星野文紘さんとの対話/いのちは「感じる」こととともにある

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回私は、羽黒修験の山伏でいらっしゃる星野文紘さんをお訪ねしました。

星野先達のお噂は、数年前より、感性の研ぎ澄まされた友人たちから、それぞれ別々の機会に耳に入ってきていました。「言葉以前の“こころ”や“魂”について、理屈を超えたところから、気取らず、ダイレクトに伝えてくださる素晴らしい方」というのが、彼らの共通の意見でした。具体的にどんなことを伝えてくださるのかと聞いても、どういうわけか、みんな笑って、「修行に参加すればわかるよ」とか「直接お会いした方が早いよ」とか言うばかりで……。

そんな中、星野先達の初のご著書が発売されました。タイトルは『感じるままに生きなさい』。そこには非常に簡潔に、力強く、我々現代人が失いかけている野生の感性をそのままに生きることの大切さが説かれていました。それはそのまま「いのち」を直に生きることでもあって……。星野先達の素朴なお言葉のひとつひとつに、心が、魂が、理屈を超えて震えるのを感じました。「まさしくTempleのテーマそのもの!」と、大興奮のままに即座にご縁を辿って、あっという間に今回のダイアローグが実現しました。

星野先達のお言葉は、とにかく、ハラに直接響いてくるんです。頭を経由せずに、そのままダイレクトに「ドスン!」とくる。私は、だいたい取材のあとは身も心もヘトヘトになってしまうのですが、先達とのお話のあとは、むしろ元気いっぱいになってしまって……。ああ、「感じる」優位の生き方は、かくも心地よく、爽やかで、たのしいものなのか! と、強く実感しました。

「感じるままに生きる」勇気が湧いて来るようなお話盛りだくさんです。どうか最後までじっくりとお読みくださいませ!

肉体のいのちと、魂のいのち

小出:ずっと星野先達にお会いしたかったんです。お目にかかれて光栄です。本日はよろしくお願いいたします。

星野:はい、よろしくお願いします。

小出:今回は、「いのちからはじまる話をしよう。」ということでうかがっております。

星野:「いのち」ね。

小出:はい。ひとくちに「いのち」と言っても、そこにはほんとうに幅広い意味があって。たとえば、この、小出遥子という、はじめと終わりを持つ、個別の肉体の生命のこともそうだし、その個別の生命を生かしている、なにか大きなはたらきとしか呼べないもの、それもまた、「いのち」という言葉で表現できるのかもしれないな、と。

星野:そうだね。「いのち」ということで言うなら、肉体のいのちと、魂のいのちがあるっていう風に言えるんじゃないかな。

小出:肉体のいのちと、魂のいのち。

星野:いのちは肉体と魂の両方でつくられている。そういう捉え方をした方がいいんじゃないかな、と俺は思うんだ。あえて言えばね。

小出:目で見えるし手で触れられる肉体と、見えないし触れられないけど、でも「ある」としか言えない魂と……。それらが合わさったところに、いのちはある、ということでしょうか。

星野:そう。現代の人たちは「魂はほんとうに存在するのか」とか、なにやら議論のタネにしてしまうけれど、昔の人たちは、疑いようもなく、いのちには肉体と魂の両面があるんだ、と。そういうところを生きていたんだよ。

小出:いちいち言葉にして考えるまでもなく、ごくごく自然に、そういういのちを生きていた、と……。

「科学主義」が生きる力を奪っている

小出:どうして、私たち現代人は、そういう風に生きられなくなってしまったのでしょうか?

星野:それはやっぱり、世の中全体が「科学主義」に陥ってしまっているところに原因があると思うね。

小出:「科学主義」ですか。

星野:世の中には「科学」と「科学主義」とがあると思うんだよ。純粋な科学は「感じる」を元にやっている。だからそれはいいんだ。なにも悪いことはない。でも、現代の科学のほとんどは科学主義に陥ってしまっていると思うんだな。そうでしょう? 「感じる」ことを忘れて、「考える」ばっかりやっているじゃない。

