「ゆるす」の真実

2016年1月31日

「ゆるす」

 

と聞くと、人間、どうしても、その対象を、

 

外側の誰かやなにかに、設定してしまいがちなんですよね。

 

 

 

たとえば、誰かに対して激しい怒りを覚えたその瞬間、

 

どこからか、「ゆるしなさい」という声が聞こえたとします。

 

すると、たいていの人は、

 

まず、自分を怒らせた相手の方を、

 

ゆるそうとしてしまうんじゃないでしょうか。

 

 

 

それが悪いことだと言いたいわけじゃないんです。

 

ただ、それよりも先に、

 

まずは、自分自身をゆるしてあげないことには、

 

ほんとうのところ、話はなにもはじまらないんですね。

 

 

 

相手の行為に対して怒りの感情を覚えている自分を、

 

まずは認めてあげる。

 

その事実を、事実として認めてあげる。

 

「ある」ものを、「ある」がままに、そのままに認めてあげる。

 

 

 

それをしないままに、相手の方を先にゆるそうとすると、

 

今度は自分を責めてしまうんですよ。

 

「悪いのは怒りを感じている自分自身だ……」

 

「どうにかして怒りを鎮めないと……」

 

って。

 

 

 

「ある」ものを「ない」ものとして扱おうとすると、

 

そこに強い抵抗が生まれるんですね。

 

その抵抗こそが、どうしようもない生きづらさの正体です。

 

 

 

もう、そんな苦しいことやめにしませんか?

 

 

 

「ある」ものは、「ある」んです。

 

それは、「縁」によって、

 

どうしようもなくあらわれてくるものなんです。

 

 

 

ほんとうに、ぜんぶ「縁」なんですよ。

 

うつくしい感情だって、みにくい感情だって、

 

細やかな感情だって、荒っぽい感情だって……

 

縁次第で、ぜんぶぜんぶぜんぶ、あらわれ得るんです。

 

これは、ほんとうのことなんです。

 

 

 

だから、まずは自分を認めてあげること。

 

ありとあらゆる感情を抱く、自分自身をゆるしてあげること。

 

「こうなったのも、ぜんぶ縁次第なんだものね」

 

「これでいいんだよ」「これ以外なかったんだもの」

 

「ちゃんと生きていて偉いね」「よくがんばっているね」

 

って、自分をまるごと肯定して、抱きしめてあげるんです。

 

 

 

それができて、ようやく、

 

外側の誰かやなにかを、こころの底から、ゆるすことができるんですね。

 

 

 

まあ、そのときには、「外側」も「内側」もなくなって、

 

そこには、ただただ、「縁」のたわむれがあるだけ……

 

ということになっているんですけれどね。

 

 

 

「私」という存在も、「あなた」という存在も、

 

果てしなく広大なご縁のネットワークの中に、

 

どうしようもなく組み込まれている、という点においては、

 

1ミリの差だってないんです。

 

 

 

ほんとうのところ、

 

ここには、「ゆるし」の主体も客体もなくて、

 

それは、ただただ「ひとつ」としてあるだけで……。

 

 

 

「ひとつ」を生きたいのなら、

 

まずなによりも、自分から、ですね。

 

自分という名の舞台に浮かび上がってくるすべてを、

 

ただただ認めて、ゆるしてあげる。

 

そこから、すべてがはじまっていくのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい日曜日をお過ごしください◎