【日記】2024年10月26日(土)曇り 弥勒菩薩と舘野鴻さんのお姿に学ぶ

5時起床。

歯磨き、天液、アムラタブレット。
身支度を整えて、瞑想・勤行。
コーヒーを飲みながらぽつぽつと事務作業。
ソイラテににがりを入れたら豆乳成分が凝固して
おぼろ豆腐入りコーヒーに……。
もう2度と同じ過ちは繰り返さないぞ!(涙)

7時50分頃流生さんといっしょに家を出て、駅へ向かう。
駅で切符を買い、近鉄特急へ乗って、一路京都へ。
車内は割と混んでいた。
行楽シーズンの土日だものね。

京都駅でJRに乗り換えて、太秦駅を目指す。
今日は数年ぶりに、私の大好きなお方に会いに行くのだ。

大好きなお方とは、こちらです。
ででん!!!

広隆寺・弥勒菩薩半跏思惟像。
私を(広義での)「仏道」へと導いてくださった菩薩さま。
私をミッションステートメントにも鎮座ましましておられるこのお方は、
今日も広隆寺霊宝殿のど真ん中に堂々と坐っておられた。

霊宝殿にはほかにも国宝・重文級の仏さまがたくさんいらっしゃるのだが、
ほかの像には目もくれず(ごめんなさい)一目散に弥勒さまの前へ。
お像の前の椅子に座って、さっそくその美しいお姿を拝ませていただく。

何分そのままでいただろう。
この弥勒さまの前では、完全に時間の概念が消失してしまう。
それほど、ただただ美しく、私の胸のいちばんやわらかい場所に
ダイレクトになにか大切なことを訴えてくる菩薩さまなのだ。

今回も、いろいろ、いろいろ「対話」をさせていただいたのだが、
ひとつ、はっきりと気づいたことがある。

私は、もう、この弥勒さまを、
「他者」として認識はしていない、ということ。

弥勒さま=私、とは、もちろん、決して言うことはできないのだが、
それでも、私自身のロールモデルは間違いなく目の前のこのお方であり、
つまるところ、私自身が、私という人間の可能性を、十全に発揮したときの姿が、
象徴的にあらわされているのが、このお方なのだということ。

私=弥勒、ではないけれど、
わたし=弥勒、というか、わたし=菩薩、なのだ。

自分自身を菩薩として、精一杯この世界に「役立てて」いくこと、
毎瞬毎瞬、光の方向に自分自身を「開いて」いくこと、
それを続けている時、私は、すべてとともにある「わたし」として、
真・善・美の体現者として、天と地とを清らかにつないでいくことができるのだ、と。

クラファンとか、その先にある「あるねマガジン(仮)」の刊行とか、
個としての自分にとっては荷が重くて、恐ろしくて、足がすくむようなこと、
やるかやらないか、正直、いまでも迷い続けているのだが(いまならまだ引き返せる!)、

でも。

「弥勒さまだったら、どうする?」

そう自分に問いかけたら、答えは一瞬で出てしまうのだ。

「やる」

その一択なのだ。

弥勒さまの横に、達筆な筆文字でこんな言葉が掲示されていた。

弥勒とは、お釈迦さまに代わり、この世のすべての悩み苦しみをお救いくださる、慈悲の仏さまです。
人間として正しい生き方を心がけ、十善戒を実践することで、身も心も清浄になり、安心を授けられ、悟りへとみちびいてくださいます。

やはり、菩薩は、人間の極まった姿、そのものなのだ。
ちなみに十善戒はこちら。(霊宝殿の前に掲示されていた。)

ふふふ、どれひとつとっても、実践できている気がしない!(笑)
でも、これは、「○○してはいけない」というようなものではなくて、
あくまで、そちらの方向に誘われやすい自分を戒めるためのものなのだと思う。

霊宝殿には結局1時間ぐらい滞在したのだろうか。
二人とも、午後の予定が迫っているので、名残惜しいが広隆寺を後にすることに。

流生さんは、霊宝殿という空間のエネルギーにあてられてしまい、
目がトロンとして、地に足が着かない感じになってしまった。
私は、今回は、逆に、地に足がしっかり着く感じになったのだが、
まあ、人それぞれだね。

JR太秦駅から二条駅に電車で移動して、市営地下鉄に乗り換えて東山駅へ。
流生さんが先日ひとりで入ってすごく美味しかったといううどん屋さんに向かう。
土曜日だったけど、そこまで混んでおらず、並んでから10分足らずで席に着けた。

昔ながらの、観光客をあまり当てにしていないような、
地元の方々に愛されている感じの、
こじんまりとした、古い(でも清潔な)お店。
流生さんはしっぽくうどん、私は天とじ蕎麦をいただく。

お出汁が上品で、すご〜〜〜く美味しい。
食べているうちに、流生さんも、だんだん落ち着いてきて、
少しずつ現世感が取り戻されていって一安心。

おなかがいい感じに満たされてあったまったところで、
12時40分頃お店を出て、流生さんは、小関勲さんの韓氏意拳の講習へ、
私は、絵本作家・舘野鴻さんのトークショーへ向かう。