小出:なるほど……。確かに、「感じる」をないがしろにしたままに、「考える」ばかりをしていると、なにか、とても大切なところが見失われてしまう気がします。

星野:そうなんだよ。

小出:でも、頭で考えるだけじゃ、もういろいろ立ち行かなくなってきているっていうことは、勘のいい人たちというか、真面目に生きている人たちなら、多かれ少なかれ、絶対に気づいているはずなので……。先達が主催されるワークショップや山伏修行体験がいまの人たちに大人気である理由がわかります。

星野:そうだね。ずっと頭を使って生きてきた人ほど、いま、俺のところに集っているね。最近、俺もいろんな人と会ってイベントをやったりしているけれど、ここのところの対談相手なんか、高学歴のエリートばっかりだもんなあ。

小出:そこに集うお客さんも、そういったタイプの方が多いのでしょうね。

星野:もちろん、そういう人たちばかりじゃないけれどね。でも、「感じる」ということにはね、一度、ちゃんと戻った方がいいんじゃないか、みたいなことは、みんな気づいていると思うよ。

魂が元気になる場を

星野:だからね、現代の課題として、魂が元気になるような場を、いかに作っていくか、っていうのは、ひとつ、あるんじゃないかな。

小出:魂が元気になるような場ですか。

星野:肉体と、魂とがあるわけだけれど、その魂部分を感じられる環境にないんだよ、現代は。

小出:そうかもしれません。

星野:もうさ、どこに行ってもビルだらけで、自然が少ないじゃない。それと、俺が思うに、祈りの習慣だな。それが日常の中にないのが、現代の大きな問題だと思うね。

小出:祈り、ですか。

星野:そう。昔はさ、まあ、近世までだな。日本でも、祈りっていうのは生活の一部だった。日常だったわけだよ。江戸時代まではね。それまでの日本には、宗教や信仰っていう言葉はなかったんじゃないかな。そこら辺の事情はよくわからないけれど、たぶんそうだと思うんだ。

小出:ああ、そういうお話、聞いたことがあります。幕末に欧米から「religion」という言葉が入ってきて、それに訳語をあてがって、「宗教」という日本語が誕生した、って。

星野:だろう? その時点でなにかが置き換わってしまったんだと思うんだよ。

小出:そうなんですね。

星野:江戸時代までの日本人の生活には、お寺だとか、神社だとか、あと修験道もそうだろうけれど、それがなにも特別な感じじゃなく、ふつうにあったわけだよな。だから、当然、祈りというのも日常の中にあった。現代を生きる我々に問われているのは、その時代の日本人の魂でいられるか、っていうことだよ。

小出:いまおっしゃっている祈りというのは、具体的には、どういったものなのでしょう?

星野:自分が祈りだと思えばそれが祈りなんだ。祈りの定義なんてどこにもないよ。

小出:感じるままに出てくるのが祈りというものだ、と。

星野:そういうこと。そういう表現がおのずからできるようになっていけば、魂もそれにしたがって強くなっていくよ。

小出:魂を強くするには、まずは、感じる力を培っていくことが大切なんですね。

星野:そう。感じるだけで先が出てくる。それにしたがっていけばいいんだよ。

感じるままに生きなさい

小出:ご著書(『感じるままに生きなさい―山伏の流儀』さくら舎=刊)にも「自分の魂は先を歩いている」といったようなことをお書きになられていましたね。

星野:魂は見えない世界を見ているんだ。自分がこの先、どういう風に生きていくのか、意識の上ではわからないよ。でも、魂はいつだってしっかりとそこを見て動いているんだな。

小出:それこそ、無意識の世界を……。

星野:そういうこと。魂は無意識の世界を生きているんだ。だから頭だけ使ってなにかをずーっと考えていても、答えなんかなかなか出てこない。けれど、ふっと意識がそれた瞬間に出てくるものっていうのがあるんだよ。無意識の中にふっと出てきたことは、それをやりなさい、っていうことなんだ。

小出:それは、理屈を超えて「感じたこと」だからですね。

星野:そう。この本のタイトルにもなっているけれど、俺はよく「感じるままに生きなさい」って言うんだ。もう、そればっかり言っているね(笑)。

小出:「感じるままに生きなさい」。ほんとうに素敵なお言葉です。

星野:でもね、そう伝えると、「感じたままに生きるのは不安です」って言われてしまうわけよ。「感じたままに生きることなんてできるはずがないですよ」って。

小出:頭だけで考えると、そう思っても仕方ないかもしれません。

星野:そうなんだな。頭だけで考えるから不安になっちゃう。不安の声は頭から来るからね。

小出:不安の声は頭から来る……。

星野:だから、俺は「考える前にやっちゃえ」って言っているの。感じたことをやれば絶対に失敗はないんだから。それにね、そもそも「失敗しました」っていうのも頭の声でしかないんだ。

