流行りのマインドフルネスは「智慧なき慈悲」?

前野:やっぱり、自分が「ある」と信じているものを「ない」と言われても、受けいれるのは難しいですからね。とくに、キリスト教以降の西洋文明の中で生きている人にとって、「我はない」という考え方はなかなか受け入れがたいと思います。まあ、西洋の中でも、ポストモダン哲学が至ったように、ニヒリズムまでいくと、確かに「私はない」「すべてには意味がない」みたいなことは言い出して、割と「無我」の思想には近づきますけれどね。

小出:でも、ニヒリズムと仏教って、やっぱり、最後のラインで絶対的に違うんですよね。ニヒリズムでは、「個人」という枠が、薄皮一枚ではあるけれど、絶対的に残ってしまっている。「いい線いったのに、惜しかったな」とは思うんですけれどね。……って、ニーチェ相手にナニサマだ? って話ですね。ごめんなさい(笑)。

前野:近代西洋流って、だいたい、ある程度まではいい線いくんですよね。でも、東洋にある最も重要な部分が抜け落ちた結果、「いい線」止まりになるというか。いまの欧米マインドフルネスブームもそうですけれど。「智慧なき慈悲」にならないように気をつけるべきだと思います。

小出:「智慧」がない、というのは、「無我」という視点を欠く、ということですね。

前野:そうそう。だからマインドフルネスだって、ちゃんと智慧をベースにしてやっていけば、「生きるとはなにか」という本質的な学びにつながるんですよ。でも、どうも、いまの流れを見ていると、「より仕事のできる人間になるには」「よりお金を稼ぐには」みたいなところで止まっている面がある。藤田一照さんは、そういうタイプのマインドフルネスを「世俗的マインドフルネス」と呼んでいらっしゃいますよね。

小出:そう、「宗教的マインドフルネス」と区別されて、そういう風に呼んでいらっしゃいますね。確かに、一般的なマインドフルネスって、「この私」「個人としての私」をいかに喜ばせるか、みたいなところでもてはやされているのかな、という印象があります。でも、本来的なマインドフルネスは、それこそ藤田一照さんの表現を借りれば、「私の自由」ではなく、「私からの自由」をもたらしてくれるはずのものなので。究極的な「自由」は、やっぱり、そちらの方にあるんですよね。

前野:そうなんですよ。だから、そこを無視してしまっている最近のマインドフルネスブームに対して、僕は「けしからん!」と思っていました(笑)。マインドフルネスに限らず、東洋のものが西洋に行くと、だいたい似て非なるものになってしまうのは、残念なことだと思っていたんですよ。

小出:「思っていた」ということは、お考えが変わってきたということでしょうか?

前野:そうなんです。最近ね、ライフネット生命の出口治明会長とお会いして、こんなお話をお聞きしたんです。柔道というのは、もともとは日本が誇るべき伝統的な武道の代表格だったわけですよね。でも、世界に広まっていくうちに、単なる力任せの格闘技に成り下がってしまったような面もある。ただし、それも一概に悪いことだとは言えなくて、たとえばロシアで柔道に触れた女の子が、「いつかは日本に行ってみたい。日本には本物の柔道があるはずだから」みたいなことを、希望に満ちた表情で言うそうなんですよ。

小出:ああ……。そうなってくると、こちらとしても「本物」を用意して待っていなきゃいけないな、っていう気分になりますね。

前野:そう。つまり、ちょっと本質からずれたようなものが広まったとしても、それによって、より、「本物に触れたい」と願う人も増えていくんです。そう考えると、多様化は、良い面だとも捉えられるわけです。マインドフルネスブーム、素晴らしいですよ(笑)。

小出:確かに、そこは完全に表裏一体ですよね。本質的でないものがもてはやされる一方で、どうしようもなく、「こんなもんじゃないだろう」「これで終わりのはずがないだろう」という風に思う人は、一定数、出てくるわけですから。作られたものというのは、あくまでも「作られたもの」でしかないので。ひずみのようなものが、見えてしまう人には見えてしまうんですよね。それを放っておかなかったような人たちが、「無我」という名の本質的な自由に向かうきっかけにはなるのかもしれない。もしかしたら、すべてがうまく整っているのかもしれませんね。

