たとえば、ゲームに夢中になっている男の子がいるとします。
どんなにお母さんが呼びかけても返事もしません。
それほど、ゲームの世界に没入しているのです。
さて、この男の子の状態をもって、
「瞑想に入っている」と表現することは、できるでしょうか?
……というような問いが与えられたとき、
以前の私だったら、
「そりゃあそうでしょう!
集中し切っているんだから、それはそのまま瞑想です!」
と、張り切って答えていたと思うのですが、
でも、自分自身、我流ではあっても、
数年間、瞑想を毎日実際に実践してみたり、
瞑想について思うことをまとめてみたりした結果、
ちょっと、その判断には、
慎重にならざるを得なくなってきたんですね。
「瞑想=集中すること」というのは、
決して間違ってはいないのですが、
でも、その「集中」の中身は、
決して一種類じゃないんだよなあ、と。
簡単に言えば、
「周りが見えなくなるタイプの集中」と、
「すべてとともにあるタイプの集中」、
この二種類がある。
「閉じてるヤツ」と「開いてるヤツ」
ってことですね。
(こんなCMありましたよね……。)
で、これ、別にどちらが優れている、
ということもなくて、
もちろん、どちらも必要ではあるのですが、
ただ、この世界において、誰かや、なにかと、
積極的に関わって生きていきたいのなら、
やっぱり、「閉じている」よりは、「開いている」方が、
やりやすいし、わくわくするし、楽しいよ、と。
生きている感動を味わえるよ、と。
それは、ひとつ、言えることではあるので。
それで、
その「開いている」タイプの集中というのは、
そのまま、
「すべて」としての「わたし」に気づいていること、
と言い換えることができるんですね。
ここで、ちょっとだけ注意が必要なのは、
“「すべて」としての「わたし」に気づいている”
というのと、
“「私」が「すべて」に気づいている”
というのとは、
まったくもって、似て非なるものだということです。
前者には定まった中心がないですよね?
対して、後者には中心がある。
それで、ここからが大切なのですが、
前者には定まった中心がないからこそ、
すべてが中心になりうる、
中心として存在しうるんです。
「わたし」ということばの指す対象の範囲が、
この皮膚の内側に閉じ込められた
個としての「私」を超えて、
文字通り「世界のすべて」に広がっていく……。
定まった中心がないと、
そういうことが可能になってくるんです。
そこで起きているすべてに、
“すべてとして”気づいている状態。
“気づきの意識”そのものとして存在している状態。
「すべて」としての「気づきの意識」としての
ほんとうの「わたし」として、
ただただ、ある、という状態。
それが、「開いている」タイプの集中、
つまり、この世界を感動しながら生きていく、
その手立て(……でもないのですが、ほんとうはね)としての
瞑想状態のときに、それそのものとして、
起きてくることなんじゃないかなあ、と。
……すみません。最後、ちょっと、
あまりにも抽象的すぎましたね。
もうちょっとわかりやすい表現を見つけたら、
また、あらためて書いてみます。
さて、月曜日。
今週はどんな感動があるかな。
よい一週間を◎