「幸福の4つの因子」は、すべて、ほんとうのいのちをベースにしている

小出:少し話はさかのぼりますけれど、先ほど、「受動意識仮説」によって導き出される「心は無」「生は幻想」「私も幻想」という、言わば「ゆらぐことのない、ほんとうの幸せ」に目を向けるためには、まずは「幸福学」によって心を整え、鎮めることから始めないといけない、といったお話がありました。それはひとつの論理的な説明としてきっちりと成り立つとは思うのですけれど、それ以前に、先生の提唱される実践的な「幸福学」自体が、「心は無」「生は幻想」「私も幻想」という気づきをベースにして作られているのではないかな、と私は考えているのですが。

前野:まあ、そうですよね。「心は無」「生は幻想」「私も幻想」という気づきというか、まあ、仏教で言う智慧を得た上で、じゃあ、いかにしてそちらに行くか、というところから始まっていますからね。

小出:ということは、やはり、究極的な幸せというのは、「生も死も超えたところにあるいのち」に気づいて、そこをダイレクトに生きていく、ということになりますよね。

前野:そういうことですね。

小出:「生も死も超えたところにあるいのち」への気づきがあれば、先生が提唱される幸福の4つの因子も、すべてすんなり理解できるなあ、と思うんです。

【幸福の4つの因子】

第一因子:「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)
→「自分の強みを活かせているか?」「自分が成長している実感はあるか?」などの要素。

第ニ因子:「ありがとう!」因子(つながりと感謝の因子)
→「人を喜ばせているか?」「感謝することはたくさんあるか?」などの要素。

第三因子:「なんとかなる!」因子(前向きと楽観の因子)
→「ものごとが思い通りにいくと思っているか?」「失敗や不安をあまり引きずらないか?」などの要素。

第四因子:「あなたらしく!」因子(独立とマイペースの因子)
→「自分と他人を比べずに生きているか?」「人目を気にせずものごとを楽しめるか?」などの要素。

小出:「生も死も超えたところにあるいのち」を「私」の本性だと見抜いてしまえば、恐怖感は消えていって、まずはなんでも「やってみよう!」という気持ちが湧いてくる。そして、それは、もう、そのままつながりの中にあるいのちなので、ごくごく自然に、すべてに対して「ありがとう!」と感謝の気持ちが向けられる。すべては大きなつながり、つまりはご縁の網目の中で起こってくることがわかれば、どんなことだって「なんとかなる!」と思える。そういった活動の中で唯一無二の自分という存在のかけがえのなさに気づいて、おのずと「あなた(自分)らしく!」生きられるようになる……。ほんとうに、ぜんぶ、つながっているんだなあ、って。

前野:その通りです。

「縁起」を認めたときに、ほんとうの意味で「自由」になれる

小出:でも、現代を生きる我々は、どうも、こういった「ほんとうの幸せ」とは真逆の方向に突っ走ってしまいがちで……。それは、やはり、「ほんとうのいのち」への意識が希薄になっているためだと思うんです。

前野:はい、そうだと思います。

小出:いのちと言っても、どうしても、この「私のいのち」、つまり「個人のいのち」の話に終始してしまいがちで。その「個人のいのち」を成り立たせている、大きな大きなつながりとしてのいのちに目を向ける機会が失われている。それゆえに、すべてがブツブツに分断されているかのように見えてしまって、孤独感ばかりを深めてしまって、その孤独感を埋めるために余計なことをたくさんして、結果、さらに傷を深くしているっていう……。

前野:確かに。そうですよね。

小出:とは言え、分断の世界の中で生きている人に、いきなり「ほんとうは、すべて、大きな大きなつながりの中にあるんですよ」みたいなことを言ったところで、なかなか信じてもらえないのは当然のことで。それこそ天動説を信じている人たちに地動説の正当性を説いたところで、受けいれられるまでに大変な時間がかかったように……。でも、先生もご著書にお書きになられていましたけれど、大縄跳びみたいに、一度「つながり」という輪の中に「えいっ!」って勇気をもって飛びこんでしまえば、あとはもう、どんどん楽しく、幸せになる一方だとは思うのですが。

前野:飛びこむまでがね。やっぱり、人間、いままで自分が生きてきた常識とは違うことを言われると、反射的に抵抗してしまいますから。

小出:『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』をお出しになられたときも、ほんとうにさまざまな反響があったようですね。2010年に発刊されたこの本の文庫版のあとがきにも、こんな風な記述があって。

おかげさまで、これまで拙著をお読みいただいたたくさんの方々から、さまざまなご意見をいただいた。(中略)せっかくの機会なので、読者の方々への道標として、ご意見の分布を記しておきたい。これまでのご意見のうち、多かったのは、以下のようなものだ。

(1)クオリアの謎への立場に対するご意見。
(2)本書の主張は、釈迦、老荘、ソクラテス、スピノザ、ヒューム、ニーチェ、ミンスキー、下條……と同じではないか、というご意見。
(3)参照した実験結果はいずれも信憑性に疑問の余地があるのではないか、というご意見。
(4)本書の主張には合意するけれども、「私」は幻想なんて、空しくて切ない、というご意見。
(5)本書の主張に合意するし、「私」は幻想なんだから、肩肘張っていなくてもいいとわかって心が軽くなった、というご意見。

小出:この、(4)と(5)の対比は興味深いですよね。両者の違いは、どういうところから出てくるのだと思われますか?

前野:それは、やっぱり、西洋的な考え方をする人と、東洋的な考え方をする人の違いかなと思っています。

小出:分断的なものの見方と、統合的なものの見方という方向性の違いは、確かにありそうですよね。これも、やっぱり、どれだけ「私」を手放せるか、という話になってくるのかな、と思います。「この私」という意識すら、広大なご縁の網目の中で仮に生まれているものであって、「私が意識を使ってなにかを為した」ということすら幻想なんだ、と。そのことを少しずつですが受けいれられるようになってから、私自身、生きることがどんどん楽になっていったという実感があるんです。いまでもそのプロセスの中にいます。でも、「私は幻想」なんてことを誰かに言うと、みなさん、「人間には自由意志がないと言いたいのか」「自由意志がないなんて恐ろしすぎる」みたいなことをおっしゃって……。

前野:そうですよね。

小出:でも、すべては広大なご縁の中で起こってきているんだ、ということを認め切ってしまえば、むしろ、「私」の範囲がぐぐっと広がって、それこそ世界大、宇宙大に広がっていって、巨大ないのちをそのまま直に生きていけるわけで。それこそ、究極の「自由」なんじゃないかな、って。

前野:うん。「自由さ」が開けていくんですよ。

小出:そう! そのことを受けいれてしまえば、逆説的ですけれど、ほんとうの意味で「自由」になれるんじゃないかな、って。でも、「自由意志」って、いかんせん頭に「自由」ということばがついていますからね。それゆえ、「縁起を認めること」イコール「自由を失うこと」だと思ってしまうんでしょうね。その気持ちは、すごくよくわかるな、と。

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