「○○をしよう」とか、
「○○を動かそう」とか、
そんな風にわざわざ思わなくても、
ほんとうは、すべてが、
ごくごく自然に「なされている」。
これってすごいことだなあ、と思うんです。
息をしよう、と思わなくても、
息は自然に起こってくれるし、
心臓を動かそう、と思わなくても、
心臓は自然に動いてくれるし、
汗を出そう、と思わなくても、
汗は自然に流れてくれるし、
髪を伸ばそう、と思わなくても、
髪は自然に伸びてくれる。
今朝だってそうです。
目を覚まそう、と思わなくても、
ごくごく自然に
目が覚めるということが起きた。
いつだってそうです。
見よう、と思わなくても、
見ることが起きているし、
聞こう、と思わなくても、
聞くことが起きているし、
嗅ごう、と思わなくても、
嗅ぐことが起きている。
「自分」がなにかをする前から、
すでにすべては「なされている」。
誰に?
「自分」以外に。
「自分」にできることは、
「すべて自分がやっている」
という「勘違い」をはたらくこと、
ただ、それだけなのかもしれません。
聞こう、と思わなくても
セミの声が聞こえてきて、
見よう、と思わなくても
白っぽい景色が見えていて、
感じよう、と思わなくても
夏の暑さというものが感じられる、
そんな2016年8月5日の東京の朝に。
よい一日をお過ごしください◎