてもいいんだよ、みたいな。まずはその事実を受けとめた先に、壁を乗り越えていく力も湧いてくるから。その「受けとめる」というところで、歌や宗教はそっと私たちに寄り添って、助けになってくれるんじゃないかな。

小出:なるほど……。「そっと寄り添う」っていうのが、いいなあと思います。無理やり励ますとか、力づけるとかじゃないんですよね。

二階堂:そうそう。だから、音楽でやれることと、宗教でやれることって、実はとても近いんですよね。年々重なってくる。私も外側からのはたらきかけでここまで導かれてきましたけれど、ああ、やっぱり、ここにやるべきことがあるんだなって、最近になって、すごく実感しています。

自分の中の動物の部分を大切に

小出:いまお話ししていたみたいに、二階堂さんの思想というか、生き方がそのまま曲に反映されていて、そこに私たち聴き手はくつろげる。それも、もちろん、ひとつ確実にあります。それと、もうひとつ、音楽って「音」を「楽しむ」と書きますけれど、二階堂さんご自身が、本気で音を楽しんでいらっしゃる。……というより、音楽そのものになって、それを味わい尽くしていらっしゃる。そのお姿に、私たち受け手は大きな力をいただいているんです。

二階堂:ああ、でもね、音楽そのものを味わい尽くすということで言えば、それは決して私だけに与えられた特殊な能力じゃなくて、ほんとうは誰もができることだと思うんです。私だって、ごくごく普通の家庭に生まれ育って、音楽的な知識もないし、楽譜も読めないし、ピアノも弾けないし、もう、ほんとうに申し訳ないぐらいなんですけれど、でも、身体に備わっている、こう、動物的な感覚? そこをちょっと意識すれば……。別にぜんぜん難しいことじゃなくて、みんなあると思うんですよ。たとえば、歳をとってくると化繊の服が着られなくなってくるとか……(笑)。

小出:それはありますね(笑)。私も、もう、肌に直接触れる部分のものは、天然素材じゃないと無理です。

二階堂:ねえ。だんだん身体がわがままになってくるというか、本来の姿に戻りたくなってくるんですよね。そういう、自分の中の動物の部分に立ち返るセンスを、もう少し取り戻せば、よろこびにも、きっと、より敏感になれるんじゃないかな。たぶんね、私の音楽を楽しんでくださる方々っていうのは、そういう動物的な感性に身をゆだねる努力を、無意識のうちにしているような人たちなんじゃないかなって思うんですけれど。

小出:その「動物的な感性」というのは、たぶん、そのまま「いのちを直に生きる力」と言い換えられると思うんですね。いのちって、もちろん大前提として「ありがたい」ものなんですけれど、でも決して仏壇や神棚に後生大事にしまいこんでおくようなものじゃない。いのちは、ほんとうに、いつだってここにあって、それこそ感性がちゃんと開かれていれば、いつでも、どこでも、それこそ、まさしくいまここにおいて、直にその躍動を感じられるし、それをそのまま生きられるものだと私は思っていて。

二階堂:うん、そうですよね。

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