

最近、私、「3億円企業の社長に、俺は、なる!」なんてルフィーみたいなこと言っちゃってますが。
こんな「大それた」ことをあっけらかんと口にできるぐらい、自分は軽〜くなっちゃったんだな、って、笑っています。
8月8日にシンあるねラボの有志のみなさんにシェアさせていただいた、私自身の「大願」について。
あの時は、「これから私は、これを命がけで叶えていきます!」と宣言していました。
でも、その「命がけで!」というエネルギーが、良からぬもの(重苦しいもの)を引き寄せていたことに、その後すぐに気づいたんですよね。
「あ、この重さはもういらないわ」と思って、ポイポイッと手放しました。
そうしたら、マジでものすごく軽くなっちゃって。
■ 空っぽだからこそ、何にでもなれる
行き着いたのは、「自分って、本当に空っぽなんだよな〜」という感覚です。
先日YouTubeでもお話しした「3M(私は無力で無能で無価値です)」の感覚ですね。
自分は空っぽで、マジでマジでマジで何者でもない。
その「何者でもない」という軽さが自分の中に満ちていて、それがすごく心地良いんです。
何者でもないからこそ、何者にでもなれる。
最近はこの自由な感覚が嬉しくて、日々意味も理由もなくニヤニヤして過ごしています。
私たちの本体は、無色透明な「意識」であり「いのち」です。
私とみなさんの背後にある意識は、まったく同じ、ひとつの意識。
私を、そしてみなさんおひとりおひとりを生かしているいのちは、まったく同じ、ひとつのいのち。
だったら、本当に、私たちは、何にだってなれるし、何だってできる。
意識の向け方ひとつで、今この瞬間から、何者にだってなれるんです。
だから、いいなと思ったことは何でもやればいい。
普段、私たちは意識が肉体に紐づいているから、「この肉体だけが自分だ」と思い込んでしまいます。
そうすると、勝手に限界を設定してしまう。
たとえば、「私は奈良の飛鳥地区に住んでいる野良仕事が大好きな42歳の人間です」と。
それは事実なんだけど、そこで「田舎で土に近い暮らしをして、畑で採れた野菜を美味しくいただく、自然派志向の人間」というアイデンティティだけで固めてしまうと、途端にそれが窮屈になってしまうんです。
■ 農的暮らしとアーバンライフ。どっちもアリでしょ!
最近の私は、「もしかしたら東京都心、港区の高級レジデンスにも拠点を持つかも〜」なんてことも、軽々しく言っちゃっています。
だって、別に、そっちで暮らしていても全然OKなわけです。
奈良の田舎での暮らしと、都心の高級マンションでの暮らし。
両極端ですよね。
「あんた、いったい何者なんや?」と言われそうですが、「はい、私は、小出遥子です」というだけの話で。
小出遥子を生かしているいのちは何者でもないんだから、両方やったってなんの問題もない。
私、昔から、極から極へとずっと移動し続けるような性質を持っていました。
昨日まで「こっちだ!」と言っていたのに、次の日には真逆のものを「こっちだ!」と言って。
周りの人たちを随分振り回してきた自覚もあります。
でも、どうしたって、両方が私なんですよ。
それを無理に「どっちか」にしようとしていたから、自分自身も、周りも変なふうに疲れていたんだなと。
「どっちも私じゃん!」「どっちもやればいいじゃん!」と思えたら、めちゃくちゃ軽くなりました。
同時にやるのは無理でも、同じ体で、それぞれの体験を楽しめばいいだけなんですよね。
■ アイデンティティは「着せ替え」でいい
この軽さが本当にいい。
空っぽだから、何のこだわりもありません。
「一貫性のない人だね」と思われてもいいんです。
事実、一貫性、ないですから(笑)。
今まで「あり得ない!」と思っていたようなライフスタイルを送っている未来の自分の姿が見えたら、「えー、マジかよ」と思いながらも、次の瞬間には「まあ、アリかもな!」と思って、すっかりその気になって、そういう役を演じてみたくなったり。
これって、あたらしい服に出会ったみたいな感覚なんです。
「えー、こんな服あるの? どうやって着るの? ちょっと着てみようかな……」と。
たとえば、最近また話題になっている、T.M.Revolutionのあの変な服(で通じるよね?笑)。
「なんだこの服!」と思いながらも、目の前に現れちゃったら、「え、着ろってこと? 着てみようかな」と。
「着ちゃダメ」なんて、誰も言っていません。
最初は着慣れないから「これ大丈夫なの? 前なの? 後ろなの? どっちなの?」とドキドキしますが、着ていたらそのうち慣れます。
慣れたら、それがまた自分のひとつのアイデンティティになっていく。
アイデンティティなんて、いくつあってもいいんです。
ひとりの人間の中で統合が取れていれば、多重人格と言われたって何の問題もないですよね。
なんでひとつのアイデンティティに縛られなくちゃいけないの? という話です。
仕事の時の自分、家族の前にいる自分、ひとりでいる時の自分。
その都度違う服を着ているようなもので、みんな少しずつ違うのが当たり前。
それを、もうちょっと幅広くやってみてもいいのかなと。
一生その服を着続けろ、ということでもありません。
一瞬着てみて満足したら脱げばいいし、「案外着心地いいな」と思ったらベースの下着にしちゃってもいい。
自由です。
■ 大義名分を手放して、軽く遊ぶ
「自分はこういう人間だから」という思い込みがあると、あたらしい服を着ようとも、あたらしい場所に行こうとも思えません。
「私は一生このままです、私はこういう人間ですから」なんて言って、静かに自分を壁の中に囲い込んでしまう。
でも、次の瞬間、全然違う人になってたっていいんです。
周りはビックリするかもしれないけれど、ビックリさせるのも私ですから。
そうやって重い鎧を脱いじゃったら、本当に楽になりました。
だから、私の大願も、「趣味」として実現させていけばいいじゃんって。
「社会問題解決のために」とか「このままだと地球が大変なことになるから」とか、そういう大義名分を掲げてやるんじゃなくて。
豊かで幸せな資産家が「ちょっとした遊び場を作ってみました」くらいで回す。
その方が変な思想もくっつかないし、むしろ軽やかに回っていくよなと思っています。
重い鎧を脱いで丸裸になったから、これからは何を着たっていい。
そんな、私の近況報告でした。
ではではみなさん、今日もよい一日をお送りください。
ありがとうございました。