小竹めぐみさんとの対話/いのちは凸凹(でこぼこ)だからこそ愛おしい

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、私、小出が今回お訪ねしたのは、保育士起業家として活躍される小竹めぐみさん。パートナーの小笠原舞さんとともに、「こども×◯◯」を軸としたコラボ事業(多様な分野の企業との共同事業)をメインに、この時代にこそ必要なモノ・コト・ヒトを生み出し、こどもや家族がより良く生きられる環境づくりを続けられています。そのほかにも、自主事業として、こどもと大人が同時に主役となって育ち合う「おやこ保育園」や、園舎を持たないインターネット保育園「ほうかご保育園」などのユニークな事業活動を通して、総じて「こどもたちにとって本当にいい未来」を探求し続けられている、大変素敵な方です。

めぐみさんとは、共通の友人を介して、数年前に知り合いました。以来、気の合う友人として交流を深め、対話を重ねていく中で、私は思ったのです。めぐみさんの生き方の根底にある「いのちそのものからくる愛」が、そのまま、あの素晴らしい活動や表現の数々に結びついているのだ、と……。その「愛」ということばでしか表現できない「なにか」の正体を確かめたくて、今回、あらためてじっくりとお話を聞かせていただきました。

自他の「違い」を認めることから見えてくる世界のあたたかさ、いまここにあるものへの信頼感をベースに持つことの大切さ、ほんとうのコミュニケーションのあり方など、何気ないお話の中に「いまを生きるヒント」がたくさん散りばめられています。また、この対話を収録したとき、めぐみさんはちょうど妊娠7か月。おなかにもうひとつのいのちを抱えて生活する中で気がついたこともシェアしてくださいました。このタイミングで、めぐみさんと「いのちからはじまる話」ができたことをしあわせに思います。

多くの方にお読みいただきたい対話です。ぜひ、じっくりと、でも肩の力を抜いて、ゆったりとおたのしみくださいませ◎

決まった正解のない世界

小出:今日は「いのちからはじまる話をしよう」ということでお邪魔しています。まあ、めぐみさんと私って、普段から、言ってみれば「いのちの対話」ばかりしているし(笑)、取材だからって特別に気を張ることもなく、いつも通り、ゆる~くお話しができたらいいなと思っています。よろしくお願いします!

小竹:いつもの感じでね。よろしくお願いします。

小出:さっそくだけど、めぐみさんたちがやっている「おやこ保育園」(※1)に参加させてもらったり、あと、こどもみらい探求社のパートナーの小笠原舞さんとの共著『いい親よりも大切なこと』(新潮社=刊)、『70センチの目線』(小学館集英社プロダクション=刊)を読ませてもらったりして、私、あらためて、めぐみさんたちの活動を通して見えてくる世界が大好きだなあ、と思ったんだよね。その世界っていうのは、あえてことばにするなら、「決まった正解のない世界」っていうことになるんだけど。外側から押しつけられた「いわゆる正解」、それがない世界。

小竹:なるほど。

小出:「正解」がないからこそ、すべてが「大正解!」で。すでにここにこういうかたちであらわれているものを「そうだね、そうだね、そうだよね」って、ただ、受けいれるともなく受けいれていくだけでいいんだな、って教えてもらえる。そのことがストンとおなかに入ってくると、肩の力が抜けて、視野が広くなる。これこそが本来的ないのちのあり方だよなあ、って思えるんだよね。

小竹:うわあ、うれしい。ありがとう! そうだね。確かに、私たちって、場づくりでも本づくりでも、そこでなにかを「伝えよう」と思ってやっていない。

小出:「伝えよう」と思ってやっていない?

小竹:もちろん伝えたいことがまったくないわけではないけれど、その伝え方に意識をつかっていて。だから、場づくりでも、本づくりでも、「こんなときにはこうしましょう」ではなく、「こういう風にもできるかもしれませんね」とか「こんなやり方もあります、あなたはどう感じますか」とかいう表現にとどめることが多いんだよね。

小出:あくまで「例」を提示しているだけなんだね。「これが正解です!」とは言わないで。

小竹:そうそう。いろんなものを並べて見せている感じ。なにかをつくるときにいちばん大事にしているのはそこかなあ……。

※1 おやこ保育園:こどもみらい探求社主宰の連続型プログラム。「園舎はなく、園庭は街ぜんぶ!」「こどもも大人も一緒に過ごして、どちらも主役になれる」「親も、こどもたちも、保育士も、みんなフラットな関係で育ちあう」という場。