トークショーは「きんだぁらんど」という、絵本専門店で行われた。
こじんまりとした佇まいの、京都の住宅街に溶け込んだ、
でも品揃えはかなりマニアックな(笑)素敵な本屋さん。

トークイベントは3部構成。
こんなスケジュール。

①第一部 13時〜14時半 
ジャズセッションとトーク(『虫や自然について』)

②第二部15時〜16時半 
どんぐりの映像とトーク(絵本『どんぐり』について)

③第三部18時~19時半 
舘野さん夜トーク 軽食+ワンドリンク付き

私は一部から三部までガッツリ参加。
流生さんは三部のみ参加。

はじめて直接お目にかかる舘野さんは、「ザ・エンターテイナー」という感じの方だった。
「表現」をするために生まれてきたような……そういうタイプの方だな、と一目で感じた。
(でも、ご本人は、「自己表現の手段として絵本を書いているわけじゃない。
絵本には自分自身は一切入れ込まないようにしている」とおっしゃっていた。
それも、すごくよくわかる。だからこそ、「ほんもの」だな、と感じた。)

絵本作家でもあり、昆虫研究者でもあり、
ジャズサックスの奏者でもある舘野さん。
(一時、「渋さ知らズオーケストラ」でも演奏されていたそう!
大学の学園祭に、私が所属していたサークル主体で「渋さ知らズ」に来てもらったのだが、
もしかしてその時舘野さんもいらっしゃっていたのだろうか。だとしたら、ご縁だなあ。)
お話もものすごく軽妙でユーモアに満ちていて、思わず何回も吹き出してしまった。

でも、当たり前だけど、単なる「お笑い」じゃない。(当然です!)
この方は、「いのち」のなんたるかを、
ど真剣に探求&探究し続けている、実践哲学者なのだ。

舘野さんが、ユーモアの奥にたまに滲ませる、
「切なさ」や「悲しみ」をベースとした「怒り」のエネルギーは、
「いのち」というものへの敬意のひとつの表現だと感じた。
「いのち」に対して、いつだって真剣だからこそ、表現が過激になってしまうこともあるのだ。
(でも、舘野さんの絵本の世界は、どこまでも「静か」。そのギャップも、いい。)

私と舘野さんを並べるのはさすがにおこがましいかもしれないが……
それでも、なにか、理屈を超えて「伝わってくる」ものがあって、
ああ、この方は、真の探究者だ、私と同じ「問い」を持った方だ、と確信して、
ご縁の巡り合わせに何度も感謝した。

休憩時間に、ご著書にサインをいただきながら、
あらためてご挨拶をさせていただく。
私のやっていることもざっと説明させていただき、
「ぜひ、いっしょにお仕事を!」と、早速オファー!
熱意が通じたのか、快く引き受けてくださった。(と思う!)

舘野さんのお話をうかがっている間中、あるお坊さんのお顔がずっと浮かんでいた。
このお二人の対談、めっちゃ面白そう。
ぜひぜひコーディネートさせていただきたい!
「あるねマガジン」の企画として、どうだろうか。
真剣に考えてみよう。

二部が終わってから少し時間があったので、
小関さんの講座を終えた流生さんと待ち合わせて、
東山駅前のカフェに入って軽食をいただく。
流生さんが小関さんの講座で感じたことと、
私が舘野さんのお話で感じたこと、テーマがいっしょで感動した。

18時に会場に戻り、本日ラストのイベント、
舘野さんを囲んだ飲み会……ならぬ、気軽なお話会。

ここで、現在私の天岩戸開きプログラムをご受講くださっているHさんと思いがけず遭遇!
Hさん、いらっしゃるなら言ってくださいよ! 水臭いなあ!(笑)
でも、めっちゃうれしかったです!

きんだぁらんどさんがご用意くださった軽食をつまみながら、
舘野さんがご自身の生のご経験の中で探究し続けた
「いのちってなに?」というところのお話を余すところなくお聞かせいただく。

舘野さんのお話には、もう、共感しかない。
舘野さんと私、たぶん、ものすごく「似ている」のだと思う。
世界を事実ベースで見ているところとか、「いのち」というものへの真摯な姿勢とか。
(流生さんも、Hさんも、そのように感じられたみたい。)
いろいろ突っ込んでお聞きしたかったが、それは今度、
お仕事をごいっしょさせていただく際のおたのしみ、ということにしよう。

あっという間におひらきの時間。
名残惜しすぎたが、明日も朝早くから瞑想会があるので、
後ろ髪引かれつつ会場を後にする。

京阪三条駅から丹波橋駅まで移動して、近鉄特急に乗り換え、
最寄りの駅に着いたのは21時半過ぎ。

家に戻った時にはさすがにフラッフラ。
歯だけ磨いて、22時過ぎには就寝。

今日も、ものすごく、濃密な一日だったなあ。
今日感じたことが、のちのち、私の人生に大きなインパクトを与えてくれるような気がする。
たのしみだな。

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