【日記】2024年10月10日(木)晴れ うんこと死体と観音さま

7時過ぎ起床。

身支度を整え、天液とコーヒーを飲んで、少しだけ事務作業をして、
8時50分頃、流生さんと一緒に家を出る。
今日は京都に映画を見に行くのだ!

大和八木駅から特急電車に乗り、丹波橋駅で乗り換え、
出町柳駅に着いたのが10時40分頃。

電車の中ではひたすらに伊沢正名さんの『くう・ねる・のぐそ』を読み耽る。
大真面目なタッチでひたすらに自身の野糞遍歴について語っているのが
可笑しくて可笑しくて、何度もふきだしてしまう。
こういう人、ほんとうに大好き。

本日のお目当ては、探検家・関野吉晴さんの初監督作品『うんこと死体の復権』
出町座といういい感じのカフェ兼本屋さん兼映画館での上映。

友人の紹介で知ったこの映画。
うんこと死体って……
「めぐりはぐくみコーディネーター・小出遥子」としては
万難を排して観に行かざるを得ないよね!

ってことで、京都での上映最終日である今日、奈良から遥々駆けつけたのだ。
ちなみに『くう・ねる・のぐそ』の井沢さんもご出演されています。

ぜんぶで40席ほどの小さな上映室の半分ぐらいが埋まってたかな?
お客さんはいかにも京都の単館映画館にいそうな人たちばかりだった。
映画上映前の待ち時間に、スマホを見るよりも文庫本を取り出して読むような……。

で、肝心の映画なのだが、これがもう、

「素晴らしかった……!」

のひとこと。

ありとあらゆる意味で「傑作」だったし(途中何度もふきだしてしまった)、
私がこれから歩む道に全力で追い風を吹かせてくれるような内容で、感動の嵐だった。

人糞(しかも「出し主」がわかるやつ。関野監督のうんちは大変ご立派だった……)やら、
動物の死体やら、それらに集う虫やらウジやらが、
モザイクなしでスクリーンに思いっきり映し出される(!)ので、
最初はもちろん拒絶感混じりの反応が出るのだが、
だんだんだんだん慣れてきて「当然のこと」みたいな感じになってきて、
中盤からはなにが映し出されても動じない感じになっていって、
なんならそこにえも言われぬ「うつくしさ」すら感じられるようになっていって、
むしろ最後の方には、大自然の営みとしての「いのちのめぐり」に対する畏敬の念に打たれて、
わけもわからず涙ぐんでしまう自分まで発見されて(!)大忙しの2時間だった……。

死体の分解の過程を詳細に描く絵本作家・舘野鴻さんの、
ネズミの死骸に湧いたウジを見ての、
「ネズミがウジになっちゃった」
というセリフが、大変印象的だった。

そう、いのちは、死んでも消えたりしないのだ。

スクリーンに映し出される、生々しいうんちや死体の周りは、
決して、暗く、おぞましい雰囲気なんかじゃなく、
むしろ、あっけらかんと明るく、にぎやかな光に満ちているように感じられた。

映画を見ている間中、私はずっと、阿弥陀来迎図を思い浮かべていた。
うんちと死体と来迎図、まったく同じ世界観、宇宙観を感じるよ。
(宗教関係者に「いっしょにするな!」って怒られそうだけど。)

私も、死んだら、こんなふうに葬られたいな。
虫や、ウジや、微生物たちに食べられて、
にぎやかに分解されて、うつくしく土へと還っていきたい。
火葬なんかしないで欲しい。
私が死ぬ頃には、それが可能な社会になって(というか「戻って」)いたらいいな。

あああ、この映画について、たくさんの方と語り合いたい。
上映会&シェア会開こうかな……。
ご出演されていた伊沢さんや舘野さんをお呼びして、直接お話も伺ってみたい。
「めぐりはぐくみコーディネーター」としての血が騒ぐ。

もちろん、この映画が「ぜったいに無理!!!」な人たちもたくさんいることは承知の上で。
でも、この映画を受け入れて、
さらに、その奥にある「うつくしさ」に魅了されてしまう人たちは、
必ず、一定数いると思うから。
私は、そういう人たちと深く語り合い、共に生きていきたいのだ。

それにしても、10日経っても分解されないうんちと、
その周りで虫が弱って死んでいる映像は衝撃的だったな〜。
あんなうんち(自然に還りにくいうんち)はしたくないし、
もっと言えばあんな死体にはなりたくないと強く思った……。

上映終了後、映画のパンフレットと本を2冊買い、
近くの「出町ふたば」さんの行列に並ぶ。
食べ物屋さんの列に並びながら、うんこと死体の映画の感想で盛り上がる私たち。
あ、もちろん小声でね(笑)。