花は、すでに咲いていた

小出:たとえばさ、普段と同じ道を歩いていて、「あれ? こんなところに、こんな花、咲いていたっけ?」って突然気づいてびっくりすることってあるじゃない? で、ひとつの花の存在に気づくと、同時にその周りに咲いている花の存在にも気づけるんだよね。「あ、ここにも咲いてた! あっちにも咲いてた!」みたいな。めぐみさんたちのお仕事って、言わば、花の存在に気づく力への信頼感を回復させていくことなのかな、って、いま、ふと思ったんだけど。

小竹:ほんとうにそこなんだよね。「あ、咲いていた!」と。でも、花が咲いていたこと自体に気づかないで、道をぱーっと通ってしまう人がやっぱり多いから、そんなに急がなくてもいいんじゃない? 一度立ち止まってみましょうよ、といった具合かな。

小出:しかも、その示し方も「これが花です!」「みんな、立ち止まってあれを見て!」っていうやり方じゃなくて、「花を見つける力はあなたの中にかならずあるんですよ」と、その可能性を指し示すことで、結果的に、その世界を自分の身をもって体感してもらう、そういうやり方なんだよね。とにかくおおらかというか、すでにそうあらわれているものへの絶対的な信頼感がど真ん中にドーンとあって、そこから世界を見ている感じがする。だからひとりひとりの違いに対しても寛容になれるし、むしろそれを尊重できるんだと思う。それこそ仏教的世界観というか、曼荼羅的世界観というか……。

小竹:曼荼羅? くわしく聞きたい。

小出:曼荼羅って、まあ、いろんなタイプがあるけれど、いちばん有名なのは胎蔵界と金剛界をセットにした両界曼荼羅というもので。そのうちの、とくに胎蔵界曼荼羅の方には無数の神仏の姿が描かれていて、しかも、どれひとつとして同じ姿をしていないんだよね。みんなバラバラなの、姿が。

小竹:ああ、見たことある。端っこの方には餓鬼みたいなのがいたりするんだよね。

小出:そうそうそう。「え、こんなおぞましい姿をした生き物が仏さまの世界にいていいの!?」って思っちゃうような姿をしたものも、曼荼羅の中にはきちんと描きこまれていて、その全体で「ひとつ」の世界を表現している。だから、存在がゆるされていないものがないんだよね、その世界においては。

小竹:なるほどねえ。

小出:しかも、全体でひとつだし、そこに描かれているどんな仏さまも、その一体一体で、また、ひとつの世界を表現していて……。入れ子構造になっているんだよね。

小竹:面白い。

小出:面白いよね! こういう曼荼羅の世界観が私は大好きなんだけど、それと同じ種類のおおらかさを、めぐみさんたちの活動には感じるんだよね。

それぞれの、花だから

小竹:確かにそうかもね。『いい親よりも大切なこと』も、「なんの本?」って聞かれたら、「人間、ひとりひとり違うよね、っていう本」と答えるしかないと思っていて。

小出:うん。

小竹:「違うよね、ひとりひとり」っていう。そこには主語もなくて。こどもも、大人も、保育士も。人って本来、年齢でも、性別でも、職業でも、国でも、地域でもくくれなくて、ひとりひとりがぜんぜん違うあり方をしていて。その「違うよね」っていうことを分かち合うために、細かく章立てをして、ひとりひとりがどれだけ違うかっていう、具体的な事例を並べているんだけど。

小出:じゃあ、やっぱりこの本の核というか、ベースにあるのは、最終章に出てくる「凸凹(でこぼこ)論」(※2)なんだ。

小竹:そうそう! 凸凹論もね、あんまり「論」とかを入れると色が出過ぎちゃうし、小難しい感じになっちゃうし、本に入れるかどうするか随分悩んだんだけど、やっぱり、ここを外すわけにはいかなくて。

小出:そうだよね。本に限らず、常に、めぐみさんたちの活動のベースにあるんだろうね、凸凹論が。

小竹:そうなんだよね。

小出:「みんな違う、それでいいし、それがいい」っていう。そこへの絶対的な信頼感の上に活動をしている感じがする。タンポポはタンポポだし、スミレはスミレだし、ポピーはポピーだし、みんなぜんぜん違うけど、違うからこそいい。ただ、そこに咲いている、その姿が「ひとつ」のいのちのあらわれ、そのものだから、っていう。究極的には良いも悪いもなくて、ただ、「いま、咲いているね」って。それだけでいいんだよね。

