それだけ

2016年8月9日

もし、「見る」ということを

 

自分の力でやっているのなら、

 

見たくないものは見ないで済むはずだし、

 

もし、「聞く」ということを

 

自分の力でやっているのなら、

 

聞きたくないものは聞かないで済むはずだし、

 

もし、「嗅ぐ」ということを

 

自分の力でやっているのなら、

 

嗅ぎたくないものは嗅がないで済むはずだし、

 

もし、「味わう」ということを

 

自分の力でやっているのなら、

 

味わいたくないものは味わわないで済むはずだし、

 

もし、「感じる」ということを

 

自分の力でやっているのなら、

 

感じたくないものは感じないで済むはずなんです。

 

 

 

でも、実際には、

 

見たくないものだって

 

見えるときには見えてしまうし、

 

聞きたくないものだって

 

聞こえるときには聞こえてしまうし、

 

嗅ぎたくないものだって

 

嗅ぐときには嗅いでしまうし、

 

味わいたくないものだって

 

味わうときには味わってしまうし、

 

感じたくないものだって

 

感じるときには感じてしまう……

 

そういうことは、いくらだって起きてくるわけで。

 

 

 

それならば、

 

きっと、

 

「見る」も、

 

「聞く」も、

 

「嗅ぐ」も、

 

「味わう」も、

 

「感じる」も……

 

やっているのは、自分じゃない。

 

 

 

じゃあ、「誰」がやっているの?

 

 

 

……たぶん、誰も、やっていない。

 

 

 

ここにあるのは、

 

「見ること」

 

「聞くこと」

 

「嗅ぐこと」

 

「味わうこと」

 

「感じること」

 

ただ、それだけ。

 

 

 

行為の主体も客体もなく、

 

ただ、それぞれの、経験があるだけ。

 

 

 

それぞれの経験が、ダンスを踊っているだけ。

 

 

 

ほんとうに、ただ、それだけなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