南無阿弥陀仏が聞こえる

2016年8月19日

今日は、ちょっと本気モードのエントリーです。

 

(いや、いつだって本人は「本気」なんですけれどね。笑)

 

 

 

念仏のことを書きます。

 

南無阿弥陀仏のことです。

 

 

 

念仏って、「となえる」ものだと思われていますよね。

 

私も、そう思っていました。

 

念仏は、「となえる」ものだと思っていました。

 

 

 

でも、ごくごく最近気づいたんです。

 

念仏って、「となえる」というよりは

 

「聞こえる」ものだなあ、って……。

 

 

 

私という存在のベースには、

 

どうも、四六時中、

 

「南無阿弥陀仏」が響いているようなんです。

 

 

 

「ようなんです」と書いたのは、

 

それがあまりにも自然なこと過ぎて、

 

いままでそこに意識を向けたことがなかったから。

 

 

 

ほんとうに、ごく最近、自覚したんです。

 

 

 

いつでも、どこでも、なにをしているときでも、

 

「南無阿弥陀仏」が聞こえていることを。

 

となえるまでもなく、すでに聞こえていることを。

 

 

 

なんだろうな……。

 

こう、実際に耳で聞いているというよりは、

 

ただ聞こえているというか……

 

いや、すみません、わけわかんないですよね。

 

うーん。

 

聞こえているというか、ただそこにあるというか……。

 

 

 

それはいつだってそこ(というか「ここ」)にあって、

 

個人的な感情の高ぶり(うれしいときも、悲しいときも)が

 

起こってきたときに、特別クリアなものとして聞こえてくる。

 

そして、「聞こえる」とまったく同時に、

 

「となえる」ということが起きている。

 

そんな感じなんです。

 

 

 

これがいったいどういうことなのかは、

 

私にはさっぱりわかりません。

 

 

 

ただ、そういうことになっている。

 

それを、

 

受けいれるという意識もないままに、受けいれている。

 

 

 

そんな感じです。

 

 

 

私自身は、浄土宗の信徒さんでもないし、

 

浄土真宗の門徒さんでもありません。

 

(本家は父方も母方も浄土真宗ではあります。

 

けれど、父も母も、個人的には、どの宗派にも属していません。)

 

仏教は好きだし、熱心に学んでいるけれど、

 

とくべつ、どこの宗派に属しているわけでもありません。

 

 

 

それでも、

 

いつしか、私の存在の大元に

 

「南無阿弥陀仏」がどっしりと根を下ろすようになって……

 

というか、

 

ただ、そこに「南無阿弥陀仏」があったことに気づいた……

 

それだけなのかもしれません。

 

 

 

何度も書きますけれど、

 

私は、これがどういうことであるのかを

 

説明できるだけの技量を持っていないし、

 

そもそも説明するつもりもないんです。

 

だから、

 

これが「正しい」とか「間違っている」とか、

 

そういう議論にもまったく興味がなくて……。

 

 

 

でも、ただ、「ありがたいな」と思うんです。

 

ほんとうのほんとうに、ありがたいな、と。

 

主体も、対象もなく、

 

ただただ純粋に、ありがたいな、と……。

 

 

 

ただ、それだけ。

 

 

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

……本気なことを書くとどきどきします(笑)

 

でも、このまま載せちゃおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