ほんとうのところ、すべて、
自分の意志以前、思考以前に
「“すでに”起きている」んですね。
前にもご紹介させていただきましたが、
お時間がある方は、ぜひ、以下のリンクに飛んでみてください。
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/satori1.html
有名な(主に禅の)お坊さんの「さとり」のきっかけが
一覧にまとめられています。こんな感じ↓
ゴータマ・ブッダ:暁の明星がまばたくのを見た時
一休宗純:烏の鳴き声を聞いた時
盤珪永琢:梅の花の香りを嗅いだ時
山田無文:真黄色な銀杏を見た時
抜隊得勝:谷川の音が心身に沁み渡った時
かなりマニアックだけど、面白いでしょう?
で、この一覧を眺めていると、
ふいに、こんな気づきが訪れるんですね。
さとりの瞬間って、
つまりは“ふいの一撃”を喰らった瞬間なんだなあ……
って。
そして、
「“ふいの一撃”を喰らった瞬間」っていうのは、
とりもなおさず、
「意志以前、思考以前に“すでに”ある世界に、
理屈を超えたところから“気づいて”しまった瞬間」
のことなんじゃないかなあ……
って。
で。
意志以前、思考以前に“すでに”ある世界っていうのは、
はっきり言って、
ま~~~ったく特別な世界じゃないです。
だって、私たち、ふだんからその世界で、
ごくごくふつうに生きているのだから。
ただ、それに気づいていないだけで。
私たちは、ふだん、当たり前のように、
なにかを見たり、聞いたり、嗅いだり、
味わったり、感じたり、考えたり……
しているわけですよね?
でも。
でも! です。
このすべて、ほんとうに、
ほんとうのほんとうのほんとうに、
「私」がやっていることなのでしょうか?
ほんとうは、すべて、「私」不在で、
「ただ起きている」だけなのでは――?
たとえば、自室の机で作業に没頭しているとき。
ふいに、玄関から「ピンポーン」という音が聞こえたとします。
その「ピンポーン」って、
いちいち自分が「聞こう」という意志をもって
しゃかりきに頑張るようなことをしなくても、
ごくごく自然に、「聞こえてくる」のではないでしょうか?
「私がピンポーンを聞いた」っていうのは、
「すでに起きている」ことへの後付けの解釈、
つまり、単なる「思考」でしかないですよね?
その「思考」を取り払ったところで、
「すでにある世界」には、
実は、ま~~~ったくなんの影響もないっていうこと、
わかりますか?
私が見る、私が聞く、私が嗅ぐ、
私が味わう、私が感じる、私が考える……
そこから「私が」を取ってみてください。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、考える……
ただ、それだけがある世界。
「私が」なにかをする前に、
“すでに”すべてが展開されている世界。
すべてが、そのまま、ありのままに、ただある世界。
それが、ほんとうの世界です。
ほんとうの世界と「ひとつである」私、
もっと正確に言えば、
ほんとうの世界と「ふたつでない」私、
それを、ふいに発見してしまった瞬間を、
昔から、「さとり」の瞬間と呼んできたのではないかな。
「さとり」なんて、ちっとも特別な世界じゃない。
いま、目の前に展開されている“それ”が、そのまま、
あなたの求めてやまない“素晴らしき世界”
……なのかもしれないよ?
金曜日。
今日も、そのまま生きていこう。
よい一日を◎