「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私は、バランストレーナーとして、数々の著名なアスリートをご指導されている小関勲さんをお訪ねしました。
私が最初に小関さんにお会いしたのは、今年の7月に、私もお手伝いしている藤田一照さんの仏教塾(仏教的人生学科一照研究室)の特別イベントに、ゲストとしてお越しいただいたときでした。小関さんのおだやかなたたずまいと落ち着いた口ぶりからにじみ出る「ただあるもの」「ただある世界」への圧倒的な信頼感に、私は、一瞬で魅了されてしまいました。
「ここには、なにか、“ほんとう”のことがある!」……あのときの興奮を、いまでも生々しく覚えています。
小関さんは、最近、感度の高い人たちの間で話題になっている「ヒモトレ」の発案者でもいらっしゃいます。ヒモをゆる~くカラダに巻いておくだけで、自然とバランスがととのい、無理なく大きな気づきを得られるという画期的なものです。私の周りにも、じわじわと実践者の輪が広がっていっています。もちろん、私も毎日試しています。
無理になにかをしようとしなくても、あるいは無理になにかを手放そうとしなくても、すでに、すべては、完璧にととのっている―― そのことに気づくことさえできたら、人間は、もっと楽に、もっとたのしく、もっと自由に、ただあるいのちを生きていくことができるのではないだろうか……。ヒモトレを通して得たその直観は、今回、小関さんとじっくり対話をする中で、確信に変わりました。
記事を通して、みなさんにも、気づきのための大きなヒントが与えられることを祈っています。どうぞ、最後までじっくりとおたのしみくださいませ◎
本来的な「ある」を前提に……
小出:小関さんは「バランストレーナー」としてご活躍されているわけですけれど、具体的にスポーツ選手の方々にどんなご指導をされているのが、正直、イメージがつかないようなところがあったんですね。でも、藤田一照さんの仏教塾のイベントのときに、小関さんが、あるデモンストレーションをなさって。それで、「ああ、バランスって、こういうことか!」って、一瞬で腑に落ちたんですよ。
小関:そうでしたか。僕、どんなことしましたっけ?(笑)
小出:会場の参加者の方に、「イスに座ったままで、自分のカラダの中心を探ってください」という風に呼びかけられて。みなさんそれぞれに一生懸命探るわけですよね。でも、小関さん、「はい、いまみなさんが中心だと思っているところ、残念ながら、ぜんぶ真ん中ではありません」って(笑)。
小関:ああ、「それはぜんぶ偏りです」って。
小出:そうそう!
小関:自分自身が偏っているというところから入るというのがとても重要なんです。さらなる自己肯定のために、前向きに自分を疑う。真ん中って、自分が把握できないところにありますから。
小出:前向きに自分を疑う! そういうことだったんですね……。それで、みなさんが「ええ~? これ、真ん中じゃないの!?」ってびっくりしているところに、「じゃあ、今度は自分が座っているところから、上半身をゆっくりぐる~っと回してみてください」「回し終わったら、中心に、トンッとカラダを置いてください」「それが真ん中です」って。これがね、やってみたら、もう、ほんとうにしみじみと、「うわあ、これが真ん中だ」って、理屈を超えて納得してしまったんですよ。ほんとうに一瞬だった! ……と同時に、「これが小関さんのおっしゃる“バランス”の世界なのか!」っていうのが、ストンと理解できた気がして。とにかく、基本はすごくシンプル。ただ「ある」いのちを信頼していくだけ。そこを「バランス」ということを通して伝えていらっしゃるんじゃないかな、って。
小関:そうですね。僕は「本来ある」というのを前提においてアドバイスや指導をさせていただいています。
小出:すでに「ある」ものを見出していくというか、ただそこに気づいていく。そこがメインなんですね。
「過不足」をなくせば見えてくるものがある
小関:ただ、その前提としての「ある」って、普段の生活の中ではなかなか見えてこないんですよ。
小出:そこが難しいところで……。なにが「ある」を見出すことを邪魔しているんでしょう?
小関:ひとことで言えば、「過不足」ですね。
小出:ああ。じゃあ、さっきのは「過不足」のうちの「過剰」の方の例だったんですね。「真ん中を見つけよう!」と頑張ってしまう、その力みが、すでに「ある」真ん中を見えなくしてしまう、と。
小関:そういうことです。たとえば……さっそくですけれど、小出さん、ちょっと立ってもらっていいですか?