前野:そうですね。世の中はよくできていますね。無駄に見えるものも無駄ではない。

小出:希望が持てるお話です。

「私でない」を積み重ねた先に「私はない」が導き出される

小出:ところで、私も今日の対話の中で、ほとんどなんの意図もなく「無我」ということばを使ってきましたけれど、仏教では、もともとは「無我」ということばは使われずに、「非我」ということばだけがあった、という説もあるそうですね。

前野:そのようですね。「無我」というのは「私はない」。「非我」というのは「私でない」ということですね。

小出:はい。それで、その説の正当性については、専門家の方のご判断にお任せしたいのですが、ただ、その「非我」の「私でない」という言い方に関しては、なるほどな、と思っているんですよ。と言うのは、「私でない」の方が、割と、個人の存在を疑っていない人間にとっては納得しやすいので。「私はない」というのは、つまり「私の死」をあらわすことばなので、どうしても個人として生きている私には受けいれ難いところがある。でも、たとえば「この髪の毛は私ではない」「この爪は私ではない」「この名前は私ではない」「この職業は私ではない」、あるいは「この思考は私ではない」「この感情は私ではない」という風に、ひとつひとつ納得していけば、論理的に無理なく、最終的な「私はない」というポイントに到達することも可能なんじゃないかな、って。

前野:なるほど、そうですね。無我は科学では解明できないですけれど、非我は科学でも論じられますからね。事実、リベットの自由意志の実験をはじめ、多くの科学的な実験から、非我は説明できることが明らかになりつつあるんですよ。

小出:あ、そうか。前野先生の「受動意識仮説」も、まさにそこから組み立てられていますものね。

前野:そう。脳科学で、実際に、無意識下での発火が観測されるわけですから。そういったことの積み重ねで非我が説明できるようになったら、そのまま無我ということに関しても納得せざるを得なくなっていきます。無我も、非我も、同じものを別の側面から見たところからの呼び方の違いに過ぎないわけですから。

小出:なるほど……。

前野:無我を知ることがすなわち「さとり」なのだとすれば、科学をちゃんと学べば、みんな、さとらざるを得ないんですよ(笑)。

小出:さとらざるを得ない!(笑) いいですねえ。

前野:それが現代的なさとりですよね。さとれないかさとれるかの違いは、事実に抵抗するかしないか、それだけになっていくのだと思います。

これからは様々な分野が互いに認め合い、協力し合う時代

小出:科学の見地からさとりを得られたいま、前野先生ご自身の人生の展望のようなものは、なにか、具体的にございますか?

前野:そうですねえ……。最初に『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』という本を書いたら、死ぬのが怖くなっちゃった、みたいなお話をしましたよね。僕の中で、「死ぬのが怖い」という気持ちが、完全に消えたわけじゃないんです。でも、いまみたいに、「自分ってほんとうはないんだよ」と考えると、「ああ、ほんとうに、生きているだけでもうけものだなあ」「幸せだなあ」って、心の底から思えるんですよ。そうすると、「死ぬことは、やっぱり、ぜんぜん怖くないな」って、そっちの方に、すっと行けるんです。

小出:それは、ほんの一瞬で?

前野:一瞬ですね。世俗の人間と、さとりとを、一瞬のうちに行き来する感じです。だから、やっぱり、哲学と倫理学をもっとちゃんと統合して、智慧と慈悲の両輪をこれまで以上にうまく回して、それこそ大きなつながりとしてのいのちの話を、縁ある人たちに伝えていきたいな、と思っています。「ほんとうは生きているだけで幸せなんだよ」っていうことは、まだまだぜんぜんうまく伝えられていないので。そこは、しっかりやり切りたいですね。

小出:ありがたいです。どうか、よろしくお願いいたします。

前野:あと、実はね、僕、あたらしい宗教をつくろうかと、ちょっとだけ思ったこともあったんですよ(笑)。

小出:ええ?(笑)

