これでもまだ自分は罪を犯したことがないなどと言えるかね?

2016年8月15日

以前、こんなお話を聞いたことがあります。

 

 

 

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ある若者が、老人に向かってこんなことを言いました。

 

「私は、生まれてからいままで、

 

一度だって罪を犯したことがありません」

 

すると、老人はこう言いました。

 

「そうか。ならば目の前の庭から、

 

バケツ一杯分の小石を集めて持ってきなさい」

 

若者は素直にそれに従いました。

 

「持ってきました」

 

老人は言いました。

 

「では、これらの小石のぜんぶを

 

元あった場所に戻してきなさい」

 

若者は抵抗しました。

 

「そんなのは無茶なことです。

 

どこに石があったかなんて、いちいち覚えていません」

 

老人は静かにうなずいて、こう言いました。

 

「これでもまだ、

 

自分は罪を犯したことがないなどと言えるかね?」

 

 

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……どこで聞いたのか忘れてしまったので

 

出典は明らかではないのですが(すみません)、

 

なかなか含蓄のあるお話ですよね。

 

折に触れて思い出します。

 

 

 

ここでは「罪」、つまり「悪行」について語られていますが、

 

これ、すべてのことにあてはまると思うんです。

 

 

 

ぜったいにその全貌を明らかにすることなどできない

 

広大なご縁の網目の中に生かされている限り、

 

自分のすべての言動は、

 

かならず「誰か」や「なにか」にインパクトを与えていて。

 

 

 

その全体のダイナミズムのうちのごくごく一部を

 

写真機のようなものでバシッと切り取ったときに、

 

それぞれに浮かび上がってくるのが、

 

「善」とか「悪」とかいう概念になるのだろうな、と……。

 

 

 

だからなんなの? と問われても、

 

なにも言えなくなってしまうのですが……。

 

 

 

ただ、自分という存在を、

 

どうしようもなく縁の中に生かされているものとして

 

観ることができたのなら、

 

「自分は絶対的に善い存在だ」と

 

思い上がることはなくなるだろうし、

 

「あいつはどうしようもなく悪いヤツだ」と

 

誰かを責めることもなくなるだろうな、と……。

 

 

 

生きる、というのは、

 

無意識のうちに小さな石を拾い集めるようなことに

 

ほかならないんだろうな、と思うんです。

 

 

 

自分の言動が、いったいどこで、いったいどんな風に、

 

いったい誰に、いったいなにに、インパクトを与えていくのかを

 

明確に知ることは、ぜったいにできない。

 

 

 

でも、その事実を知っていれば、

 

少なくとも、謙虚に生きることはできるんじゃないかな、と……。

 

 

 

謙虚に生きる、っていうのは、つまり、

 

真人間として生きる、ということです。

 

 

 

「そうなっているもの」を

 

「そうなっているもの」として受けいれて

 

ただ淡々と、

 

目の前に立ちあらわれるすべてとともに生きていく……。

 

私の思う「真人間」は、そういう存在です。

 

 

 

そういうものに、わたしはなりたい。

 

 

 

ほんとうに、そう思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