小出:はい。
小関:少し足を開いて、腰を落として。膝も曲げて。どこにも力を入れないで、かつ、しっかり立ってみてください。
小出:こうですか?
小関:OKです。この状態で僕がグッと小出さんの腰を押してみます。……耐えられますよね?
小出:うん、大丈夫です。
小関:じゃあ今度はグッとおなかに力を入れて腹筋を固めてみてください。はい。さっきと同じように押しますね。
小出:……あれ? よろけちゃう。ぜんぜんダメです。力が入らない。
小関:そうなんです。逆に力が入らなくなっちゃうんですよ。じゃあもう一回、どこにも力を入れないで、しっかり立っていてください。
小出:はい。
小関:もう一回、さっきと同じように押しますよ。
小出:あ、今度は大丈夫です。耐えられます。……ええ~?(笑) ちょっと不思議ですね。腹筋に力を入れない方が、逆にカラダは安定するんだ。
小関:これ、わかりやすいでしょう? 力を入れようと頑張りすぎると、逆にうまくいかなくなるっていう。でも、やり過ぎをやめれば、その瞬間に見えてくるものがあるんですね。でも、指示の出し方も、よく聞いてみると変なんですよ。「力を入れず、しっかり立ってください」なんて(笑)。
小出:言われてみればそうですね……。でも、なんとなくできちゃいましたね。
小関:それが「カラダ」なんです。
小出:!!!
カラダは一部分だけで動いているわけではない
小出:カラダは一見して矛盾するようなふたつの事象を、なんの矛盾もなく、そのまま受け入れているんですね……。納得しました。過不足がなければ、そのことがなんのジャンプもなく見えてくるんだ。
小関:そう、すでにカラダに備わっている「全体性」が景色みたいに見えてくるんです。
小出:全体性ですか。
小関:カラダって決して一部分だけで動いているわけではないんですよ。全体が最小単位の一個なんです。
小出:全体が最小単位の一個?
小関:そうなんです。
小関:では、今度はヒモを使って試してみましょうか。
小出:出ました! 最近話題の「ヒモトレ」ですね! 雑誌『anan』の「カラダにいいもの大賞」でグランプリを受賞した……。
小関:はい(笑)。おかげさまでいろんなところで取り上げていただいています。……じゃあ、まずはさきほどと同じように立ってもらっていいですか?
小出:はい。
小関:その状態で両肩をぐるぐる回してください。前回しでも後ろ回しでもいいので。その感じを覚えておいてくださいね。……はいOKです。じゃあ、ちょっと足を閉じていただけますか? この状態で、ヒモをお尻の下に巻いていきます。……はい、少し足を開いてください。
小出:こうですか?
小関:OKです。そうすると、ちょっとヒモに張りが出ますよね。この状態で、先ほどと同じように両肩を回してみてください。
小出:あれ……? さっきよりだいぶスムーズになった感じがしますね。
小関:回しやすくなるでしょう?
小出:肩のつまりが取れた感じがします。ええ~! 面白い!(笑)
小関:そのまま腕を回し続けてください。……いま、ヒモを外しました。ちょっと重くなったり、回しにくくなったりしませんか?
小出:ほんとだ。重いです……。
小関:もう一回つけると……。
小出:うん、楽になりますね。
小関:もう一回これを外すと……。
小出:一気に重くなりました……。ぜんぜん違いますね! 面白い!
(※お尻へのヒモの巻き方は『ひもを巻くだけで体が変わる!痛みが消える!』マキノ出版ムック などに詳しいです。)
肩回しも片足立ちも全身運動
小出:でも、不思議ですね。どうしてこういうことが起こるんですか?
小関:簡単な話で、ヒモを外すとカラダが迷ってしまうんですよ。
小出:カラダが迷う?