※2 凸凹論:こどもみらい探求社が提唱する理論。「自分自身の強みや弱みを含めた特性に気づき、受容することで、結果的に、他者の持つ特性をも受容できるマインドがつくられていくこと」と定義されている。

こどもを宿して気づくこと

小竹:「いま」っていうことで言えば、私、この数か月の妊婦生活の中でいろいろ気づくことがあったんだけど、そのうちのひとつが、「大人って、未来の話ばっかりしてくるなあ」ってことなんだ。

小出:ああ……。

小竹:こどもがおなかにいる状態で人と会うと、みんな、いろんなことを言ってくれる。たとえば「生まれるのが楽しみね!」とか、「こどもと一緒の生活がはじまるね!」とか、「どんな子に育つんだろうね!」とか。

小出:うん。

小竹:でも、そういうことを言われるたびに、もちろんありがたいんだけど、「そこあんまり考えてないわ」って思う自分もいて。

小出:さすが(笑)。

小竹:私としては「いま」を大事にしていければそれでいい。こどもが生まれたあと、家族とどんな暮らしをしていこうとか、どんな風に育てたいとか、正直、ほとんど思い描いていなくて。それよりは、「あ、いま、ポンッて蹴った……」とか、「おなかってこんな風に出るんだ……」とか(笑)。そういう、自分の素の気持ちをひとつひとつ味わっていくことの方に興味がある。

小出:すごいなあ。一貫しているなあ。

小竹:まあ、これはあくまで私の話だし、誰かに共感して欲しいとも思わないんだけど。でも、未来の話をしてくる人が多いなあ、っていうのは、ひとつ、実感としてあるよ。

小出:そっかあ。未来に希望を見るのは決して悪いことじゃないけれど、それによって、いまここにすでにある豊かさに気づけなくなっているんだとしたら、それは、すごくもったいないことだよね。

小竹:そう。あと、「もっともっと!」って見上げるクセみたいなのも人間にはあるよね。でも、「いま」の価値をそのまま認められた人は強いと思う。

小出:うん。しなやかで、強いよね。しかし、めぐみさんはこどもができてもまったく変わらないなあ。常に「いま」を生きている。

小竹:もちろん私も変わるときには変わるのかもしれないけど、ここに関しては、そんなに自分の中から変化がやってきたりはしていないよ。ただ、日々おなかが大きくなっていくだけで(笑)。

いつも通り変化中!

小出:変化って、そもそも時間の経過を前提にした概念だから、「いま」しかない人には、そもそも変化を変化として見ることがないんだよね。

小竹:そうかも。だって常に変化しているよ、って話だもんね。

小出:そうそう。私たちって、ほんとうは常に変化の中にいて、でも、いまを基準にして見てみれば、結局そこに変化はないんだよ。いつだって「いま」だから。

小竹:「いつも通り変化中!」だよね。

小出:まさしくそれだね。常に変化しているという事実は変化しません、みたいな。そういうところを生きているからだと思うんだけど、めぐみさんって、どういうわけか、いつ会っても「はじめまして!」っていう感じがするんだよね。これまでに何回会って話をしていても、毎回新鮮に、まったくあたらしく出会える感じ。

小竹:うれしい。

小出:もちろん、どんどんいろんなことを共有して、関係性が深まっていくっていうことはあるんだけど、それでも毎回新鮮な気持ちで出会える。それは、たぶん、めぐみさんが、いつもあたらしい気持ちで世界と出会っているからだと思うんだよね。思い込みや固定観念を通して世界を見ない。「これはこうに決まってる!」とか「こうしなきゃだめなんだ!」とかがなくて、それこそ決まった「正解」を持たないままに、ただ、いまを生きている感じがする。

小竹:そっかあ。ありがとう。

小出:私のことも、「小出遥子」という固定された存在として見てないな、っていうのが伝わってくるんだよね。「あなたはこういう人だから」っていう決めつけがないところで、ただ、一緒にいられる。それがすごく心地いいし、ありがたいなって。