小出:「感じる」の世界、魂の世界には、成功も失敗もないんですね。

星野:そういうことだ。

感じたことがそのまま真実

小出:感じる力を強めていけば、頭の声に騙されることも少なくなってきそうですね。

星野:感じる力を強めていくっていうのは、つまりは野生に還るっていうことだね。四つ足の状態に還るっていうことよ。

小出:動物に還るということですね。

星野:そう。本来、人間も四つ足の動物だったんだから。四つ足で歩いてみればわかるけど、その状態だと頭が使えないんだよ。

小出:四つ足だと、歩くときには歩くことしかできないですものね。

星野:それが人間は二本足で立って歩くことを覚えてしまった。そうすると今度は余計なことを考えはじめるんだな。現代の課題は、いかに元の状態に身体を戻していくか、それに尽きるね。「感じる」がないままに「考える」ばっかりやっているとろくなことにならないから。いま、瞑想やマインドフルネスが流行っているんじゃない? 俺の山伏修行もそうだけどさ。こういうのはぜんぶ「感じる」力を強めていくための修行だよ。

小出:先達のご著書の「はじめに」に、素敵なことが書かれていて。

去年は五月からずっと山に入っての修行がつづいていた。
いよいよその夏最後の月山に山駈けしたとき、頂上に立って湯殿山を見た。そうしたら「湯殿山に飛んでいけそうだ」と感じたんだ。
そう感じたとき、わかったんだよ。
役行者が伊豆に流されて、富士山に飛んでいったというだろ。
これだって、役行者はものすごく修行をした人だから「富士山に飛んでいける」と感じたんだ。
その「感じた」ことが「行った」となる。
そういうものじゃない?
そういうことさ。
感じたまんまが、答えになっているんだよ。

小出:この部分、ほんとうに、ものすごく心が震えました。感じたことが、そのまま真実なんですね。

星野:そう。魂が感じたことが真実なんだ。感じたことっていうのは、それだけ強いんだよ。でも、現代人にはそこが足りないね。

小出:確かに、感じたことよりも考えたことの方を真実だと思ってしまいますね。だから、たとえばいまの話でも、「飛んで行けそうだ」と感じただけで、実際には「行っていない」のだから、やっぱり「行っていない」というのが真実だ、と考えてしまう。

星野:いまの人たちって、どうしても頭から先に入ってしまうんだよな。「考える」の問題点はさ、考え過ぎると、閉じて、暗くなって、ネガティブになってしまうというところにあるんだよな。でも「感じる」は人を開く。だから、明るくなって、ポジティブになるんだね。

「感じる」が先、「考える」は後づけ

小出:どうして私たち人間が考え過ぎてしまうかというと、やっぱり「わからない」ことが怖いからなんですよね。

星野:そうだね。だからみんな一生懸命いろんなことを理解しようとする。でも「理解しました」なんてね、俺に言わせてもらえば「わかっていません」と言っているのと同じことなんだよ。

小出:なるほど(笑)。

星野:ほんとうに「わかった」っていうのは、ハラで納得するっていうことだよ。つまり「腑に落ちる」っていうことだよ。「わかる」っていうのは頭でやるもんじゃないんだ。だから、本来、ぜんぜん難しいことじゃないよ。たとえばさ、誰だって、山に入って、下りてくるときには、なにか清々しい感じがするだろう?