小関:カラダって、どこか一部分だけを動かして、ほかの部分を動かさないでいると迷ってしまうんです。言い方を変えると、僕らは普段、カラダを無理して動かしているんです。でも、お尻の下にヒモを巻くことによって、上半身と下半身の協調性を取り戻します。すると肩回しが全身運動となってスムーズになる。つまり迷わなくなるんです。普段は動きにくさや不具合として実感しています。ヒモトレで試すと、それがより明確になります。
小出:なるほど……。「下半身にもカラダはあるよ」っていうことを教えてあげるためのヒモなんですね。
小関:その自覚を作った状態で上半身を動かすと、下半身もスムーズに動いてくれるようになるんです。すると全体の動きがなめらかになる。
小出:ほんとうは、肩回しだって、下半身を含めて全身でやるものなのに、さっきは上半身だけ、肩だけでやろうとしていたんだ。だからしんどくなっちゃったんだ。
小関:そう。カラダって、本来、ぜんぶがつながっているので。どこか一部分を使って、ほかの部分を使わないっていうのは、実はものすごく不自然なことなんですね。肩回しは肩回しという全身運動だし、片足立ちは片足立ちという名の全身運動なんですよ。でも「片足立ちをしてください」っていうと、みんなどうしても片足だけで頑張ってしまう。だからしんどくなってしまう。ぜんぶそうですよ。だから、ことばにだまされないよう、注意が必要です(笑)。
小出:ことばにだまされて全体性を見失うと動きが不自然になって、カラダに負担がかかる。結果、しんどくなってしまう、と……。
小関:そういうことですね。カラダが教えてくれるんです。
「わかる」は「わける」
小出:全体性というのは、さきほどもおっしゃっていましたけれど、ほんとうはすでに「ある」ものなんですよね。
小関:そうです。でも、それは意識ではとらえられないんですよ。
小出:意識では全体性をとらえられない?
小関:無理なんですよ。自分のカラダの部位は、意識でとらえられるんです。腕があるな、脚があるな、体幹があるな、っていう風に。わかりますよね? 腕や脚があるっていうことは。
小出:はい。肘も、肩も、胸も、腰も、膝も、ありますよね。
小関:うん。それらがあるっていうことがわかりますよね。でも、「わかる」っていうことは、「わける」っていうことなんですよ。そもそも意識が部分でしょう?
小出:ああ……!
小関:人間がなにかを「わかる」ためには、一度「わける」っていうことをしなきゃいけないんですね。「わける」ことが僕らの理解につながっていく。逆に言えば、意識では部分を捉えることしかできないんです。じゃあ、人間が全体性を「知る」ためには、なにをしなきゃいけないと思いますか?
小出:理解を手放す……?
小関:そうですね。理解というのは、思考の産物ですよね。思考というのは言語です。言語を使うことによって部分にフォーカスしていくわけですよね。
小出:言語を用いた瞬間に部分が生まれて、全体性を見失う、と。
小関:まあ、言語があることによって人間は文明を作ることができたので、これはこれで素晴らしい能力ではあるんですけれど。ただ、なにかを「わかろう」とする限り、それを部分にわけてしまうということが起こり続ける。すると、カラダに本来そなわっている全体性が見失われてしまって、いろいろな不具合が生じてくるというのは事実ですよね。
小出:なるほど……。
「わけられない」から「わからない」
小出:じゃあ、やっぱり、思考を使う限り、全体性のことは……
小関:ぜったいに「わからない」んですよ。なぜなら「わけられない」から。
小出:「わかった!」と言って掴んだ瞬間に、それは部分に姿を変えてしまいますものね。
小関:うん。でも、「わからない」というのは、あくまで「意識ではわからない」ということであって、意識以前のところでは、実は、すでにすべてが感受されているんです。
小出:「感受」ですか。
小関:ただ「ある」もののことは「感じる」しかないんですよ。たとえば、ちょうどいい湯加減のお風呂に入ったときに「ああ、気持ちいいな」と感じますよね。でも、自分にとっていい塩梅の温度というのは、その日の気温によっても違ってくるし、その日の体調によっても、当然、違ってくるわけです。だから、最終的には自分で湯船に浸かって確かめるしかない。
小出:確かに……。
小関:料理もそうですよね。レシピ通り作ればだいたいその通りの味にはなる。でもその日の自分にぴったりの味つけにするには、やっぱり、味見をして調整していくしかない。そこはもう自分で体感する、つまりは感受するしかないわけです。
小出:どんなに意識の上できっちり詰めて考えていっても、最終的に「ああ、これだ!」っていうのは、自分のカラダで感じなければどうにもならないんでしょうね。なににおいても。
小関:そう。本人的には、ここがこうなって、ああなって、結果、こういう風になるんだな、みたいな風にきっちり考えているつもりでも、実は意識自体がものすごく大味で、隙だらけのものなので。でも、カラダは、意識以上に細やかにいろいろなものを感受しているので、実は、そちらの方が信頼が置けるんですよね。
意識より先にカラダはすべてを感じている
小出:私も、小関さんに出会ってから、普段から肩にヒモでタスキがけをしたり、おへその周りにヒモを巻いたりして過ごすようになったんです。あれ、ほんとうにゆるく巻くだけでいいんですよね。あまりにゆるくて、ぜんぜん巻いている感じがないのに、でも確実に効果はある。ヒモトレ以前に比べて、カラダがととのってきているのがわかるんです。肩こりも緩和されたし、眠りの質もよくなったし……。
小関:ヒモトレのヒモって、ゆるく巻くことが大事なんですよ。ほとんど巻いていることすら忘れているのに、カラダは常に気づいている、という状態がベストなので。そのぐらいでも、カラダには十分に変化が起こるんですよ。でも、人間の意識は大味なものしかわからないから、ついつい「やっている感」みたいなのを大事にしたりしてしまうんですよね。
小出:ゆるく巻くだけでいいのに、きつく縛ってみたりとか……。
小関:そう。「やっている感」って、そのことを実感しているだけで、全身にどう影響するかまで見ている人は少ないんです。でも、ほんとうはそんなことをしなくても、カラダはすでにいろいろなものを感じているので。たとえば、人間、ご飯を食べますよね。なんで食べるんですか?