完成しなくても、成就しなくても

小出:そんなめぐみさんの本だから当然なんだけど、『いい親よりも大切なこと』も、「ほんとうにそれだけが答えなのかな?」とか、「そもそもほんとうにそうなのかな?」とか、そういうところを、全編通して問いかけてくれるなあって。「それだけじゃないかもしれないよ」っていう可能性を、まったく押しつけがましくなく、やわらかく示してくれていて。私は、この本に書かれていることは、子育て以外のすべてのジャンルにもそのまま応用できると思っているんだけど。

小竹:それはうれしいなあ。

小出:いまを生きるって、そのまま自由を生きることなんだって、理屈じゃなく教えてくれる本だよね。やっぱり、人間、過去や未来のことを考え過ぎると、思い込みという狭苦しい枠の中で生きちゃうんだよ。「昨日までこうだったから、今日もこうに違いない」とか、「未来にこんなことが起こって欲しいから、もしくは起こって欲しくないから、いまをこういう風に生きるべきだ」とかさ。「べき」が出てくると、どうしても苦しくなってしまう。

小竹:それに関連して言えばさ、人って、どうしても、「完成する」とか「成就する」とかだけをポジティブにとらえてしまうじゃない? でも、いまという瞬間には、ポジティブもネガティブもないんだよね。

小出:ほんとそれ! そうなんだよね。

小竹:自分が考えるゴールに辿り着けなかったとしても、いまというところから見れば、どんな瞬間だって、ほんとうは祝福で。でも、やっぱり、人間って、誰かと別れたとか、仕事を辞めたとか、それまでのストーリーが一度終わるっていうことに対して、必要以上にネガティブな評価をしてしまう生き物だなあって感じている。

小出:自分の思うゴールに辿り着くこと、それだけがしあわせなのか、って言ったら、決してそうじゃないからね。実は自分がぜんぜん意識していないところで、実は、すでにしあわせの中にあったりするわけで。そこに気づければ、生きることは、少しずつ楽にはなっていくかもしれないね。

小竹:そうだね。人間、どうしてもベタッとした気持ちを持つときだってあるし、それを人生の醍醐味として味わうことだってあるけれど、でも、カラッと生きた方が自分が楽じゃない。足取りも軽いし。どっちのスイッチを押したいか、って言ったら、やっぱり私は後者を選びたい。

小出:すごく大切なことだね。

「いま」を生きることは人間にとってちょうどいいこと

小竹:常々思っているのは、「いま」を感じながら生きるっていうのが、人間にとってちょうどいいことなんだよな、っていうこと。

小出:ああ……。ほんとそう。というか、人間、ほんとうはそれしかできないのかもしれない。できないことをやろうとするから、話がややこしくなってくるわけで。

小竹:そう。未来を描きながら、かつ、過去を学びに変えながら、いまを生きる! ……なんて無理なんだよね(笑)。このいまこそがかけがえのないギフトだし、逆に言えば、ひとりの人間のキャパシティってそのぐらいしかないんじゃないかな、って、そんな気がしているんだよね。だからやっぱり「しすぎない」っていうのは大事なことだと思う。

小出:いまにストンと落ち着けると、不思議なことに、過去にも未来にも、ちゃんと必要なときにアクセスできるようになるし。無理にそれらにフォーカスを当てなくても、必要な知恵は、必要なタイミングで与えられる。それはほんとうに実感しているよ。だから、まあ、「大丈夫」なんだよね(笑)。なにも心配することはない。まあ、心配だって、自分の意志とは関係なく、起こってくるときには起こってくるんだけど。

小竹:でも、いま遥子さんが言ったように、どうしても、人間、余計なことを考え過ぎて迷走しちゃうように作られているっていうのも、またひとつの事実なわけで。ほんとうは、呼吸をするように、ごく自然に心地よく生きていけるように作られてもよかったはずなのに、そうはなっていない。ジブリの『かぐや姫の物語』じゃないけど、どうして人は、こういう風につくられたのかな、とは思う。

小出:確かに。ずっと天界みたいなところにとどまっていれば、いろんな思い煩いからフリーでいられたのにね。降りてきちゃったわけだからね。ストーリー的に言えば、だけど。

小竹:だから、ネガティブな意味じゃなくて、そういうベタッとした気持ちを味わってしまうのも、人間の凸凹さというかね。未完成がそのまま愛おしいし、いいなあ、とも思う。

