【超緊急】弥勒菩薩から不敵なメッセージが届きました・・・。「面白いじゃないか。なにか問題でもあるか?」

【超緊急】弥勒菩薩から不敵なメッセージが届きました・・・。「面白いじゃないか。なにか問題でもあるか?」

昨日、約1年ぶりに京都の太秦にある広隆寺へお参りに行ってきました。
広隆寺といえば、私のミッションステートメントの背景にも使わせていただいている、大好きな弥勒菩薩さまがいらっしゃるお寺です。

そこで少し面白いメッセージを受け取ったので、今日はそのお話をみなさんにシェアしたいと思います。

◆冷房のない宝物館で

昨日は(というか昨日も)とにかく暑くて、JR太秦駅から広隆寺まで早足で10分歩いただけで、「このまま溶けちゃうんじゃないか!?」ってぐらい汗だくになってしまいました。
やっとの思いで辿り着き、拝観料の1000円を支払って、弥勒さまがいらっしゃる霊宝殿に入ったのですが……

なんと、冷房が効いていなかったのです!
なんたる仕打ち・・・!

「なんで冷房ついてないの!?」「1000円も払ったんだから冷房くらいつけてよ!」「宝物の保存にも良くないでしょう!」
と、汗だけじゃなく、文句もタラタラ、というかダラダラでした!

でも、そんな気持ちもすぐにおさまりました。

広隆寺の霊宝殿には、全体的に薄暗い空間の中に、ほんのわずかな照明に照らされた弥勒さまが、絶対的なセンターとしてドーンと鎮座されています。
その手前には一段高くなった畳のスペースがあり、正座をして、弥勒さまとゆっくりと対話を楽しめるようになっているのです。

私が伺った時、先客として、ひとりの高齢の女性がそのスペースに座っていました。
その方は、ものすごく深刻な様子で祭壇に手を合わせ、何か切実な身の上話をブツブツとつぶやくようにして、弥勒さまに伝えていました。
その様子を後ろから見ていたら、冷房のことでイライラしていた私の気持ちは収まっていきました。

「この方のお気持ちが少しでも楽に、安らかになりますように」
と、弥勒さまに祈らせていただいた時には、汗も怒りも自然に引いていました。

◆不敵な笑みと、届けられた言葉

広隆寺の弥勒さまの表情は、すべてを包み込むような優しく慈悲深い微笑み(アルカイックスマイル)として知られていますが、昨日の私には、その微笑みが、少し違ったものとして受け取られました。

「んん? 弥勒さま、すごく不敵に笑ってらっしゃるな……」

そう思った次の瞬間、また例によって「後ろ側」から、はっきりと「声」が届いたのです。

「面白いじゃないか。何か問題でもあるか?」

それを聞いた瞬間、「ズコーッ」と力が抜けて、思わず笑ってしまいました。

私と弥勒さまの間にいる、深刻に悩み苦しんでいる女性に対して、あるいは悩み苦しむ衆生全体に対して、変に寄り添うわけでも、同情するわけでもなく、

「面白いじゃないか。何か問題でもあるか?」

って・・・。

「そんなのアリ!?」

と思いながらも、そこに究極の「慈悲」を見たのでした。

「いや、でも、本当にそうだよな。実際、この世界には、なにひとつ、問題なんて起きてないんだよな・・・」

1000円も払ったのに冷房が効いていないという私のちっちゃな不満も、その女性が抱えているであろう深刻な苦悩も、人間関係やお金や健康といった人生上の大小さまざまな問題も。

仏の目から見れば、そもそもそれは「問題」ですらなく、人生という名の壮大なストーリーを面白くするための、ちょっとしたスパイスでしかないのだと・・・。

人間(に巣食うエゴ=爬虫類脳)は、常に生きるか死ぬかの二択の中で、自分の世界に「問題(好ましくないこと、不都合なこと)」を見出し、それをなんとか排除しようと躍起になり続けています。
でも、私たちの背後にいる本体(仏、神、大宇宙、いのち・・・ 呼び方はなんでもいいです)の視点から見れば、実際にはなにひとつ問題なんて起きていないし、これから先も起こりようがないのです。

◆死んだとしてもかすり傷ひとつ負わない

「とはいえ、現実にはこれだけの問題が起きてるじゃないか!」

と反発したくなるかもしれません。

よく「死ぬこと以外かすり傷」と言いますが、究極的なことを言えば、「死んだとしても、かすり傷ひとつ負わない」のが、私たちの「いのち」というものです。

私たちは、一人ひとりが個別の命を持って生きていると勘違いしていますが、本当は「ひとつの大いなるいのち」が、個別の存在という夢でありフィクションを生きているだけなのです。

私たちの本体=いのちは、青空のようなもの。
どんなに分厚い雲がやってきて、激しい雨を降らせ、雷を落としたとしても、青空自体はかすり傷ひとつ負いません。

死は、永遠の眠りではなく「目覚め」です。
死んだ瞬間、いのちが「私」という夢から覚める。
「あ〜面白かった! 疲れたけど、いい物語だったね!」と種明かしされる。
それが死というものの本当の姿です。
だから、どんな生き方をして、どんな死に方をしたとしても、絶対に浮かばれない存在(成仏しない存在)なんていないのです。
私たちはみな、もともと、いのちそのものなのですから。

◆背中側にすべてをあずけることで、痛みを苦しみに変えずに済む

このタイミングで、こんな話をすると、「不謹慎だ!」と怒られるかもしれません。
「先日も、あんなにひどい災害が起きたばかりなのに!」って。

でも、「実際には何ひとつ問題は起きていない」という視座に立つからこそ、見えてくる世界があります。
「大変だ! この問題を早く何とかしなくちゃ!」という前のめりな態度でいる限り、私たちは決してそのフェーズから抜け出せません。

深刻にならない道を選ぶことは、自分の中に生まれた「痛み」を無視することではありません。
痛みはちゃんと感じる。
でも、その痛みを「苦しみ」に変えない術が、ここにあるのです。

何か問題が起きた時こそ、エゴの暴走に巻き込まれて、前のめりに問題に没入するのではなく、ゆったりと背中側の空間に身を預けてください。
自分の背後にアルカイックスマイルを浮かべた弥勒さまを置き、「何か問題でも?」という視座から、世界をあらためて眺め渡す。
その上で、物理的に自分ができる手助けや必要な行動を、淡々と行っていく。

私は体力にも自信がないし、力仕事も得意ではないので、被災地へ行ってボランティアをすることはできません。
それは得意な方々にお任せします。
じゃあ私に何ができるかと言えば、たとえば今回のような動画を配信して、
「慌てないで。実際には何の問題も起きていないんだよ」
と縁ある人々に伝え、恐怖や問題に引っ張られない視座を提供することです。

「死んだとしてもかすり傷ひとつ負わないんだ」という絶対的な安心感から、一歩も足を外さない。
最後に究極の救い=種明かしが待っているのだから、今、生きている間にしか味わえない人間らしい苦しみさえも、映画を盛り上げるスパイスとして精一杯受け取ってやろうじゃないか。

弥勒菩薩の不敵な笑みは、そんな究極の慈悲を教えてくれたように感じています。

なにか受け取っていただけたらうれしいです。
あなたの心が、安らかでありますように。
ありがとうございました。

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