小出:おなかが空いたから?
小関:そう、カラダが欲したからですよね。じゃあどうしてカラダが食べものを欲しているってわかるんですか?
小出:おなかが鳴ったから?
小関:そういうことですね。カラダのシグナルによって気づくわけですよね。あ、おなかが鳴った、おなか空いたな、じゃあご飯を食べよう、って。そこは理屈を超えているんですよね。
小出:わかりやすいです(笑)。確かに、自分の意識とは無関係に、カラダは欲求を感じて、それに応じて行動をしていますね。
小関:そう。意識が気づく前に、カラダの方が先に気づいていますよね。だから緊急事態だと、カラダが先に反応してくれたりするわけですよ。熱いものに触れたら、その瞬間に、たいていの人は反射的に手を引っ込めるじゃないですか。でも、そのとき、いちいち「熱いぞ」「手を引っ込めなきゃ」「じゃあ引っ込めよう」なんてやっていないですよね。
小出:そんな悠長なことしていたらヤケドしてしまいますものね。そういうときって、考えて動くというよりは、先に反射的に手を引っ込めて、そのあとで頭で判断しているっていうのが正解なんでしょうね。ああ、熱かったから手をひっこめたんだな、って。
小関:そういうことですね。僕らって、意外に前後関係を逆にして認識していることが多いんですよ。
いのちのことはわかりようがない
小出:ほんとうは、これに限らず、ぜんぶ、「結果的に」そうなっていた、ということしかできないのかもしれないですね。
小関:結果って、「結果的に」というかたちでしか見えないんです。僕らってどうしても結果を求めてなにかをしてしまうんですけれど、それを目的や目標にしてしまうと、話がおかしくなってきてしまうんですよね。
小出:結果って、決して求めた先にあるものじゃないんですよね。それはあくまで結果であって……って、こういう風にことばにするとどうしてもややこしくなるんですけれど(笑)。さっきの話に戻れば、すべての物事は「わからない」の中で起きている、と。でも、意識では「わからない」けれど、カラダはちゃんとそれを感受してくれている。それだったら、そんなに「わからない」ことを怖がる必要はないんじゃないかな、って。
小関:そうですね。なにかが「わかる」と、かならずあたらしく「わからない」ことも生まれるわけで。そういう意味で、「わからない」ことって絶対になくならないんですよね。だから、生きるということの前提に、「わからない」ということはずーっとあるんだろうな、と思うんですけれど。
小出:いのちのことは、絶対にわからないですよね。
小関:うん。でも、わからなくてもよくて。
小出:そもそもわかりようがないんですものね。いのちは全体性そのものだから。
小関:ただ、わからない中でも、いろいろな気づきは起きてくるので。それを、ただ、大事にしていけばいいんじゃないかな、と思いますね。
小出:ゴールは設定せずに。
小関:そう、ゴールを設定するからつらくなってしまうんですよ。そんなことをせずに、過程の中で起きてくる気づきをたのしんでいけばいい。
信じなくても、理解できなくても、効果はある
小出:カラダまるごとで生きていれば、わからない中でもたのしさを味わえるんですよね。というか、ほんとうの意味での「たのしさ」っていうのはそこにしか存在しないものなのかもしれない……。でも、頭だけで生きてしまうと、わからないということそれ自体が、とにかく怖くてたまらなくて。わからないことは自分にとって脅威になり得る、だから一生懸命理解しないとダメなんだ、安心できないんだっていう風に思ってしまう。ほんとうはそんなことないのに、恐怖心があるから、その思い込みを握りしめて離せなくなってしまうんですよね。でも、ヒモトレみたいな、シンプルでわかりやすいメソッドがあると、ただ「ある」ことへの信頼感を無理なく培っていけるので。これは、ほんとうにすごくいいなあと思います。
