禅と念仏 両面から見る「究極の救い」とは?

禅と念仏 両面から見る「究極の救い」とは?(2024.4.28 日曜朝のARUNE瞑想会)

トーク部分のみ(全体公開)
https://youtu.be/u28wsNrMnoE

瞑想会全編録画(1ヶ月限定公開)
https://youtu.be/Bz78BUxRHcM

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日本の曹洞宗の開祖・道元禅師の言葉にこのようなものがあります。

「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、
これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」
(『正法眼蔵』「生死の巻」より)

半眼状態で口を結び、手も足も組んでしまう、あの独特な坐禅の姿勢は、
無理になにかを「しよう」「成し遂げよう」としなくても、
(というか、あの姿勢をとっている限り、そもそもなにも「できない」ですよね……)

私たちは、
そのまま、ありのまま、あるがままで、
すでに、完全、完璧に、
「仏の家」の中、
「仏という名のいのち」の中に生かされている!

その事実への気づきを促すもの、と聞いています。

私たちは、
なにをしていても、なにもしていなくても、
いつだって、どうしようもなく、
「仏の家」に「投げ入れられて」生きている。

「私のいのち」は、そのまま、
「仏のいのち」そのもの。

いま、いのちが私を生きている。
いま、いのちがすべてを生きている。

これ以上の「救い」なんか、どこにもありません。

禅と念仏は、この地点において、
まったくなんの矛盾もなく、「ひとつ」としてともにあります。

両者のクロスポイントにある「究極の救い」、
全力でお伝えします!
歎異抄講座第三弾、ぜひ、ふるってご参加ください!

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