小出:そういうめぐみさんのあたたかな視点こそが「いいなあ」だよ。

小竹:いやいや(笑)。でも、ほんとうに、「凸凹だからこそ」だな、と。

小出:『いい親よりも大切なこと』にも書いてあったね。「自分では弱みと思っていても、人から見たら強みであることもある……ということをお忘れなく!」って。凸凹論の素晴らしいところってそこなんだよね。人を決して裁かない。そのまま、ありのままを受容してくれる。最初に凸凹論を知ったとき、思わず泣いちゃった。あまりにもあたたかくて、やさしくて。

小竹:ありがとう。うれしいなあ。

愛でるべきものは、いまここに溢れるほどある

小竹:「ここにはなにもない」と思っている人に、「ちゃんと咲いているよ」って、そのことを伝えてあげられたらいいな、って。「大丈夫、もうできているよ」って。これまで出会ってきた多くのママさんたちも、「自分にはあれができていない、これもできていない」って思い込んで、「もっとこうしないと、ああしないと」って焦って苦しくなっちゃう人が多い。だけど、「すでに咲いているよ」「ちゃんとあるよ」「もうできているよ」って伝えることで、なにか見えてくるかもしれない。そして「いろんなことをひっくるめて、この現実も、そう悪くないのかも……」って思えるかもしれない。

小出:そのステップはすごく大事だね。

小竹:そう。本人がそこに納得感を持ってないのに、一方的に「いまを生きるのはいいことだよ」って言っても説得力がないし。

小出:「いまを生きる」をかたちだけのスローガンにしても仕方ないものね……。そこは、やっぱり、本人の「あ、そうかも、ほんとうかも」がないと。小さくても、大きくても、「気づき」をちゃんと重ねていかないとね。自分でね。

小竹:私、『いい親よりも大切なこと』の中ですごく好きなところがあって。大人はエンターテイナーにならなくていい、今日という日のいろんな要素がすでにこどもたちのエンターテイナーなんだから、っていう……。ここね。

家の中にだって、子どもが楽しめる要素がたっぷりあります。たとえば、今日料理する夕飯の素材を、ひとつひとつ触らせてあげるのだって、立派な出会い。子どもにとっては、遊びにもなります。
包丁でトントントンと野菜を切る音、ジャッという炒め物の音。そんな音だって、子どもたちは十分楽しむことができます。
そういう子どもたちの楽しみ方を見ていると、いつも大人の想像を超えてくるなあと思います。無理にこちらが何かしてあげようと思わなくても、ただ、暮らしの中に、彼らが反応する出会いや遊びや学びの要素がたくさんあることを知ってほしいのです。それがわかった上で、一緒に“暮らしそのもの”を楽しんでみてください。
日常の中にすでにある、音、光、香り……といろんな要素が今日をつくっています。特別なことをしなくても、そのひとつひとつに出会っているということを知っているのが大切なのです。

(同書60ページより抜粋)

小竹:世界って、素敵じゃない?

小出:ほんとうだね。必要なものは、すでに、ここに、ぜんぶある。

小竹:そうそう。日常の中にすでにあるんだよね、ぜんぶね。こういう要素のひとつひとつが今日という日を作っていて、そのひとつひとつに、私たちは出会い続けている。「今日の愛で方」って、誰も教えてくれないでしょう。そういう講座があるわけじゃないし(笑)。

小出:「今日の愛で方講座」かあ(笑)。

小竹:私としては、いまの文章が、そのまま「今日の愛で方」だと思うんだよね。

小出:確かに。大切なことが書いてある。しかも、これも繰り返しになるけれど、そこに決まった「正解」がないっていうのがすごいいいよね。なにをしたって、どう感じたってOKっていう。

小竹:愛でるべきものは、ここに溢れるほどあるわけだからね。

小出:そのことに少しずつでも気づいていければいいよね。

「こんな時代」と嘆くより

小出:やっぱり、不安をベースに生きていると、なかなかいまあるものに目が行かないから。でも、いまあるものに目を向けないと、永久に不安は解消しないんだけどね。

小竹:私も「こんな時代にこどもを産むのって、不安じゃないですか?」「こんな世界で子育てするの、怖くないですか?」なんて言われることがあるんだけど、正直、「え?」って思っちゃう。逆に言っちゃうもんね、「この世界、すごく素敵だと思いますけど?」って。