小関:そうですね。ヒモトレは、導入として、すごくわかりやすいと思います。
小出:そういう意味では、名前こそ「ヒモトレ」だけど、これって、一般に言う「トレーニング」とはまったく趣が異なるものなんですね。
小関:そうそう。一般的なトレーニングって、なにか道具を使って「強化する」とか、「増やす」とか、「加える」とかいう方向を目指して行われますよね。その裏には、「弱い」とか、あるいは「ない」とかがあって。それがあるからこそ、こっちの方向を目指すわけですよね。でも、僕がやっているバランストレーニングとかヒモトレとかっていうのは、さっきも言いましたけれど、前提に「本来ある」をおいてやっているので。
小出:いまは「ない」けれど、これから「ある」に変えていこう、というタイプのトレーニングじゃなくて、ただ「ある」ということに気づいていくタイプのものなんだよ、ということですね。
小関:そういうことです。カラダや全体性を大事にしていくためには、最初から「ある」ものに気づくとか、見出すとか、感受するとか、そういう風にしかやりようがないんですよね。
小出:でも、その本来的な「ある」ということ自体を信頼するのって難しくて。やっぱり、人間、一生懸命努力して、無理して、必死で「ない」を「ある」に変えていくっていう物語の方が理解しやすいから。
小関:うん。なかなか「ある」を最初から理解できる人って少ないですからね。だからこそ、信頼するための試みって必要だと思うんです。その一助として、ヒモトレを使ってもらえればいいな、と。
小出:ヒモトレの効果って一瞬ですものね! 信じても信じなくても、理解できてもできなくても、やってみれば、とにかく一瞬でカラダが変わってしまう。もはやそこに行為者の思考が入り込む余地はなくて……。
ヒモトレは「自立」のきっかけになる
小関:カラダへのアプローチって、やっぱりすごく有効なんですよ。頭だけで理解しようとすると、「○○先生の言っていることだから正しいんだろう」とか、「伝統的にそう言われているから間違いはないんだろう」とか、どうしてもそういうことに頼っちゃうところがあるでしょう? それはそれでいいんですけれど、でも、それがそのまま限界をかたちづくってしまうところはあるので。要は、それって、行為の主体を自分以外の誰かやなにかに明け渡してしまうということになるわけだから。
小出:それがほんとうかどうかは、本人が自分で体感するしかないわけですものね。でも、頭での理解に頼ると、それを怠ってしまうようなことも起きてくる。つまり、ほんとうかどうかを、自分で確かめることをしなくなる。それは、確かにまずいですよね。
小関:そう。でも、ヒモトレって、実際にやってみれば、効果を疑っていてもカラダが先に変わるわけじゃないですか。そうなると、自分のカラダが自分の頭に教えてくれるんですね。すると、そこにやる人の主体性が生まれてくるんです。
小出:ヒモトレは自立のきっかけになるということですね。
小関:そうそう、自立と言えばちょっとうれしい話があって。香川県に善通寺養護学校という特別支援学校があるんですね。そこにいらっしゃる藤田五郎先生が、数年前から、生徒さんの指導にヒモトレを取り入れてくださっていて。いままで立つことができなかった子どもさんが歩けるようになったとか、嚥下障害を持っていた子どもさんの症状が緩和したとか、いろいろな例を教えてくださっているんですね。それ自体、もちろんうれしい話なんですけれど、それ以上に、その子どもさんたちに自立心が芽生えたことが僕はうれしくて。
小出:具体的にはどういったことが起きているのでしょう?
