【現代の空海】大瀧冬佳さんの舞台で起きた自己と世界の「更新」について

【現代の空海】大瀧冬佳さんの舞台で起きた自己と世界の「更新」について

10月16日、そして20日に、ダンスアーティストである大瀧冬佳さんの舞台公演『天ノ鳥船』と『ふた花』を観に、北九州芸術劇場に伺いました。

冬佳さんの舞台は、私にとって、大袈裟でもなんでもなく、人生を変えてしまうほどの圧倒的な「体験」でした。
2週間経った今でも「あれは一体何だったんだ」と、言葉が追いつかない状態が続いています。

でも確かなのは、あの舞台に触れてから、私自身が、そしてこの世界が、「ずっとずっと更新され続けている」という感覚が常にあるということです。

■ 空海さんが表現したかったであろう「宇宙観」

私が冬佳さんを知ったのは今年に入ってからです。
以前、東寺の立体曼荼羅に触れたとき「時間(X)・空間(Y)・人間の意識(Z)のクロスポイントに、無数の宇宙が存在し、万華鏡のように常に常に更新され続けている」というイメージをインストールしたのですが、驚くことに冬佳さんも全く同じものを曼荼羅の前で受け取られていたのです。
フォロワーさんに冬佳さんの動画のリンクを送ってもらい、再生した時、ほんとうにびっくりしました。

今回の舞台を拝見して、「空海さんがやりたかったことって、これだったんだ……」と確信しました。
舞台上には、ピアノとピアニストの福田基さんと冬佳さんと数名の演者さんだけ。
非常にシンプルな構成なのに、3次元以上のものを3次元で表現したような、圧倒的な空間の使い方で、まさにこれぞ「総合芸術」だ、と感激しました。

■ 未知の強刺激「サリエンシー」と畏怖の念

この体験を言語化するヒントを、『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫 國分功一郎著)の「サリエンシー(未知の強い刺激)」という言葉に見つけました。
通常、人間が強烈なサリエンシーに晒され続けると、予測モデルを作って刺激に慣れようとしたり、暇に耐えられず次の刺激を求める病的な渇望状態に陥ったりします。

しかし、冬佳さんの舞台という「予測不可能な強い刺激」に晒され続けても、その病理的なシステムは発動しませんでした。
なぜか。
それはあの空間に触れた私に、圧倒的な「畏怖(いふ)」の感覚が立ち現れていたからです。
畏怖とは、私なりの言葉で言えば「超越的なものに触れた時にやってくる、怖くて美しい、美しくて怖い」という感覚です。

■「痛みの再統合」の仕組み

この圧倒的な畏怖の感覚は、私が過去にミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ像」や、広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」に対峙した時のものと非常に近しいものでした。

人智を超えたエネルギーに包まれ畏怖するとき、内側に沈殿していた痛みや傷が浮上し、それを自らの「運命」として引き受け直すという「再統合」が起こります。

大きな「愛」(と呼ぶほかないもの)の中で「どうして私は、私として、いまここにあるのか」という問いだけが残され、保障され続ける。
宇宙の前にただひとり、自分だけが存在するという圧倒的な「独在」の感覚。
その感覚に有無を言わさず晒され続けたことで、私の中でかつての世界が閉じ、また開かれるという「脱構築」が進んだのです。

■ 常に更新される世界とアートの真髄

舞台の終盤、冬佳さんが「降ろした」という言葉がスクリーンに表示されました。

「世界は更新されている。」

この言葉の通り、世界は常に、今この瞬間も更新され続けています。
それを言葉ではなく、音と光と身体表現だけで見せてくださったこと。
冬佳さんと同じ時代に生まれ、そしてともに生きているということ。
それは、とんでもない奇跡であり、僥倖であると受け取っています。

凄まじい芸術です。
みなさまも、ぜひ、彼女の舞台に触れてみてください。
強く強く、おすすめします。

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