私は、ずいぶん長い間、修行や探求というのは、
なんらかの「状態」を目指して行うものなのだと思っていました。
なにか理想とされる「状態」があって、
その「状態」になったあかつきには、
自分は、晴れてゴールテープを切ることができるのだろう、と。
でも、それは勘違いでした。
なぜなら、「状態」は、やはり「状態」でしかないからです。
「状態」って、刻一刻と移り変わっていくものですよね?
一秒前の状態は、いまここには決して見つからないですよね?
そんな心もとないものがゴールなの?
それってほんとう???
移り変わるものは、すべて、“気づかれている”ものです。
誰に? あるいは、なにに?
移り変わるすべてに対する、
唯一不変の“気づきの主体”に、です。
修行、探求によって、私たちがほんとうに見つけるべきなのは、
まさにその唯一不変の“気づきの主体”なのであって、
刻一刻と移り変わっていく「状態」なんかでは、決してない。
「状態」に気づいている“なにか”こそが、私たちの求めるものなのだ、と。
それは、まずひとつ、
かならず押さえておかなきゃいけないところだと思います。
そしてもうひとつ。
そもそも、それを「見つけよう」と頑張ること自体が、
絶対的な矛盾を孕んだ行為だったりするんじゃないかなあ? と。
目は、目自体を見ることはできないし、
鼻は、鼻自体の匂いを嗅ぐことはできないし、
舌は、舌自体の味を感じることはできない。
それはそれとして、すでに“ある”ものであって、
自分と離れたどこか遠くに見つかるものでは決してない。
なんらかの状態になろう、理想の姿を見つけよう、
と必死になるのではなくて、
ほんとうは、ただただそれとしてあるだけでいい。
すでにそれであることに気づいて、
ただただそれとして生きていくだけでいい。
そして、それは、特別な人にだけゆるされた
特別な境地なんかでは決してなくて、
ぜったいに、誰にだって可能なことなんです。
というか、ひとり残らず、いまここで、
ごくごくふつうにやっていることなんです。
唯一不変の“気づきの主体”としてのわたしと、
私が離れて存在していたことなんか、一度もない。
いまここにない「なにか」になろうと頑張るのではなくて、
力を抜いて、いまここにすでにあるそれと、ただただともにあること。
ゴールなんか、そもそもない。
いまここを、ただただ生きるだけ。
ほんとうに、ただ、それだけなのだと思います。
よい一日を◎