小出:そうですね。どんなに低い山でも、登って、下りてきたときには、やっぱり、なにか、自分自身がまっさらになったような気分がしますものね。

星野:そうだろう? なにか生まれ変わったような気分になるだろう? そうしたら、それはもう「生まれ変わった」ということなんだ。理屈じゃないね。

小出:「どうして?」じゃないんですね。そう感じたんだから、それが真実なんだ、と。ほんとうはそれでいいはずなんですよね。

星野:それだけでいいんだ。

小出:頼もしいお言葉です。しかし、「感じる力」の大切さについては納得したのですが、そうは言っても、人間には、「考える力」も備わっているわけで……。これを完全に排除するのは、やっぱり、現実的ではないのではないか、と思ってしまうのですが。

星野:考える力だってもちろん必要だよ。ただ、そればっかりになってしまうのが問題なんだな。

小出:あくまでベースに「感じる」を置いた上で、「考える」をやっていくことが大切だと。

星野:その順番だよ。まずは「感じる」ことをやって、それから「考える」をする。「考える」というのは「整理する」ということだよ。

小出:感じたことを考えて、言葉で整理するのが頭の役割ということですね。

星野:そう。「感じる」が先。「考える」は後づけなんだ。

小出:「考える」は後づけ……。とにかく、どんなことでも目の前にやってきたものをただ「感じて」、そこから「考える」をやっていく、その順番が大切だと。

大切なのは「うけたもう」精神

星野:やっぱりさ、「うけたもう」精神っていうのは大事だと思うね。

小出:「うけたもう」精神ですか。

星野:「うけたもう」というのは羽黒修験のオリジナルの言葉でね。修行中は、どんなことを言われても、どんなことがやってきても「うけたもう」と言って受けいれていくんだ。

小出:どんなことでも!

星野:山に入っているとき以外でも、俺はそうやって生きているよ。いつだって「うけたもう」精神で生きている。「うけたもう」はね、開いているから、信頼とセットになっているんだよ。

小出:開いて、起きることのすべてを信頼していく、という態度なんですね。

星野:そう。信頼感っていうのはとても大切なんだ。たとえば、少し前にこんなことがあった。今年の春だよ。桜の咲く頃のある日曜日に、本来だったら、青梅の御岳山で山伏修行のワークショップをやる予定だったんだ。ところが前日にすごい雨が降って寒くなっちゃって、予定通りに山に入ることが難しくなってしまった。だから「山伏修行はやめだ」「明日はお江戸の聖地巡礼に変更だ」って急遽参加者に連絡してね。

小出:まずは雨降りを「うけたもう」精神で受けいれたんですね。

星野:そう。それでね、「朝10時に御茶ノ水駅の聖橋口集合」とだけ決めて、あとは完全にノープランにしていた。それでも、当日、すべてがうまいこと整っていってね。結果としてその巡礼ツアーは大盛況だったんだよ。起こることすべてを信頼していたから、そういうことになったんだろうな。

小出:素敵です。具体的にはどんな一日だったんですか?

星野:俺が、朝、西荻窪から総武線に乗って御茶ノ水まで行くだろう? すると、その途中で、電車の中から外堀通りの桜並木が見えるんだな。それで、「ああ、これはいいな」と。今日はこの桜並木をずっと歩いていくのがいいんじゃないか、と感じたんだよ。それで、10時に聖橋で集合して、神田明神と、それから近くの太田姫神社にお参りしてね。それからずっと外堀通りを四ツ谷方面に向かってみんなで歩いていったんだ。

小出:全員白装束で?

星野:俺は装束を身に付けていたけれど、参加した子たちはみんな普通の洋服だよ。でも頭には宝冠を着けてもらったね。

小出:集団で歩いたらかなり目立ちそうですね!(笑)

星野:そうだね。道行くおばちゃんたちは興味を持って話しかけてきてくれたりしたね。「なにをされているんですか?」「どういう集まりなんですか?」って。そういうときに話しかけてくるのはだいたい女性だよ。男性は知らんぷり。見て見ぬフリをするね。

小出:わかる気がします……。

星野:それでね、なんで俺が桜並木を歩こうと思ったかと言うと、桜っていうのは「さ」「くら」だろう? やまと言葉では、「さ」というのは田の神、つまり食べものの神さまのことだ。「くら」というのは神さまをお迎えする坐のことだね。つまり桜は田の神がよりつく木なんだな。

小出:へええ……!