小出:そう言えるめぐみさんが、すごく素敵だと思う。

小竹:もちろん、原発とか、外交関係とか、食の安全の問題とか、いまの時代ならではの、課題と呼ばれるもの・ことたちはいろいろあるけれど、そんなことを言い出したら、いつの時代だってキリがない。さっきの曼荼羅の話と一緒で、それも含んでひとつの世界だし。

小出:まずはそれを認めないとね。もちろん、反対すべきときはちゃんと反対したいし、行動すべきときはしっかり行動したいとは思うけど。でも、不安なところにばかりフォーカスしていても仕方ないからね。それをやっていると敵を増やしちゃうんだよね、知らず知らずのうちに。

小竹:そうそうそう。不安でいっぱいになると、人って厳しくいろんなものを見てしまう。「私はこれを選びます!」って言って、それ以外のものを拒絶するような生き方をしてしまう。見ていてすごく苦しそうなんだよね。

小出:人間、なにを選んで生きてもいいと思うんだけど、その選択のベースに「怖れ」があると、結局苦しみの中で生き続けることになっちゃうんだよね。そういう雰囲気って、どうしても、その人の周りにもにじみ出てしまうし。そういう人に、彼らが恐怖心から選んだものを勧められても……たとえば「安全な」食品とか衣類とか……やっぱり、「うーん」ってなっちゃうよね。もちろん、そういう食品とか衣類とかが悪いっていう話ではぜんぜんなくて、それを選ぶあなたのこころのベースにはなにがあるのかな、っていう話ね。

小竹:そうだよね。

人のこころを動かすものの正体は

小竹:やっぱりさ、人って、なにかその人からあふれ出る魅力にこそ惹かれるものじゃない? 私、いまでも鮮明に覚えているんだけど。10代のときにね、友達と、その友達の外国人の彼氏と一緒に食事をしたの。そのときに、その外国人の男の子が、普通だったらテーブルに置いてあるペーパーナプキンを使うようなシーンで、自分のハンカチを取り出して、それで代用したのよ。で、思わず「なんで? この紙を使えばいいのに」って言ったら、彼はさらっとこう答えたの。「木が好きだから」。

小出:すごい!

小竹:ほんとうにひとこと。それだけ言って、さっとハンカチをしまって、それでおしまい。それ以降一切しないの、その話を。

小出:それはしびれるなあ……。

小竹:もう、それが、10代の私には衝撃で、たまらなかったの。なんてシンプルな答えなんだろう、って。

小出:うん。まったく過不足がない。

小竹:そうなの。人が人になにかを勧めている姿を見ると、いつもあの彼の姿を思い出すんだ。その人から自然ににじみ出るなにかこそが、人のこころを動かすんだよ、だから言い過ぎなくていいんだよって。

小出:いいお話。ほんとうにその通りだなあ……。

小竹:みんなそれぞれに違う理由があって、違うものを選んでっていうのを繰り返して生きてきているわけだから、突然「いや、こっちの方がいいよ!」と言われても、そう簡単に聞く耳を持てないよなあ、と。

小出:そうなんだよね。頭の中だけでなにかを考えてしゃべっている人のことばよりも、ほんとうにおなかの底から自分が好きだと思うものに自然に向かっている人からにじみ出る雰囲気の方にこそ、人は惹かれるんだよね。なんか、それこそがほんとうの意味でのコミュニケーションなのかもしれないな、とも思うし。

小竹:わかるなあ。

「いのちからはじまる話をしよう」

小出:ほんとうに心地いいコミュニケーションって、実は、頭を介さないところにあるのかもしれないと思っていて。なんて言うのかな……。それこそ、さっきの話じゃないけど、いまここに、すでにすべてがあった、みたいなところに、ふたり同時に気づく瞬間とか。まあ、そう頻繁にあるものじゃないけど、そういうときに、「あ、いま私たち、なんの過不足もない、完全に完璧なコミュニケーションがとれた」って思うんだよ。そこには大きなよろこびがあるんだよね。根源的な、いのちのよろこびって言うのかな。

小竹:うんうん。

小出:逆にさ、どんなに理路整然としていても、その人の頭の中で閉じちゃっているような話はまったく響いてこなくて。やっぱりさ、そこに「対話」があって欲しいんだよね。一方通行だとコミュニケーションが成り立たない。

小竹:ああ、それ。私は、講演会っていうスタイルで話すのも聞くのもあまり好きではないのだけど、まさにそれが理由。私も、会話のキャッチボールがしたいタイプだから。一方的な話を続けることは心地よくない。