小関:最初は先生や親御さんたちが子どもさんのカラダにヒモを巻いていたんですけれど、それによってバランスがととのいはじめたら、今度は子どもさんご自身でヒモの具合を調整し始めたって言うんですよ。これって、そのまま、そのお子さんの中に体感がちゃんと生まれて、自分にとっての良し悪しの判断がつくようになった証なんですね。そして、それを自分でちゃんと伝えられるようになったっていうのは、つまりは自立できるようになったということで……。これはうれしいですよ。
小出:素晴らしいですね。
小関:本人が自立すると、周りの人も補助しやすくなるんですよね。要は相手をひとりの人として、しっかり接することができるようになるわけですから。自立って周りにも変化をもたらすんです。
自立関係で接すると、互いに心地よくいられる
小関:互いに自立関係にあると、人間、心地よくいられるんですよ。……ちょっと実際にやってみましょうか。まずはこのイスにふつうに座ってみてください。
小出:はい。
小関:この状態から、僕が小出さんの両腕をグッと引っ張って起こそうとします。やってみますね。
小出:……。
小関:わかりましたか? このやり方だと、カラダがものすごく嫌がるんですよ。
小出:そうですね。無意識のうちに抵抗が生まれました。
小関:でも、こう、背中にそっと触れて、一緒に動くようにすると……。
小出:あ、ものすごくスムーズに立ち上がれますね。
小関:このまま歩くこともできるし……座ることもできる。
小出:あれ? なんか、いつの間にか歩いて、いつの間にか座ってしまった感じがします(笑)。
小関:これって、どう起こすか、どう動かすか、という技術の話じゃないんですよ。触れているということ自体が大事なんです。触れて、伝えるっていう。
小出:確かに、小関さんの手のひらから、なにか伝わってくるものがあった気がします。ひとりの人間として尊重してもらった感触がある。だからこそ、スムーズに立ったり歩いたり座ったりできたのかも。ぐっと引っ張られたときは、自分が物みたいに扱われた気がして、それで抵抗が生まれたのかもしれない。
小関:お互いの間に自立関係があるかどうかっていうのは、とても大事な話なんです。自分がしっかり立った上で、相手との触れ合いがあった方が、実は自分も相手も楽だったりするんですよね。これをうまく応用すると、武術なんかで「いつの間にか倒されていた」みたいなことになるのかもしれませんね。
小出:ああ、そういう話、聞きますよね。武術の達人に倒されるときは一瞬だし、なにが起こっているのかわからないし、でも、まったく嫌な感じがしない、って。
小関:それは、やっぱり、そこに相手を尊重する気持ちがあるからだと思います。それがなかったら、お互いの中に、なにか嫌な感じが残ってしまいますから。
小出:面白いなあ……。
主体性と協調性が完全に共存しているのが自然のあり方
小出:そうそう、自立と言えば、小関さん、ご著書の中でこんなことをお書きになられていましたよね。「自分の中のものは自分で感じてみるしかありません。つまりバランスを保つということは、自立することにつながるのです。しかし自立とは、自分一人だけで立つということではありません。生命は関係性やバランスで成り立っています。主体性を持ちながらも協調性を持つこと。それは自然の在り方そのものではないでしょうか。」(『[小関式]心とカラダのバランス・メソッド』GAKKEN SPORTS BOOKS) これ、結構すごいことが書かれているなあ、って。
小関:ものすごい主体性と、ものすごい協調性が共存しているのが自然というものの特徴だと思うんですよ。
小出:一見、矛盾する概念が同時に共存しているのが自然のあり方だ、と。ヒモトレのキャッチフレーズも「シャッキリリラックス」ですものね。「シャッキリ」と「リラックス」って、頭で考えるとどうしても同時に成り立つはずのないものなんですけれど、実際にヒモトレをやってみれば、すぐにカラダが納得しますよね。だから、やっぱり、すでに「ある」、すでにすべてはととのっている、そのことを自分に教えるための導入として、ヒモトレはものすごく有効だなあ、って。
小関:そうですね。とにかく、やってみれば即座にわかりますから。
ヒモトレはオープンソースでなければいけない
