松本紹圭さんとの対話/今、いのちがあなたを生きている

2018年9月13日

いのちはさっぱりわからないもの

松本:でも、ほんとうに、いのちってなんなんでしょうね。わからないですよ、正直なところ。

小出:いのちは、わからないですよね。

松本:さっぱりわからないですよ。さっぱりわからなくて……不思議ですよね。

小出:そうなんです。ほんとうに「いのちはさっぱりわからないもの」「不思議なもの」としか言えないなあ、って。そのことだけははっきりわかっているっていう(笑)。

松本:そうだよね。

小出:もうね、ほんとうにさっぱりわからない。「わかった!」と思った時期もあったんですけれど、結局ぜんぶ勘違いだったなあ、って……。

松本:「わかりたい」と思うから、「なんだろう?」って、その正体を探すわけじゃないですか。そうやって探していく中で、「これかもしれない!」とか、「ああ、そういうことか!」とか、そういう感覚が出てくるでしょ。仏教の中から見つかる場合もあるし、いろんな思想の中から見つかる場合もあるし。あるいはそういう概念的なことばかりじゃなくて、身体性をともなった気づきだったり、なにか特別な感情だったりが湧いてくることもあるし。

小出:ありますよね。

松本:そういう風にして、「少しわかってきた」とか、「だんだんわかってきた」とか、そういう風に思っていた時期も、確かにあったと思うんですよね。だけど、最近、僕はそんなになにかをわかろうともしていないし、「なぜ?」っていう疑問が生まれてこなくなってきていると感じます。

小出:ああ……。実は私もそうなんです。「なぜ?」がなくなってきてしまって。刻々と目の前に展開されていくすべてを、受けいれるという意識もないままに、ただ淡々と受けいれているだけ、みたいな。だからね、聞きたいことがない。疑問がないから質問ができない(笑)。

松本:小出さん、インタビュアーなのに聞きたいことがないって(笑)。

小出:困りましたね(笑)。でも、松本さんも同じ感じでしょ? だから「聞きたいことがなくなったよね」っていうお話ならできるよね、と思って。

松本:いいじゃない。Templeらしいじゃない。

小出:ということで、「いのちからはじまる話をしよう」なんですよ。それに、これはインタビューじゃなくてダイアローグなので。聞きたいことがなくても、もっと言えば話したいことがなくても、実はなんの問題にもならない。その場その場でかならずなんらかの対話は起きてくるので。それにおまかせしちゃえ! っていう無責任で自由な企画です(笑)。

アホで困ることなんかない!

小出:かならずなにかが起きてくるっていうのは、対話に限らず、すべてにおいてそうなんですよね。たとえば、私、ここ2年半ぐらい、毎朝かならずブログを更新しているんですね。一日も欠かさず。でも、それだって別に毎日特別に書きたいことがあるわけじゃなくて。でも机に向かったら、なんだかよくわからないけれど、書くことが出てくるので。それにまかせている感じですね。

松本:うん。

小出:前はね、もっと、「書きたい!」「書かなきゃ!」って、なにか強いパッションとか義務感とかを持ってやっていたような気がするんですけれど、最近では、もう、そういうのはなくなっちゃって。それでも「書く」ということが起きているから、毎日更新し続けているだけっていう。

松本:なぜ書き続けるのかとも思わずに。

小出:そう。理由なんてないですよね。ただ書いて、アップするということが起きているだけ。本人としては、ただ淡々と、やろうとも思わずにやっています。でも、誰かに、「なんで毎日書いているの?」って聞かれたら、そのときにそれなりの答えがあたまの中にフワッて浮かぶからそれを答えるけれど、でもそんなのはぜんぶ後付けに過ぎなくて。うーん……。後付けっていうか、出まかせっていうか……(笑)。

松本:まあ、アホですよね(笑)。

小出:ほんと、どんどんアホになっちゃって(笑)。でもアホで困ることって、別に無いなあ、って。それこそ、いつか、曹洞宗の藤田一照さんが「lifeのアジェンダ」ということばでおっしゃっていたけれど、いつだって、lifeの要請というか、いのちそのものの表現として、目の前に自分のやるべきこと……やるべきことっていうか、すでにやっちゃっていることっていうのは自然にあらわれてくるから、ただ、それに乗っかっていけばいい、みたいな感じです。ほんとうにそれだけだな、って。あたまであれこれ考えなくても、縁の中で、ごくごく自然に行動は起きてくるので。

松本:そうなんだよね。でもどうしても、社会というか周りの人が、「なぜ?」「どうして?」って聞いてくるから、うーん、じゃあ、なにか答えなきゃな、となる。

小出:もっともらしいことをね(笑)。でも、その「もっともらしい答え」すら、life、いのちの表現として、その場その場で自然にあらわれてくれるから、もうほんと、おまかせするしかないなって。

いつだって南無阿弥陀仏が聞こえますよ

松本:だから「いのちってなに?」っていう問いに、あえて答えるとしたら、「これです」って言うしかないよね。

小出:This is it. って。ほんとうにね。

松本:「これ」だし、「これ」以外にない。

小出:いや、ほんと「これ」しかないんですよね。文字通りの「これ」。いまここに展開している、「これ」がすべて。「これ」がいのち。いのちのすべて。

松本:すべてでもあるし、かつ、どれでもない。

小出:そう、同時にどれでもない。「これ」って言った瞬間に、もうそれは消えていて、絶対に指し示せなくて……。いや、もう、ほんとうに不思議。とにかくわからない(笑)。