星野:桜っていうのは田植えの前に咲くだろう? 昔の人は、それを見て、魂で感じたんだな。「ああ、これは神さまが降りてくる木なんだ」って。

小出:興味深いです。

星野:だからね、桜を見上げて、田の神に祈りを捧げようと思ったわけだ。

小出:なるほど……。

祈りのパワーを直に感じる

星野:ところがね、御茶ノ水からずーっと歩いてきても、どうも、神さまを感じるような桜がなかったんだな。それで、四ツ谷の上智大学の前のあたりまで来たときに、ようやく、「ああ、これは神さまだ」と感じる桜に出会えた。だからそこで一度立ち止まって、法螺貝を吹いて、祝詞をとなえて、勤行をはじめた。そうしたら、みんなも一緒に祈りはじめてね。俺、そのとき、一切なんの説明もしなかったんだよ。でもね、あとで、参加していた女の子から、「先達、あそこには神さまがいましたね」「お祈りしていたら神さまが出てきたのがわかりました」って言われてね。

小出:すごい……。

星野:祈りってそういうものなんだよ。敏感な子はちゃんと感じられるんだね。

小出:鳥肌が立ちます……。

星野:問題はそのあとだったね。四ツ谷を発って、そのまままっすぐ行けば千駄ヶ谷の方に出るだろう、と思っていたの。俺、千駄ヶ谷の鳩森八幡神社が好きだからさ、そっちを目指そう、と。でも、どういうわけか赤坂の方に出ちゃったんだ。お江戸の地理がまだよくわかっていないから、どこかで道を間違えたんだろうな。でも、そこで気づいたんだよ。「赤坂には山王日枝神社があるじゃん」って。「山王」の「山」っていうのは山岳信仰だろう?

小出:ああ! そして「日枝」は比叡山のことですね!

星野:そう、比叡山は修験道の山だからね。つながるんだよ。知っている? あの神社に祀られているお猿さんの像は宝冠を着けているんだ。山伏の格好をしているんだよ。

小出:うーん。それはもう、導かれたと言ってもいいかもしれないですね……。

星野:そういうことなのかもしれないね。それで、正面の鳥居をくぐって、男坂を上がって、みんなで拝殿の前に行って、法螺貝吹いて、祝詞と般若心経をあげて勤行をしていたんだ。そうしたら、奥から、あれはたぶん、袴の色からして、かなり上の役職の人だと思うけれど、神主さんがお酒を二本持って出てきて、「お参りくださってありがとうございます」って。山王日枝神社は、ちゃんと、「山王」と山伏の関係を、そして祈りの意味をわかっているね。最近ではわかっていない神社も多いけれど。俺は神社に行くたびに、そこで働いている人たちの様子を見ているんだよ。

小出:それってある意味、道場破りみたいなものですよね(笑)。

星野:そうだね(笑)。それで、山王神社に着いたときにはすでに15時を回っていたから、そこから電車に乗って代々木八幡宮に向かってね。そこで一通りお勤めを終えて、最後に代々木八幡の、あの、コンクリの丸いステージがあるじゃない。あそこでその日の最終の勤行をしたの。ちょうどその日、ダンサーの女の子がツアーに参加していたからね、その子をステージに上げて、祝詞と般若心経に合わせて踊ってもらったんだ。音も、踊りも、祈りだからね。ミュージシャンがいる場合は一緒に演奏してもらうよ。そういうのが大事なんだよ。

小出:素敵ですねえ。

星野:そうやって、勤行が終わって、「今日は解散!」っていうことになったんだけど、もうね、みんな、冷たい雨の中を何時間も歩いたのに、山歩きをしたとき以上に元気がみなぎっていてね。表情が輝いていてさ。みんな、ぜんぜん帰ろうとしないんだよ(笑)。

小出:ほんとうにたのしかったんですねえ。

星野:そうなんだね。

感じたことをやっていけば、すべてが自然にととのっていく

星野:これはね、無理に計画を立てなかったのがよかったんだろうな、と思ったよ。きっちり計画立てて、何時にどこどこに行って、何時にどこどこに行って、みたいな風にしていても疲れちゃうばかりだからね。

小出:スケジュールをこなすだけだと、なにもたのしくないですものね。

星野:そう。これに限らずさ、ほんとうは世の中、なんでも、計画通りにやろうとしたってできっこないんだよ。思い通りになるわけがないんだから。なのに、社会ではきっちりと計画を立てることがいいことだと思われている。

