「すでに、完全に救われていた……!」
ということに気づいた瞬間をもって、
ほんとうの救いと呼ぶのではないかなあ、と思うのです。
こんなお話があります。
阿弥陀如来は、仏になられる前、法蔵という名前の菩薩でした。
法蔵菩薩は、あるとき、このような誓いを立てられました。
「すべての人を救いきるまで、自分は決して仏になるまい」。
やがて法蔵菩薩は厳しい修行をおえて、阿弥陀如来になられました。
……ってことは、ですよ。
法蔵菩薩の誓いは、すでに、間違いなく成就された、
っていうことですよね?
現に、すでに阿弥陀如来になられているわけですし。
つまり、
私たちは、すでに、完全に、完璧に、救われている!
っていうことですよね?
これってすごいことですよ。
これから救われる、のではなく、
もう“すでに”救われている。
安心感が、ぜんぜん違うと思うのですよね。
私たちは、すでに、完全に、完璧に、救われている――
すでに――
これほど大きな愛はないんじゃないでしょうか。
でも、すでにその愛の中にあることを実感するのは、
なかなか難しいことなのかもしれませんね。
ちっぽけな個人に比べて、仏の愛は、
あまりにも大きすぎて、捉えどころがないから。
それでも、愛は、いつだってここにあって、
私たちがその存在に気づいていても気づいていなくても、
まったく変わらずに、すべてを包みこんでくれているんです。
個人というまぼろしの枠が取り払われた瞬間っていうのは、
そのまま、
巨大な“すでに”に取り込まれる瞬間です。
“すでに”の与えてくれる安心感の中にあって、
私たちは、まぼろしのこの世界を、
遊ぶように、踊るように、生きていけるのです。
今日からお仕事の方も多いのかな?
よい一日を◎