映画を観ていて鮮烈に思い出したのは、私自身の幼少期のあるエピソード。
このエピソードについては、映画の感想と併せて、今度YouTubeでも語ろうと思うのだが、
とにかく、私、ちっちゃい頃から、
うんちやおしっこの「行方」について興味津々だったんだな〜、と、
自分自身の「一貫性」に感心してしまう……。
それと同時に、どうしてこんなに「都市」的なものに
昔から違和感を持ちつづけていたのか、その理由も明らかになった。

この映画に出合ったことで、私自身の過去・現在・未来が、
闇と光が、うつくしく統合・和合された感覚がある。
そうか、そういうことだったのか……。
「めぐりはぐくみコーディネーター」は、ほんとうに、私の天職なんだと思う。
自分はいま、「いい道」の上にいる。
すべての導きに、ただただ、感謝。

ふたばさんで、栗入り赤飯と、豆餅と、今の時期限定の栗餅をふたつずつ買い、
鴨川沿いで栗餅をさっそくいただく。

いいでしょう。
おいしそうでしょう。

なんか、この写真↓の私、冨永愛に似てないか?(似てないか!)
憧れていると近しくなっていくのかな〜。(だから似てないって!)

流生氏もご満悦。

さすが餅屋さんのお菓子、抜群の美味しさだった。
大満足で鴨川沿いをてくてくと徒歩で下り、次の目的地、
西国三十三観音霊場第十九番札所・革堂行願寺へ向かう。

鴨川沿いはゆったりした空気が流れていて、いいね。
お金のかからない遊び(キャッチボールとか、お絵かきとか、お昼寝とか)を
たのしめる空気が満ち満ちていて、深く呼吸ができる。
京都は素敵な街だな。

のんびり歩いて25分ぐらいで革堂着。

街中の、こじんまりとしたお寺。
でも、札所らしく、人々の「いのり」が折り重なった、
重厚な空気感のあるお寺だった。
私と流生さんのお経に、たくさんの人々の「いのり」の声が重なって聞こえた。
これは、どこの札所でもいっしょだけど。
すごいことだよね。

お経をあげ、回向を済ませ、
納経の証の御朱印をいただいて、さくっと参拝終了。
毎度のことだが、お勤めが終わると、すごくすっきりした気持ちになる。

革堂を後にして、次の目的地、十八番札所・六角堂頂法寺へ徒歩で向かう。
六角堂は大好きなお寺。
私の最推し・親鸞聖人が夢告を受けたお寺でもあるので、過去何度もお参りしている。

15時ぐらいにお寺着。
六角堂の本堂は、いい感じに暗くて、めちゃくちゃ雰囲気がある。

ご本尊の如意輪観音さまは、天道に迷う人々を救う仏さま。
天人は迷いの中の存在なのだ。
そんなもんに憧れると、生き迷うよーーー!

お経をあげている間、なぜか何回も咳き込んでしまった。
(境内にたくさんいる鳩さんたちの羽のアレルギー?)
が、無事回向文まで読み終わり(回向ってほんとうに素晴らしいシステム!)
御朱印をいただいて、親鸞聖人にもご挨拶をして、六角堂を後にする。

烏丸御池駅から市営地下鉄に乗り、京都駅まで戻る。
駅ビルの地下のうどん屋さんで、
私は天ぷらうどん、流生さんはカレーうどんを食べる。
気軽にふらっと京都の街に来れるって、すごく幸せだな〜。
こんな日常が送れていることに感謝。

16時半過ぎの特急に乗って奈良に戻る。
特急の中では二人とも爆睡。

最寄駅につき、スーパーでお味噌汁の材料のお野菜を買い、
徒歩で帰宅。18時過ぎだったかな。
帰宅後、私はこの日記を書き、流生さんも自室で好きなことをして過ごす。

20時頃、お味噌汁だけ作って、ふたばさんのお赤飯とで軽めの夕食。
ふたばさんのお赤飯、「さすが」のひとことだった。
こんなに美味しくて上品なお赤飯、食べたことない!
ひとくちずつ、しっかり味わって、噛み締めて、美味しくいただく。
しあわせ〜〜〜。

デザートとしていただいた豆餅も絶品。
そりゃみんな並ぶわな〜。
こんなに美味しいものが普通に街中で売られている京都、
あらためて恐ろしい街ですよ……。

食後、さっそく今日の映画にご出演されていた絵本作家・舘野さんの
「死」を描いた絵本を3冊注文する。
拝見&拝読するのがすごくたのしみ。

なんやかやしていたら23時過ぎ。
最近夜更かし気味だな。
そろそろ調整しなければ。

おやすみ、世界。
今日もおもしろおかしい一日だったよ。

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