小出:きちんと計画を立てて、その通りに実行できる人だけが、「仕事のできる人」だと思われているようなところがありますものね。

星野:それが男社会の良くないところだね。ほんとうはさ、世の中、もっとあいまいでいいんだよ。あいまいさを受けいれて、ゆるやかにやっていくのがいちばんたのしいんだから。

小出:すべてに明確な理由を求めると、つまらなくなってしまいますものね……。「なぜ?」という疑問も、それに対しての「○○だから」という回答もなく、そこにある流れを信頼して、それこそ「うけたもう」の精神でやっていくと、なんだか知らないけれどうまいこと進んだね、みたいなことになるのかもしれない。

星野:ほんとうにそうなんだよ。そこに理屈はいらない。「感じた」ことをやっていけば、ぜんぶととのっていって、感動も大きいものになる。

小出:わかる気がします。私も、今回のこの対話は「Temple」というプロジェクトの一環として行っているんですけれど、最初は、これも、頭で計画していろいろやろうとしていたんです。「今月はあの人に会って、いついつまでに記事を書いて、来月はあのお寺でイベントをして……」「なぜならそこにはこれこれこういう理由があるからで……」って。でも、それだとやっぱり早々に行き詰るし、なによりも自分がたのしくなくて(笑)。それならもう、自分の心が動く方向に思いっきり転がってしまえ、と。そう決意したらどんどんたのしくなってきたし、気がついたときには活動の幅もうんと広がっていたんですよね。

星野:そういうものなんだよ。魂はちゃんと先を見ているんだから。それを信頼していくだけなんだ。

小出:信頼感をベースに動いていくのは、とても気持ちのいいことだなあ、と感じています。無理して頑張っていたときよりも、ずっとずっとたのしいし、すべてがスムーズに進んでいる感じがありますね。

星野:それはいいことだね。

「頑張る」が落ちたときに、「受ける」「混ざる」が開けてくる

星野:人間、頑張っているうちはまだまだなんだよ。本物じゃない。だってそうでしょう。頑張っている人のそばにいると疲れるじゃない。

小出:確かに……。

星野:自分が頑張って、ほかの人を疲れさせていちゃ意味がないよ。

小出:そこには、やっぱり、なにか抵抗のエネルギーがあるのでしょうね……。それを感じるからこそ、周りの人も疲れてしまう。

星野:そう。

小出:ご著書にもお書きになられていましたね。

俺も、前は、滝行というのは頑張ることだと思っていたんだよ。
滝に負けないよう、いきがってワーッとやっていた。
五、六年前からかな、「これはちがうな。これは頑張るんじゃなくて、受けるんだな」と。
滝を受ける。
頑張って、肩肘はるんじゃなくて、落としていく。
そうしたら、気持ちがスーッと平らになっていくんだよ。
「あっ、俺、滝と混ざっている」という感覚。
もう、頑張るは必要ないんだ。
「頑張る、受ける、混ざる」
この過程じゃないかな。滝行のみならず、すべてが。

小出:「頑張る」が落ちて、「受ける」「混ざる」が開けてくると、ぜんぜん、世界の見え方が違ってきそうですよね。

星野:「頑張る」っていうのは「いきがる」っていうことだろう? いきがって周りとケンカしていたってしょうがないからね。

小出:本人も周りもつらいだけですものね。

星野:そう。でも、余計な力みがストンと落ちたときに、ふっと同じものになっちゃうんだ。つまり混ざっているっていうことだよ。

小出:そうして流れそのものとして存在していれば、なんの力みもなく、気がついたときにはすべてがととのっていた、みたいなことになるんですね。

祝詞もお経もソウルでとなえる

小出:ところで、さきほど「歌も踊りも祈り」とおっしゃっていましたけれど、そこに関して、もう少しくわしくお聞かせいただけますか?

星野:祈りっていうのはさ、言葉以前の「音」なんだよな。人が発する声も音だし、それから木を叩いたり、石を叩いたり、地面を足で打ったりすると音が出るじゃない。そうすると、人間の身体は黙っていないよ。自然に動きはじめて表現が出てくるんだ。これが祈りの原点だな。それでいいんだよ。難しい理屈はいらない。

小出:素敵です。

星野:これはなにも昔の人だけの特権じゃないよ。現代人だって、音楽を聴くと自然に身体が動くでしょう。ジャズやロックのコンサートに行って、直立不動で聞いている人なんかいないじゃない。

小出:確かに(笑)。みんな、自然に身体を揺らしたり、ときには激しく動いたりしていますよね。

星野:あれは現代の祈りだと思うね。だから俺はジャズやロックともセッションをしているんだよ。祝詞や般若心経をジャズやロックに合わせてとなえているの。

小出:かっこいい……!

