人っていうのは、ほんっっっっっとうに、
すべて、自分の見たいようにしか見ないのだよな~、と。
先日もそれを実感する出来事がありました。
ある年下の友人(ということにしておこう……)から、
泣きながら電話がかかってきたのです。
簡単にまとめると、
「会社の上司二人とソリが合わない」
といったようなお話だったのですが、
まあ、結構厳しいことばでの叱責が、
社内で日常的に繰り返されているようなんですね。
「あなたは本当に人の話を聞けない人間だよね」
「友達少ないでしょう? そうに決まってるよね」
「クールっていうか、なにに対しても情熱が持てないタイプなんじゃない?」
とかなんとか……。
う~~~~~~~~~~ん……。
部下の仕事上のミスを注意するのは上司の仕事だとしても、
そこから進んで、その人の人格にまで口出しする権利なんか、
ほんとうは誰も持ってないと思うのですが……。
っていうのは、まあ、私の個人的な感懐としておいておいて。
いや、私、少なからず驚いたんです。
だって、その上司二人の彼女評と、
私が彼女に対して持っている印象は、
ほとんど真っ向から対立しているような感じだったから。
「別人のことを話しているのでは!?」というぐらい、
その上司の方々の語る彼女像と、
私の描く彼女像が、もう、まるで違い過ぎて。
私と彼女は相当長い付き合いですが、
彼女という人間は、
もう、とにかく、め~~~ちゃめちゃ聞き上手で、
たくさんの人に愛されていて、友達も当然多くて、
情熱的で、クールの「く」の字も見当たらない、
ものすごくあたたかくてやさしい女の子、なんです。
その印象が崩れたことは、一度だってありません。
彼女の上司二人のおっしゃっていることと、
はっきり言って、真逆も真逆ですよね……。
いや、だからと言って、その上司たちに見る目がない、
と言いたいわけではないんです。
(まあ、個人的には文句のひとつでも言ってやりたいけど。笑)
その方々の目から見れば、彼女は間違いなくそういう人間なのでしょう。
というか、「彼女をそういう人間として見たい」という欲望が、
その方々の中に間違いなくある、というのが正確ですかね。
もちろん、それは私自身にもそのままあてはまります。
もっと言えば、彼女自身の中にも、
「自分をこういう人間として見たい」という欲望はあるし、
それを通してしか、人と関われない、っていうのはあるでしょう。
なにが言いたいのか、というと、
冒頭のことばに戻りますけれど、
人っていうのは、ほんっっっっっとうに、
すべて、自分の見たいようにしか見ないのだよな~、
っていうことです。
同じ人物を見ても、その印象はばらばらです。
人だけじゃない。
物事すべてに対して、みんながみんな、ばらばらの印象を持っています。
「自分」に対してもそうです。
みんながみんな、「自分の見たいように見ている」んです。
「誰か」や「何か」は、人の数だけある、ということです。
ひるがえって、「世界」も、人の数だけある。
そうなってくると、そこに「正しさ」なんか、
そもそも存在できないということに気づいてきませんか?
世界がひとつであるのなら、
客観的な「正しさ」というものが成立して然るべきですが、
実際、決してそうはなっていないのだから。
「絶対的な正しさ」なんて単なるフィクション、
決して完成しないおとぎ話にすぎません。
なのに、あたかも「正しさ」という塔が
外側に確固たるものとして存在しているかのように思い込んで、
「私が正しい」「あんたが間違っている」
「間違っているのだから私の考えに合わせるべき」
「いや、そんなわけない、私の方が正しくて、あんたが間違っている」
とかなんとか、あちこちでやりあって、傷つけ合っているのが
私たち人間の姿なのだろうなあ……と。
いや、ほんと、「正しさ教」からは、一刻も早く抜け出した方がいいです。
そうでないと、いつまで経ってもこころが休まらないです。
脱退方法はただひとつ。
人間の目から見れば、世界は決してひとつじゃない、
ということを、こころの底から思い知ること。
それだけです。
そうしたら、自分がしがみついていた「正しさ」の塔は、
大元から崩れ去ってしまいます。
まあ、一回崩れても、すぐにまた再建されるんですけれどね(苦笑)
でも、そうなっても、
何度でも「世界はひとつじゃない」に立ち返ればいいだけですね。
今日はひとりの人間としての立場から記事を書いてみました。
仏目線(というかなんというか……)から同じことを書いたら、
きっとまったく違った表現になるのでしょうけれど、
(でも結論はまったく一緒になるのですが。)
それはまた今度、機会があれば。
よい一日をお過ごしください◎