前野:科学に立脚した、まったくあたらしい宗教を作りたいなって。さっきもお話ししましたけれど、たとえばさとりだって、科学的に説明ができるわけですよね。やっぱり、宗教っていうと「あやしいもの」という風に思われがちだけれど、科学の方面から説明すれば受けいれてもらいやすいでしょう。そういう風にして、伝統の中で形骸化してしまったものも、科学の力で刷新できるんじゃないかって。その先にほんとうの平和が広がっていくのなら、やるしかないじゃないかって……。でも、松本紹圭さんにその構想をお話ししたら大反対されました(笑)。

小出:そうでしたか(笑)。

前野:いまの宗教に力がなくなっているのは確かだけれど、それをなんとかしようと、いまお坊さんたちも必死で頑張っているところだから、応援していただけるとありがたいです、と。それよりも前野先生には、現代人にとって最も説得力のある科学の立場から、世界の仕組みやさとりの本質を解明していただきたいです、と言われまして。

小出:なるほど……。これは私個人の考えですけれど、これからは、なにかひとつの突出した分野が世界を引っ張っていくのではなくて、いろんな分野が、お互いにインスピレーションを与え合い、認め合い、リスペクトし合い、力を出し合って、よりよい「いま」を作っていく時代だと思うんです。だから、まずはその一歩として、科学者は科学者として、宗教者は宗教者として、料理家は料理家として、スポーツ選手はスポーツ選手として、それぞれにそれぞれの道を歩んで、その先に見えてきた風景を、広く一般にシェアしていただければ、すごくありがたいなと思っています。私も、Templeというプロジェクトを通して、前野先生をはじめとする素晴らしい方々のご活動を広く紹介して、それぞれのご縁をつなぐことで、微力ながら応援させていただきますので。そこから「枠」を超えた活動、そして気づきも、おのずと生まれてくると信じています。

前野:うん、そうですね。僕も、東大病院の稲葉俊郎さんと、SMD研究所の針谷和昌さんと3人で、この2月から、「道の学校(仮)」という学びの場をスタートさせる予定なんですよ。合気道の先生とか、西洋型のスポーツ選手とか、さまざまな「道」のエキスパートをお呼びして、理論と実践についての学びを深めていくことで、心と身体の統合的なあり方を探っていこう、と。

小出:素敵です! わくわくしますね。

前野:小出さんの活動とも、なにかのかたちでコラボできそうですね。

小出:うれしいです。よき機会がございましたら、ぜひ、お願いいたします。

前野:……ということで、まあ、当面は、ご縁に従い、なりゆきに任せながら、やれることをやっていこう、と思っています。そこからなにか大きな面白いことにどんどんつながっていけばいいな、と。

小出:前野先生のご活躍がますますたのしみになってきました。是非、これから先も、先生独自の視点と、その溢れるバイタリティーで、私たちにいのちの実相を鮮やかに切り取って見せてくださいませ! 今日はほんとうに楽しかったです。ありがとうございました。

前野:こちらこそ、ありがとうございました。

前野隆司(まえの・たかし)

慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。
東京工業大学卒、同大学院修士課程修了。キヤノン株式会社勤務、カリフォルニア大学バークレー校客員研究員、ハーバード大学客員教授、慶應義塾大学理工学部教授などを経て現職。博士(工学)。ヒューマンインタフェースのデザインから、ロボットのデザイン、教育のデザイン、地域社会のデザイン、ビジネスのデザイン、価値のデザイン、幸福な人生のデザイン、平和な世界のデザインまで、さまざまなシステムデザイン・マネジメント研究を行っている。

著書に『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房=刊)、『死ぬのが怖いとはどういうことか』(講談社=刊)、『幸せのメカニズム-実践・幸福学入門』(講談社=刊)など多数。近著に『人生が変わる! 無意識の整え方 – 身体も心も運命もなぜかうまく動きだす30の習慣 -』『無意識と「対話」する方法 – あなたと世界の難問を解決に導く「ダイアローグ」のすごい力 -』(共にワニプラス=刊)などがある。

※この対話記事をベースとして、3月16日(木)に「Temple@神谷町光明寺」というイベントを開催いたします。前野隆司さんご本人もお越しくださいます。ぜひ、ふるってご参加くださいませ。くわしくは当サイトEventページをご参照ください。

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