星野:どちらもソウルだからさ、ちゃんと共鳴するんだな。

小出:お経とか、お念仏とか、お題目とかも、きっと、意味以前に、音の響きがとても重要なんでしょうね。

星野:そうそう。意味どうこうじゃないの。ああいうのは頭で考えるものじゃなくて、魂でとなえるものなんだ。

小出:となえているうちに身体が勝手に動き出したら、そのままにしておいて……。

星野:祈りっていうのはそういうものなんだよ。

小出:先達のおっしゃる「祈り」に、決まった形式がないのが、なんだか、すごくいいなあ、と思います。おおらかで、それでいて力強くて……。自分が感じたものがそのまま正解。それでいいんだなあ、って。

「あいまい性」「ゆるやか性」こそが人を救う

星野:日本の修験道っていうのは、そもそも、非常にあいまいなものなんだよ。仏教も、神道も、道教も、陰陽道も、原始的なアニミズムも、ぜんぶまぜこぜになっているじゃない。この「あいまい性」「ゆるやか性」こそが、俺は、いいと思うんだよな。

小出:「これだけが正解」というのがない文化なんですね。

星野:そう。日本の文化っていうのは、良い悪いはっきりさせないじゃない。なんでもあり、みたいなところがあるんだな。自分がそこに神さまを感じたら、そこに神さまはいるんだ。理屈じゃないんだ。ところが欧米文化ではそうはいかない。

小出:一神教文化ですものね。

星野:だから宗教戦争が絶えないんだよ。一神教ではさ、善と悪、光と陰、神と人みたいに、白黒はっきりさせたがるでしょう。でも、対立構造の中で物事を捉えている限り、争いはなくならないよ。

小出:日本人、日本文化のあいまい性って、どうもネガティブな文脈の中で語られがちだけど、そういう意味では、ある種、平和への道をそのまま示しているとも言えそうですね。「これだけが答えだ!」というのがなくて、「それぞれに感じたことがそのまま答えなんだ」という理解が、ひとりひとりの中に育てば、あるいは世界は平和になるかもしれない……。

星野:そう。そもそも決まった正解なんかどこにもないんだから。感じ方なんかみんな違って当たり前なんだから。答えなんか人の数だけあるんだよ。それが人を救うんだよ。

小出:力強いお言葉です。

星野:考えたことの中に答えはないよ。答えは感じたことの中にあるんだよ。だってさ、誰かが「私はこう考えます」と言うと、「その考え方はおかしい」という意見が出てくるだろう? ところが「私はこう感じます」と言った場合、ほかの人はなにも言えなくなってしまうんだよ。「あなたの感じ方はおかしい」なんて、絶対に誰にも言えないんだから。

小出:ほんとうにそうですね。

星野:私が感じたことは誰にも否定できない。そこに関しては、みんな無意識のところで信頼しているんだよ。個人個人が感じたことがそのまま正解なんだ。

小出:ひとりひとりが、自分の「感じる」をほんとうに大切にできたら、他の人が感じたこともそのまま尊重できますよね。そうなってくると、いろんな争いもおのずから消えてなくなっていくような……。

星野:そうだね。正しさを主張して争う必要がなくなってくるからね。

「感じる」と「気づく」を研ぎ澄ませて魂を強くする

小出:でも、いまは、そもそも、「感じるってなんですか?」「自分がなにを感じているのかわからないんですけど……」みたいな人もたくさんいると思うんですよね。

星野:そうなんだよなあ……。でもさ、人間、みんな恋はするだろう? 恋とまではいかなくても、誰かが気になることはあるじゃない。そんなときって、みんな、頭なんか使ってる? 頭で考えて、この人のこと好きだなあ、ってなる? 頭で考えて「あんたのことが好きだよ」って言ったら、「バカにしないで!」って怒られておしまいだよ(笑)。