小出:私もそうかも……。まあ、好みの問題だけどね。単純に、私は、こっちの方が好きです、っていうだけで。

小竹:そうそう。個人的には、っていう。

小出:今回のこの話もそうだけど、Templeでやっていることって、あくまで「対話」なんだよね。ダイアローグ。だから「取材」と言ってもインタビューじゃない。私はインタビュアーとしてここにいるわけじゃなくて、あくまで「なにものでもないいのち」として、いまここであなたと向き合っています、っていうスタンスでやらせてもらっていて。

小竹:すごくよくわかる。自分も相手もほんとうに本音でしゃべって、本気で向き合って、そこに生まれてくるものを眺めるのが好き。

小出:うん。だから、めぐみさんと話しているとすごく心地いいよ。あとね、最初に言ったけど、今日のこれも、あくまで「いのちからはじまる話をしよう」なんだよね。「いのちってなんですか? 教えてください!」じゃないんだよ。

小竹:素敵。

小出:私はいのちの定義を知りたいわけじゃなくて……そもそも定義できるものだとも思ってないし……ただ、ここで、いま、私とあなたが向き合っていて、そこに生まれるダイナミズムとか、自然にこころが動く感じとか、それを分かち合いたいだけなんです、みたいな。

小竹:遥子さんの場合は、いのちについて知っていくことよりも、いのちというキーワードをきっかけに対話をすることによって、そこに生まれるものを純粋にたのしんでいる感じがするなあ。

小出:うん。ほんとうにそれだけなんだ。

対話は「起こすもの」ではなく「起こるもの」

小出:Templeっていうのはそういう場なんだよね。小難しい理屈抜きに、単純に、そこにあらわれるものをたのしみましょう、っていう。そこでなにが話されていてもいいの。もちろん、対話の中に真実めいたものが見え隠れしたりすることもあるし、それはすごくたのしい瞬間だし、それを記事にまとめるのが私の役割なんだけどね。でも、それこそ、ジャズのセッションじゃないけど、その時間、その瞬間に、なにものでもないいのち同士が出会って、こういう音を奏でましたっていう、単なる記録とも言えて。

小竹:あくまでコミュニケーションなんだよね。

小出:そういうことなの。だからさ、「取材」と言っても、Templeの場合、「絶対にこの質問だけは聞かなければ!」みたいなのを持って臨むことがあんまりなくて。ただそこで、尊敬する相手と一緒にいて、いのちのあらわれを愛でるだけ、みたいな。究極はね。もちろん、準備はできる限り入念にするし、相手に失礼のないようにしようとはこころがけているけど。なんかね、さっきもジャズのセッションって言ったけど、「対話」って、あくまで「起こるもの」であって、決して「起こすもの」じゃないんだよね。相手へのリスペクトの気持ちをもって、ただ向き合っていれば、そこに自然と流れが生まれてくるから、それを信頼していけばいいんだな、って。最近よく思うよ。

小竹:わかる気がする。私たちもよく取材を受けるけど、同じ質問がとっても多いの。そうすると、やっぱり、たのしくはないんだよね、こっちも。せっかく毎回違う記者さんと会っていて、その人と、今日この時間に会えることはもう二度とないのに、同じことを繰り返ししゃべるのは、なんだかもったいないよね。もちろん、記者さんは、子育て中のママさんが知りたいことを質問してくれるわけで、だから同じような質問ばかりになってしまうのもわかるし、そういうメディアはそういうメディアとして役割があることもわかるんだけど。

小出:そうだね。どんな場であっても、人と向き合うときは、できるだけ、唯一無二のいのち同士として出会いたいと思ってしまうよね。

小竹:そういうことだね。さっき遥子さんはリスペクトっていうことばを使ったけれど、とっても共感。さらに言えば、それ以前に好奇心だな、と。相手への好奇心がないと、ほんとうの意味でのコミュニケーションって成り立たなくて。

