現実創造の罠。「足るを知る」の特大級の勘違い。満足したら試合終了……なわけねえだろ!

最近、私の中で、「足るを知る」という言葉に対する感覚が、一気にフラットになりました。
「なんだ、足るを知るって、こういう状態のことだったのか。かなり勘違いしてたわ!」
と気づいたので、今日はそのお話をみなさんにシェアしたいと思います。

■ 「足るを知る」と「清貧の思想」

「足るを知る(小欲知足)」。
仏教の禅語として、よく語られる言葉ですよね。
この言葉、一般的には、どこか「清貧の思想」と結びつけて解釈されがちです。
「自分にはすでに十分なものが与えられているのだから、満足しましょうね」というふうに。

もちろん、その教え自体は素晴らしいものです。
私たちの目の前には、すでにすべてが用意されています。
ほんとうに、すべて「ある」んです。

でも、「足るを知る」という言葉を耳にした時、ちょっと不自由な感覚が生じることってないですか?

実は、ここに勘違いの源が存在しているんです。

私自身、「満足」という概念を「1から10までの目盛り」のようなもので捉えていました。
『欽ちゃんの仮装大賞』の点数パネルみたいな感じで、少しずつ欲が満たされていって、7以上で「合格」になる。
10までいったら「おめでとうございます! マックス満たされました!」みたいなイメージ。
「足るを知る」という言葉も、そういう枠組みの中で捉えていたんですよね。

■ 「満足」に甘んじていませんか?

でも、昨日の朝、ふと、「あれ? これ、捉え間違っていたかもしれない」と思ったんです。

満足って、10の目盛り=自分の感覚が最高潮に到達した状態のことではなかったんです。
もっと根本的な、「気づきの中心点(ゼロポイント)」に自分が落ち着いた時の、しみじみとした優しい体感。
それが「足るを知る」のほんとうの意味なんじゃないかな、って。

これに気づいた時、目の前が一気に開けていくような感覚になりました。
「なんて自由なんだろう!」って。

タフティやトランサーフィンの現実創造論を一緒に学び、実践している仲間の中にも、「三つ編みを立ち上げてもビジョンが見えません」という方が結構な数いらっしゃいます。
「私は今の人生に満足しているから、これ以上望む必要性を感じないんです」とおっしゃる方が一定数いるんですよ。

そういう方をdisっているわけじゃないですよ!
でも、私の感覚とはちょっと違うなと思っていました。
私自身は、ほとんど常に満ち足りている感覚の中にくつろいでいるけれど、三つ編みを立ち上げたら、ほぼ百発百中で何かしらのビジョンが見えます。
そして、それを「いいね、採用!」として、あたらしい台本にどんどん飛び移って、現実創造をたのしみまくっています。

こんな私の姿を見て、ある方がこう言いました。
「現状に満足していても、さらに望んでいいんですね!」

というより、「満足しているからこそ、さらに望んでいい!」というのが、私の正直な体感です。

この体感と「足るを知る」という言葉が、昨日の朝、いきなり結びついた。
で、一気に霧が晴れていくような、明るい気分になりました。

■ 満足してからがむしろ本番

満足というのは、ゴール地点なんかではありません。
「究極のゼロポイント(気づきの中心点)」に意識を置いた時のしみじみとした体感。
すべての世界線(無数のバリエーションの台本)にアクセスできる場所=バリアント空間に身を置いた時の自由の体感。
それをほんとうの意味で「満足」と呼ぶんです。

だから、そこから始まるんです。
むしろ、そこからが始まりです。

「満たされるために、現実創造をする」のではありません。
逆です。

満たされているからこそ、現実創造ができるんです。
満たされているからこそ、あたらしい台本が選びたい放題になるんです。

このコペルニクス的転回、伝わりますか?

存在のゼロポイントにくつろいでいる状態。
そこから、本当の意味での「望み出し」が始まるんです。

人生、ここからが本番ですよ。
どんどんたのしくなっていきます!

■ 心の中の「乞食修行僧」を成仏させる

禅の本来の「足るを知る」は、きっと私がいま語っているイメージだったはずです。
「真面目(しんめんもく・本来の面目)」とか「主人公」という禅の言葉がありますよね。
自分はこの世界の主人公であり、わたしはすべてであり、すべてはわたし。
その感覚になってはじめて、イージーモードで望みを叶えていく遊びが始まっていく。
そこには深刻さの影は一切なく、真剣な遊びがあるだけです。

なのに、一般的には「満足したんだから、もう望むなよ」という話にすり替えられてしまっています。
私も見事に、その罠にハマっていました。

最近気づいたんですが、私の中に「ボロボロの服をまとったこじき修行僧」みたいなヤツが確実に存在しているんです。
そいつが結構な勢いで私の拡大・繁栄・望み出しの足を引っ張っていました。
「これ以上望むな!満ち足りるということを知れ!」と、私を押さえつけていたんです。

この乞食修行僧には成仏してもらおうと思います。
僧侶の本来の仕事は、「存在のゼロポイントに人々をくつろがせる」ことですからね。
ここに関してはしっかり働いてもらって、それ以上の「押さえつけ」にはノーセンキューを突きつけます。

満足したんだったら、さらに遠慮なく望んでくれよ! って話です。
満足したら、そこで試合終了……なわけ、ねえだろ! って話なんです。

「足るを知る」という言葉を、自分の欲を押さえつける方向に解釈していませんでしたか?
日本人の結構な割合が、この罠にハマっている気がします。

みなさんの中のブロックが、このお話で解除されるといいなと思っています。
遠慮なく、どんどん望んでいきましょう。

ではではみなさん、今日もよい一日をお送りください。
ありがとうございました!

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