小出:ところで、先ほども養護学校の生徒さんがご自身でヒモの具合を調整し始めたっていうお話がありましたけれど、それって、逆に言えば、自分で調整していい、っていうことですよね? その、ヒモトレのいい意味での「ざっくり感」が、そのまま可能性の大きさをあらわしていると思うんですよ。たとえば、小関さんのご著書にも、両肩にゆるくタスキがけをするといいですよ、とか、おへその周りにゆるく巻くといいですよ、とは書いてあるんですけれど、そのゆるさがどの程度のものなのか、たとえば何センチぐらいあまらせればいいのかとか、あと、結び目をどこに持ってくればいいのかとか、そういうことはほとんど書かれていなくて。ほんとうに、必要最低限の情報しか載っていないんですよね。だからこそ自立が促される。実際に自分でやってみて、ほんとうに自分が心地よいポイントを探っていくということが必要になるから。
小関:iPhoneも説明書がないからいいわけですしね(笑)。ヒモトレの大切なところって、自分自身との対話にあるんですよ。本を読んできっちりその通りにするっていうんじゃなくて、自分で巻き方やゆるめ方を工夫することによってととのえていくっていうやり方なので。
小出:そこに主体性がないといけないんですね。
小関:そう。だから、さっきも言ったけれど、確かに僕はヒモトレの発案者だけれど、前に出過ぎちゃいけないというか、全体の一部でなければと感じるんです。
小出:「ヒモトレ発案者」という権威が前に出過ぎちゃうと、少なからず、「小関さんの言う通りにやらなきゃ!」みたいな意識が実践者側に芽生えてしまう可能性が出てきますものね。
小関:そういうことです。実は、ヒモトレも、ちゃんと公認インストラクターみたいな人たちを育てて組織化しようか、みたいな話もあったんですよ。でも、それだとヒモトレの大切な部分が損なわれてしまうから。ヒモトレ自体、自分自身の体感がないと成り立たないものなので。それに、たとえば僕が「こういう使い方をしてください」と言った瞬間に、無限の可能性が失われてしまう。だから、ヒモトレは、もう、ぜんぶオープンソースにしています。だから、僕もその一部でしかないんですよ。
小出:発案者の小関さんすら、ヒモトレを取り巻く縁の中の一部でしかない、と。
小関:僕自身、ヒモトレの実践者に、逆にたくさんのことを教えてもらったりしているんです。ああ、それ面白いですね、そういう使い方があるんですか、それってどういうことですか、みたいに。その方が発展性があるんですよね。
動いているものを、動いているままに、動きながら……
小出:すごく自由ですね。動いているものを、動いているままに、動きながら扱っている感じ。
小関:カラダって常に変化していますからね。動きを止めてしまうと、その瞬間から変質してしまうので。ただ自由であってもそれを取り留めているのがカラダの原則や前提かなと思っています。
小出:カラダに言えることは、そのまま自然のすべてにもあてはめられて。仏教にも「諸行無常」ということばがありますけれど、「ゆく河の流れは絶えずして」じゃないけれど、ほんとうに、すべては常に移り変わって行っているんですよね。河の水をせき止めたら、それはもう河じゃなくて単なる澱みになってしまって……。だからやっぱり、動いているものを、動いているままに、動きながら扱っていくっていうのは、なににおいても、理にかなったやり方なんでしょうね。というか、ほんとうはそれしか「やり方」はない。
小関:僕ら、自然の原則からは絶対に逃げられないわけですからね。
小出:ほんとうに。繰り返しになりますけれど、やっぱり、全体性そのものとしてのいのちを掴むことはできないんですよね。掴んだ瞬間に、すでに違うものになっているわけで……。だから、このTempleでの対話も「いのちからはじまる話をしよう」なんですよ。「いのちとは」という問いを設定した途端に、いのちそのものには肉薄できなくなってしまうというジレンマに陥るから。
小関:そうでしょうね。いのちや自然、カラダや全体性というのは、常に自分の知っている世界の先に見えてくるものですからね。
小出:だから常に未知に開かれていないと……。
小関:うん。それを経験したり、ああ、なるほど、って思ったりした瞬間に、もうその枠に閉じ込められてしまう。そういうことは言えますよね。
「いつも通り」ではなく「その日通り」で
小関:イチロー選手なんかは、やっぱり、そのあたりをよく理解されているんじゃないかと思いますね。人間誰しも歳を取っていきます。カラダは毎日変わっていく。スポーツ選手だって例外じゃない。っていうことは、ほんとうはフォームだって毎日変わっていいんですよね。というか、変わっていくのが当然なんです。
小出:そうですよね。……とは言え、なかなか毎日フォームを変える勇気は持てないですけれど(笑)。
小関:イチロー選手と言えば、面白い話があるんですよ。彼がメジャーリーグに行ってしばらくした頃、明らかにフォームが変わったときがあったんですね。バットを寝かせるようなスタイルになった。それで、記者の方が、「イチローさん、どうしてバットを寝かせたんですか?」と質問したら、彼はこう答えた。「いや、寝かせたんじゃないんです。寝たんです」って(笑)。