小出:確かにそうかも。好奇心か……。

小竹:それがない会話ってすぐわかる。「あ、仕事としてやっているな」と。

小出:そうだよね。仕事相手として出会ったとしても、できる限り、人間同士のコミュニケーションをたのしみたい。それは私も思う。

いのちは水もの。常にかたちを変えている

小出:なにに対しても、好奇心は枯らしたくないよね。私もさ、Templeをはじめてから数年が経つし、もう何回も「いのちからはじまる話」をしているけれど、飽きるどころか、ライフワークになりつつあって。できるだけ長く続けていきたいな、と思っているんだよね。それは、やっぱり、毎回そこにあらわれるいのちのかたちが違っていて、好奇心が尽きないからなんだよ。いのちって、いつだって生もので、決まったかたちがないから。

小竹:ほんとうにそう思う。いのちは、水もので、生ものよね。

小出:まさしく! いのちっていつだってここにしかなくて。だから「わかったぞ! これこそがいのちだ!」って言って掴んだら、その瞬間にそれはカラカラに干からびて、いのちとは違うものになってしまう。

小竹:それってどんな分野についても同じことが言えるよね。保育もそう。我が子のこともそうで、知ろうとしないと知れないし、知っていると思っても、ほんとうはなにも知っていないんだよね。

小出:そうかも……。いやあ、好奇心って、ほんと大切だわ……。

小竹:だから、まあ、「わくわく!」とかっていうと、なんか薄っぺらい感じに聞こえるかもしれないけれど、やっぱりすごく大事だなって思う。

小出:好奇心がないと、いまここにあらわれているいのちのダイナミズムを見逃してしまうもんね。あとさ、好奇心っていうところで言えば、こどもを見ていると思うけれど、彼らってほんとうに、好奇心以外で動かないなあ、って。

小竹:本来はそうなんだよね。せき止めるものがないからね。

小出:こどもは、基本的には「べき」で動かないから。でもさ、大人だってほんとうはそうなんだよね。大人もこどもも関係なく、ほんとうはみんな好奇心をベースにして、頭で考えたことじゃなく、こころで感じたことをベースにして動いていい。でも、それ以外の要因がいろいろ重なり過ぎて、こころひとつで転がることが難しくなっているわけだけど。

小竹:そうだね。

小出:この間もある方とお話ししていたんだけど、その方も「自分が感じたことがそのまま正解」って繰り返しお伝えくださっていて。「考えたことは間違っている可能性があるけれど、感じたことはぜんぶ正解なんだ」って。それってつまり、いまを生きていれば、その姿がそのまま正解っていうことなんだよね。いまは「感じる」ことしかできなくて。「考える」が起こるのも間違いなくいまなんだけど、その中身は、かならず過去や未来のことでさ。そうすると、やっぱり、ズレが生じるんだよね。

小竹:うんうん。

小出:まあ、正解っていうことばも難しいけれど。対極に不正解を置かない、絶対的な正解、ということね。もう、ただそれしかないっていう。それってそのまま圧倒的な受容とセットになっているんだよね。いまここにあるものを、過不足なく受容していくっていう。ほんとうにそれだけで。それはね、めぐみさんたちの活動からも感じるんだけど。……うーん、なんか、今日、ずっと同じ話をしている感じがするな(笑)。でも仕方ないか。究極的なところはシンプルだもんね。

小竹:そうそう。そうなんだよね。すごくシンプル。

小出:……というところで時間がきてしまいました。なんか、あらためてめぐみさんといろいろお話できてよかったよ。大切なところを確認できた気がする。たのしかった。今日はほんとうにありがとうございました。

小竹:私もたのしかった! ありがとうございました。

小竹めぐみ(こたけ・めぐみ)

1982年生まれ。合同会社こどもみらい探求社共同代表。NPO法人オトナノセナカ創設者。

保育士をする傍ら、家族の多様性を学ぶため世界の家々を巡る女1人旅を重ねる。
特に砂漠とアマゾン川の暮らしに活動のヒントを得て、2006年より、講演会等を通して【違いこそがギフトである】と発信を始める。

幼稚園・保育園などで勤務した後、現合同会社こどもみらい探求社共同代表・小笠原舞との出会いから、こどもがよりよく育つための“環境づくり”を生業にしようと決意し、独立。

多様な分野の企業・地域とのコラボレーションを重ねながら「そのまんま大きくなってね」と、こどもたちに言える社会の土壌をつくり続けている。人の持つ凸凹を大切にしながら、日々の変化を楽しみに暮らしている。

※「まいてら新聞」【小竹めぐみさん(保育士起業家)の“いのち”観】 – 「死」とは……? まだ、“わからない ” ままでいい - も、どうかあわせておたのしみください。

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