昨日の続きです。
しつこいけれど、もう一回引用しますね。
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大峯:小林秀雄さんが昔書いていたけど、世の中のものは全部移り変わると、人生は無常だと誰でも言う、けれど人生はいったい何に対して移り変わるのかと。
池田:「あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろう」
大峯:人生がそれに対して移り変わるところのもの、移り変わらないものがどこかにないと、移るということも言えないのではないか。これは現代人が一番忘れているものだと思います。
(『君自身に還れ 知と信を巡る対話』 大峯顕・池田晶子=著 本願寺出版社=刊 より抜粋)
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「あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろう」
“何”に対して過ぎ去るのだろう……
“何”に対して……
この“何”っていうのは、
ただただ、もう、ほんとうに、ただただ、
いつだって“ここ”において、
“すべて”を浮かべている、舞台としての“なにか”
……としか呼べないもの、なのではないでしょうか。
いや、煙に巻くつもりはまったくなくて……
ただただ、そうとしか表現できない“なにか”。
“ここ”にあるのは、
ほんとうの意味では、ただ、それだけで……。
「私」が生まれて、
ありとあらゆる「思考」や「感情」や「体感」と共に生きて、
そしていつか死んでいく。
それらの経験のひとつひとつを、
良いとも悪いとも思わず、
よろこびもせず、悲しみもせず、怒りもせず、
愛しもせず、憎みもせず、
浮かんでは消えていく“すべて”を、
一切の判断を差し挟まず、
ただただ、“それそのもの”としてありながら、
まったく同時に、
“そのように”あらしめている“なにか”。
「私」が生まれる前からまったく変わらず“ここ”にあって、
死んだ後にもまったく変わらず“ここ”にある“なにか”。
その“なにか”は、いま、この瞬間にも“ここ”にある。
この「私」と、まったく同時に“ここ”にある。
“なにか”は、そのまま、
ほんとうの“わたし”と言ってもいいかもしれない。
瞬間ごとに移り変わる「私」と、
不生不滅で、不垢不浄で、不増不減な、ただある“わたし”。
「私」と“わたし”がまったく同時に、いまここにあること。
すべてがそのようにあることがゆるされている、
その不思議さと、うつくしさ。
なんて圧倒的なんだろう。
愛って、ただ、このことを言うんじゃないかな。
愛でないもの、なし。
愛の中で、生きていこう。
よい一日を◎