小出:そうかも(笑)。

星野:みんな、なにかを感じているから、誰かを好きになるんだ。それと同じだよ。ほんとうは、みんな、いつだってなにかを感じているんだね。でもそれに気づけないことがあるんだろうな。

小出:感じていることに気づけない……。

星野:だから、感じる力と同時に、それに気づく力も培っていかないといけないよね。とくに現代人は。そのために修行があるわけだけど。修行は総合的に魂を強くする場なんだ。

小出:「感じる」と「気づく」を研ぎ澄ませることが、そのまま魂を強くすることになるんですね。

星野:そう。そしてそれは自然の中で起こることなんだ。だからね、俺は山に人を連れて入るときは、魂がおのずから感じるような場所に身を置かせるようにするんだよ。たとえば、俺は、夜にも山を歩かせるんだけど、そうするとお月さんが出てくるだろう? そういうときは空が見えるようなところに行って、祈りをして、そのあとみんなで寝転がって空を眺めるんだ。

小出:へええ……!

星野:月の出ている日は月を眺めて、月のない新月の日は満天の星空を眺めて……。そうしているとね、ああ、あの月、あの星と自分は同じものだ、って、理屈じゃなく感じるんだな。

小出:すごい!

星野:それが修験道の宇宙観なんだよ。胎蔵界曼荼羅とか金剛界曼荼羅とかいろいろあるけれど、あんな難しい解説を紐解かなくたって、夜の山に寝転がってみれば一発でわかるよ。知識は必要ない。感じることだけでいいんだ。その場で自分が感じたことがそのまま正解なんだ。

小出:いいなあ……。

やりたいことはやっちゃえよ

星野:それともうひとつ大事なのは、修行中に感じたことを、いかに日常の生活の中に生かしていくかっていうことだね。修行しているときだけ山伏でいても仕方ないんだから。

小出:生きる知恵にしていかないと、ということですね。

星野:そういうこと。俺もさ、山伏の知恵を生かしてもらうために、出来る限りのことはやろうと思っているよ。都会に呼ばれたら話をしに出かけていくし、全国のいろんな山で修行体験をさせたりもするし、しまいには本まで出したりしてね(笑)。誰に咎められるわけでもないんだから、なんでもやっちゃえ、と。俺自身、そう思って生きているよ。みんなにも言いたいね。やりたいことはやっちゃえよ、と。

小出:励まされます。

星野:なんでもやっちゃえばいいんだよ。ほんとうに。頭の声なんか無視してやっちゃえばいいんだ。

小出:頭は、いかにも正しいことを言って、自分にブレーキをかけさせようとしますけれど、聞かなくていいんですね(笑)。

星野:理詰めで考えていても答えなんか出ないよ。自分を苦しめるだけだ。ただただ感じるままに生きていく。それでいいんだ。

小出:先達とお会いできて、こうしてお話を聞けてよかったです。なんというか、ぜんぶ、おなかに直接、ドスン、ドスンと響いてくる感じで……。理屈じゃなく、伝わるものがありました。元気のモトのようなものをいただいてしまった感じがします(笑)。

星野:俺はいつも感じるままにしゃべっているからね。あんたも感じるままに受けとめてくれたんだな。

小出:ほんとうにありがたいご縁でした。星野先達、今日はありがとうございました。感じるままに生きてみます!

星野:俺も、自分ひとりでは気づけなかったことを言葉にできたところがあったんじゃないかな、と思うね。ありがとうございました。またお会いしましょう。

星野文紘(ほしの・ふみひろ)

羽黒山伏。山伏名:尚文。
1600年代からつづく山形県出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)の宿坊「大聖坊」の三男として、1946年に生まれる。
2007年、出羽三山の最高の修行である「冬の峰百日行」の松聖をつとめ、
2008年より「松例祭」の羽黒権現役である所司前をつとめる。
出羽三山神社責任役員理事。出羽三山祝部総代。
出羽三山や全国の修験の山でも山伏修行を実施。
全国各地で山伏の知恵を活かすべく生き方のトーク活動を「羽黒山伏の辻説法」として展開している。
著書に『感じるままに生きなさい―山伏の流儀』(さくら舎)がある。

※「まいてら新聞」【星野文紘さん(山伏)の“いのち観”】 – 「生」も「死」も日常の中にある – も、どうかあわせておたのしみください。

関連記事