松本:わけがわからないですね。

小出:うん。でも、そのわけがわからないこと自体に、なんか感動してしまうことってないですか? こんなにわけのわからないことが、それでも毎瞬毎瞬起こっていて、でもほんとうはなにも起こっていなくて……。感動しますよ。誰が感動しているのかはわからないんだけれども、ただ感動と呼ぶしかないものが湧き上がってくる。これはすごいことだな、って。

松本:うん。

小出:もう、大げさじゃなく、毎朝目が覚めたときから感動していますよ。だって、目を覚ますことひとつとっても、自分の意志でやっているわけじゃないので。「目を覚まそう!」と思って目を覚ますことなんかできないんですよね。それができるなら、その人、すでに目覚めているわけで(笑)。そう考えると、毎朝目が覚めるということ自体が奇跡ですよね。で、目を覚まして、からだを起こして、窓の外には朝の風景が広がっていて。晴れていても、降っていても、ぜんぶいのちの表現としてごくごく自然にそのようにパーンとあらわれていて。「私」がなにかをする前から、すでにすべてはととのっていて……。これはすごいなあって。ありがたいことだなあって。

松本:すごいね。念仏ばあさんの話を聞いているみたいだ(笑)。

小出:いや、ほんと、リアルに南無阿弥陀仏が聞こえるような感じで。毎瞬。どこにいても、なにをしていても。冗談じゃなくてね。

松本:うん、わかるよ。

ラベルはなにひとつ「私」を指し示していない

松本:最近、留学を目指す学生さんたちに向けてお話をする機会があったんですね。「グローバルリーダーとはどういう人か?」というテーマで。

小出:グローバルリーダーですか。

松本:これまで、僕は、たまたま、ダボス会議などに出させていただく機会があって、おかげでいろんな種類の、いわゆるグローバルリーダーたちに会うことができたんですね。王様系の人とか、スーパーお金持ちの人とか、スーパー政治家とか……。その中で感じたのは、結局、リーダーは、なにを持っているとか、どういう立場であるとか、そういうのは全然関係なくって。あり方として、人を人として見る人たち。そういうのがグローバルリーダーと呼ばれるにふさわしい人たちなんだろうと思うようになりました。

小出:あり方として。なるほど。

松本:日本のビジネス社会でよく感じることなんだけど、名刺交換をしても、肩書きと肩書きが出会っているみたいな感じで、人と人とが出会っていない。個人ひとりひとりも、自分というものを、肩書きとかラベルで規定する傾向が強い。私にはこういう業績があって、こういう学歴があって、これだけお金を持っていて、こういう家族構成で、とかね。でも、それは、実はなにひとつ「私」を指しているわけじゃないんですよね。

小出:そうなんですよね。どうしても忘れてしまいがちだけど。

松本:うん。ラベルにあまりにも依存し過ぎてしまっている現状がある。でも、どんな人だって、結局、突き詰めれば、せいぜい「人」としか言えないわけで。リーダーと言われるような人はそこをわかっている人たちだって言えるんじゃないかと思います。人と出会うときに、ちゃんと相手を人として見る人たち。

小出:ラベルじゃなくて、人を見る人たち。

松本:だから、たとえば街中でみすぼらしい格好をしている人と出会っても、こんなやつは俺が話すような相手ではない、とかいう風に見ない。人を差別しない。同時に、あらゆる人はみんなそれぞれ違うっていうこともちゃんとわかっている。そうして目の前にある、いま出会ったことに100パーセント、コミットしていく。そういうあり方だと思うんですよ。

小出:そういうことをしていればやがて成功するだろうとか、そういう計算で動くわけじゃなくて。

松本:成功とか失敗とか、そういう発想自体が失敗なんじゃないかなって、僕は思うんですよ。そういう発想をするということは、成功という第三者による客観的な物差しがあって、それで計れるものだと思っているっていうことでしょ。でも、成功も失敗も、ほんとうは自分にしか決められないものじゃないですか。もちろん、成功も失敗もない、という言い方もできるけれども。でも、少なくとも、他人に決められることじゃないよね。

小出:ほんとうに、そうですよね。

ラベルを自分だと思っているうちはいのちに出会えない

松本:それで、大事なのは、自分で決める、って言ったときの「自分」っていうのが、いったいなんなのかっていうところで。

小出:うん。

松本:自分で決めていると思いながら、ほとんどの人が、結局は他人に決められるような人生を送っているんですよ。なぜかと言うと、自分自身をラベルで見ているから。他人から与えられたラベルを自分だと思い成しているから。ラベルを見て、それを自分だと思い成しているような、そういう「自分」のとらえ方をしている限り、いつまで経っても「わたし」に出会えないし、「いのち」に出会えない。まあ、それはそういうかたちでいのちに出会っているとも言えるけれど、十分にappreciateできないわけですよね。

小出:ほんとうの意味での感謝、感動は起こってこないですよね。

松本:ラベルは怖いものですよね。ことばもそうだけど。

小出:ことば自体がね……。

松本:人間って、やっぱり、日々いろんな問いをもって、そこに答えを求めようとするでしょう。安心したいんだよね。ことばで片付けて安心したくなっちゃう。

小出:片が付いたように思いたくなっちゃうんですよね。

松本:だけど、「あっ、これはこういう理由だからか。なるほど!」って言ったときですら、ほんとうは片なんか付いていなくて、そこには不思議しかないはずで……。