小出:すごい!(笑) 結果的に「寝た」んだ、と。
小関:そう。「こうした方が打てるかな?」という風に頭で考えて寝かせたわけじゃなくて、全体の流れを見つめていったら、結果的にフォームが変わっていたっていう。
小出:さすがですね……。縁の中で起きてくることにあらがわないでいると、確かに、そういう言い方しかできないようなことが起こってくるんでしょうね。それに似た話で、小関さんのご著書に面白いエピソードが載っていて。卓球の選手の方が、試合の前日に「いつも通りでがんばります」とおっしゃった、と。それに対して小関さんが「いつも通りはないから、その日通りでがんばってくださいね」と返されたっていう……。
小関:固定化されたものはないですから。試合に限らず、常に新鮮な感覚を持って生きていくっていうのは大事ですよね。そっちの方が、単純に、たのしいので。そのたのしさの中に、生きている意味みたいなものが見出されることもあるし。
小出:生きている意味ですか。
小関:もちろん、それすら過程の中で生まれてくるものなので、「絶対にこれだ!」っていうようなものではないですけれどね。それが変わっていく可能性を常に心に置いておきながら、それでもいま自分が思っていることを、自信を持ってやっていけばよいのではないでしょうか。
疑いのないところに「いい塩梅」はある
小出:いま目の前にあらわれているものだけが絶対じゃないということを知りながら、それでも瞬間瞬間を、深刻にではなく、真剣に、軽やかに生きていく、ということですね。瞬間ごとに完結しながら、しかもそこに閉じられていない。でも、本人には納得感がある。これこそが、さっき小関さんがおっしゃった「いい塩梅」の生き方なんでしょうね。
小関:うん。ほんとうに自分にとって塩梅のいい瞬間っていうのには、理由がないんですよね。もうそれだけでいいわけですから。だから、ほら、ちょうどいい湯加減のお風呂に入ったときには、ああ、気持ちいいなあ、とは思っても、なんでだろう? とは思わないじゃないですか。
小出:確かに(笑)。ああ、気持ちいいな~! 以上! 終わり! ですよね。
小関:逆に言えば、理由を探してしまうときっていうのは、自分にとって「いい塩梅」じゃないっていうことなんですよね。っていうことは、やっぱり、自分のカラダに注目しない限り、解決しないことって、実は結構あると思うんですよね。前提が変わらないとどうにもならないので。
小出:ほんとうにそうですよね。だから、まずはヒモトレなどで自分のカラダの全体性を知っていくこと。そこに対する信頼感を培っていくこと。そうしたら、カラダと自然はそのままひとつなので、知らない間に、「ただある」「すでにある」いのちへの大きな信頼感の中で生きていくことができるようになっていく。それがそのまま「生きる意味」に結びついていくこともあるでしょうし……。いや、ほんとうに可能性に満ち溢れたお話をお聞きできました。ヒモトレ、これからも続けてみます。小関さん、本日はほんとうにありがとうございました。
小関:ありがとうございました。
小関勲(こせき・いさお)
小関アスリートバランス研究所(KabLabo.)代表
バランストレーナー
マルミツ ボディバランスボード発案者 http://www.m-bbb.com/
平成12年度~15年度オリンピック強化委員委嘱(スタッフコーチ)
平成22年度~25年度オリンピック強化委員委嘱(マネジメントスタッフ)
日本体育協会認定コーチ。
東海大学医学部客員研究員・共同研究者
ヒモトレ®発案者
ボディバランスボードの販売をキッカケにオリンピック選手、プロスポーツ選手を中心にバランストレーニング、カラダの使い方を指導。
全国にて講演、講習会活動など幅広く活動している 。
2009年にバランストレーニングの一環としてヒモトレ®を発案し更に広い分野にて活躍の場を広げる。映画俳優、芸能人も多く愛用。
また医学的にバランス感覚がどのように影響を与えているか研究も行い情報を発信している。
著書に『[小関式]心とカラダのバランス・メソッド』(GAKKEN SPORTS BOOKS)、『ヒモ一本のカラダ革命 健康体を手に入れる!ヒモトレ』(日貿出版社)、『ヒモトレ革命 繋がるカラダ 動けるカラダ』(甲野善紀氏との共著/日貿出版社)、『ひもを巻くだけで体が変わる!痛みが消える!』(マキノ出版ムック)。
山形県米沢市在住。
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