「私」がなにかをする前に、すべては、自動的に起こっています。
……というメッセージをお伝えすると、
私にできることはなにもないのですか!?
……と、涙目になって詰め寄られたりするのですが、
いやいや、大丈夫。
まずは落ち着いてください(笑)
そして、もう一度、
冒頭のメッセージを、じっくりと読んでみてください。
◎「私」がなにかをする前に、すべては、自動的に起こっている。
っていうことと、
◎「私」にできることはなにもない。
っていうことの間には、
絶対的な違いが存在していることに気づけますか?
そう。
上のメッセージにおいて、「私」は、完全に“不在”なんです。
つまり、こういうことです。
◎「私」にできることはなにもない。
のではなく、
◎そもそもなにかをできる「私」がいない。
のですね。
◎「私」にできることはなにもない。
◎そもそもなにかをできる「私」がいない。
このふたつ、使っていることばは似ているけれど、
実際は、ま~ったく違う事象を指し示していますよね。
そこに、「私」が、いるか、いないか。
この違いは、大きすぎるほどに、大きいです。
そして、ここにこそ、
「ほんとうのこと」のエッセンスがつまっています。
ほんとうのほんとうに、すべては、縁によって、
瞬間ごとに生滅を繰り返しているだけであって(=縁起)、
実体を持って、なんらかの行為を
選択している存在としての「私」っていうのは、
実際、まったく、どこにも見つからないんですね(=無自性)。
そこには、どんな実体もない、
ということだけが存在していて(=色即是空)、
それゆえに、“すべて”が、そのように
あらわれ出ることがゆるされている(=空即是色)。
「私」の不在性が見抜かれると、
「私」の影に隠れていた全体のダイナミズムが、
むき出しにあらわれてきます。
そこには“流れ”だけがあって、
すべてが、それそのものとして、
ただただ純粋に戯れている……。
「私」はいない、というメッセージを
きちんと腑に落とさないままに、
仏教をはじめとするさまざまな知恵・智慧を、
あたまだけで理解して取り入れようとしてしまうと、
つまらない虚無主義に陥って、
結果、苦悩を深めてしまうことになりかねません。
ほんとうに、「私」って、どこにもいないんですよ。
そして、これはあたまのおかしい人の戯言なんかじゃなくて、
(そう聞こえるかもしれないけど……!笑)
実際に、よくよくすべてを観察してみたら、
あっという間に見抜けてしまうことだったりするんですよね。
心臓から血液を全身に送っているのは誰?
いま、あなたのあたまの中に鳴り響いている音楽を選んだのは誰?
すべて、「私」不在で起こっていませんか?
逃げないで、怖がらないで、よくよく観察してみてくださいね。
その先に開けるものは、想像以上に大きいから。
お花見には、まだ、ちょっとだけ早いかな。
よい一日をお過ごしください◎