「なされている」ということ。

2016年8月5日

「○○をしよう」とか、

 

「○○を動かそう」とか、

 

そんな風にわざわざ思わなくても、

 

ほんとうは、すべてが、

 

ごくごく自然に「なされている」。

 

 

 

これってすごいことだなあ、と思うんです。

 

 

 

息をしよう、と思わなくても、

 

息は自然に起こってくれるし、

 

心臓を動かそう、と思わなくても、

 

心臓は自然に動いてくれるし、

 

汗を出そう、と思わなくても、

 

汗は自然に流れてくれるし、

 

髪を伸ばそう、と思わなくても、

 

髪は自然に伸びてくれる。

 

 

 

今朝だってそうです。

 

目を覚まそう、と思わなくても、

 

ごくごく自然に

 

目が覚めるということが起きた。

 

 

 

いつだってそうです。

 

見よう、と思わなくても、

 

見ることが起きているし、

 

聞こう、と思わなくても、

 

聞くことが起きているし、

 

嗅ごう、と思わなくても、

 

嗅ぐことが起きている。

 

 

 

「自分」がなにかをする前から、

 

すでにすべては「なされている」。

 

 

 

誰に?

 

 

 

「自分」以外に。

 

 

 

「自分」にできることは、

 

「すべて自分がやっている」

 

という「勘違い」をはたらくこと、

 

ただ、それだけなのかもしれません。

 

 

 

聞こう、と思わなくても

 

セミの声が聞こえてきて、

 

見よう、と思わなくても

 

白っぽい景色が見えていて、

 

感じよう、と思わなくても

 

夏の暑さというものが感じられる、

 

そんな2016年8月5日の東京の朝に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