な~んにもない、だだっぴろ~い空間に、
無数のシャボン玉が浮かんでいるとします。
シャボン玉は、どこからともなくあらわれて、
そしてあるときパチンとはじけて、
空間そのものへととけ去っていきます。
そのシャボン玉のひとつひとつが、
私たちが、「自分の」ものだと思っている
思考や、感情や、感覚だと思ってください。
それらは、ほんとうのところ、すべて、
縁によって、ごくごく自然にあらわれては、
縁によって、ごくごく自然に消えていくものです。
そこに所有格がつくことはありえません。
でも、私たちは、それらはすべて、
「自分」という輪郭の中で起こっている!
と思い込んでいます。
そうやって、全体との本来的なつながりを
見失ったままに生きてしまっているのです。
すべての不安は、その分離感を根本にして生じてきます。
でも。
そもそも「分離」することなんか可能なのかな?
「すべて自分の中で起こっている」という思考や、
「全体から切り離されて存在している」という思考、
それにともなう「悲しみ」や「やりきれなさ」などの感情、
しめつけられるような胸苦しさや、息のしづらさなどの感覚……
それらのすべて、ほんとうのところ、
な~んにもない、だだっぴろ~い空間に、
あるときふわっとあらわれては、
次の瞬間には消え去ってしまう、
ひとつひとつのシャボン玉に過ぎないのだとしたら?
“ほんとうの自分”ということばを使うとしたら、
それは、シャボン玉の方にあるのではなく、
果てしなく広大で、すでにすべてを受けいれている、
空間そのものの方にあるのではないでしょうか。
ひとつひとつのシャボン玉から、
それを浮かべる空間そのものへと
“自分”がシフトしたときに、
幼いときからずっとずっと抱え続けてきた、
どうしようもなく切り離された感じ、
決して解消されることのない分離感は、
まぼろしに過ぎなかったことに気づくでしょう。
シャボン玉も空間も、あくまでメタファーなので、
限界のあるものではありますが……
なにかの助けになれたのならうれしいです。
あなたのこころが安らかでありますよう。