ほんとうのところ、世界には、
「善」も「悪」も、
「正」も「邪」も、
「上」も「下」も、
すべて、すべて、すべて! ない!!!
ないったらない!!!
……のだけれど、
でもね、
そこはやっぱり、人間だもの、
「好み」っていうのは、最後まで残るんですね~。
特定の「誰か」や「何か」を
特別に好ましく思うこと。
好ましく思って憧れること。
憧れにしたがって行動すること。
それは決して悪いことじゃないですよね。
むしろ、そういうのがあるからこそ、
人生に彩りが生まれるのだと思います。
問題は、単なる個人の「好み」を、
それそのものとして放っておけなくなったときに、
生じてきてしまうと思うんですね。
単純な「好み」に、
「善悪」や「正邪」や「上下」をくっつけて語り始めると、
話がややこしくなってしまうんです。
だから、そうだな。
たとえば、私は、ふだんは、あまり肉を食べません。
ほとんど、大豆食品とか乾物とか(笑)野菜とかを食べて、
それで満足しています。
でも、私がこういう食生活を送っているのは、
別に「豚や牛がかわいそうだから」でも、
「エコだから」でも、
「菜食は人間として至上の食事だから」でもなくて、
単純に、こういうのが「好みだから」なんですね。
好きなんですよ、
大豆食品や乾物や野菜を中心とした食事が。
それだけです。
それでいいじゃない。
……と思うんです。
だから、ほんとうに、単純な「好み」だし、「趣味」なんです。
「主義」として肉を食べないようにしているわけじゃなくて、
(出されたらいただくし、食べたいときは思いっきり食べるし。
そういや昨日も唐揚げ食べたな……。あはは!笑)
「趣味」としてやっているに過ぎないんです。
「好み」にしたがっていったら、ごく自然とこういう生活になっていった。
そういうのって、いけない?
「好みだから」って、理由としては弱いのかなあ?
やっぱりもっともらしいことを並べ立てないと納得してもらえない?
でも、その納得って誰のため?
自分のため? 人のため?
それってほんとうかなあ?
「善悪」や「正邪」や「上下」っていうのは、
あたまから生まれてくるものなんだと思う。
でも、「好み」っていうのは、
理屈じゃなく、おなかの底から出てくるものなんですよね。
私たちは、もっと、それを信じていいんじゃないかなあ。
事実として単純にある「好み」というものに、
「善悪」や「正邪」や「上下」をくっつけて
もっともらしく語っている自分に気づいたら、
ちょっと立ち止まってみることをオススメします。
こんな風にしていることが、自分にとっても、周りにとっても、
ほんとうに心地よくいられることなのかな? って。
「だって好みなんだもん」
これで一切はととのうような気がするのですが、いかがでしょうか。
自分の好みを、単純にそれとして認めてあげられたら、
今度は人の好みをも認められるようになっていくんですね。
「善悪」や「正邪」や「上下」なんかなくて、
ただ単に、無数の「好み」が散らばっているだけなんだ、と。
それってすごく平和な世界じゃないですか?
私は、そういう世界を、好ましく思うなあ。
今日もおなかの底から出てくるものに従って、
機嫌良く生きていこう。
よい一日を◎